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約束

南條さんと親しげに話す彼は一体…


下の名前を、聞いてしまった。

――けれど、それは彼女の口からではなかった。

喫茶店で働く、あの若い男性の声だった。


胸の奥に、小さなざらつきが残る。理由は分からない。ただその名前の響きが、僕の知らない彼女を映した気がした。


「結子さんが他の人と明るそうに話してるの、久しぶりに見た気がしますよ。」


「そう…?あんまり意識したことなかったけど」


「でもなんか、嬉しいです。最近、ちょっと元気なさそうだったから」


「ありがと、いつも心配してくれて」


――気づけば、僕は会話の輪から外れていた。

彼女とその男性の距離が、思ったより近い。

美男と美女。自然に笑い合う二人を前に、胸の奥に、言いようのない不安が広がっていく。

どうしてだろう、少しだけ、息が苦しくなった。


「あ、はるくん、珈琲のおかわりもらえる?」


「わかりました、同じので大丈夫?」


「ええ、大丈夫」


――晴くん。

南條さんが口にしたその名前が、脳裏にこだまする。やはり知り合いらしい。

それとも、もしかしたら――。


……いや、考えるのはやめよう。

そう思って視線を落とした瞬間、彼がこちらを向いた。


「あ、すみません。話の邪魔しちゃいましたね。自分、仕事に戻ります。じゃあ、失礼します」


「あ、はい……」


笑顔で会釈して去っていく彼の背中を、なんとなく目で追ってしまう。

再び、僕と南條さんだけになる。

けれど、先ほどまでのように自然に言葉が出てこない。胸の奥で、気持ちが少し沈んでいるのがわかる。


よくよく考えると、隣の席のはずなのに、僕と彼女の間には、一人分の距離があった。

ほんの少し――それだけのはずなのに、今になって、その距離がやけに遠く感じられた。


どうしよう。

何か話したいのに、言葉が出てこない。

気持ちばかりが先に走って、喉の奥で声が止まったままだ。カップの縁に視線を落とす。

ほんの数分前まで、あんなに自然に話せていたのに。今はただ、その横顔を見つめることしかできなかった。


その時――


「……さっきの、本のお話ですけど」


沈黙を破ったのは、南條さんのほうだった。

その声はやわらかく、どこか気まずさをそっと溶かすような響きだった。


「本、今は家にあるんです。

それで……もしよければ、次にお会いするときに、お渡ししてもいいですか?」


「えっ、またお会いしても、いいんですか?」


「奥田様が良ければですけど、」


「も、もちろんです!」


さっきまで胸の中にあった不安は、どこかへ吹き飛んでいた。いや、少しは、モヤモヤする部分が残っている。

紙の本を手に取ることがめっきり減ったこの時代に、“本を借りる約束”という古風なやりとりが、

こんなにも心を温めるものだとは思わなかった。


電子書籍では決して味わえない――

ページの手触りみたいな、偶然とぬくもりのある展開だ。そんなことを思いながら、僕は自然と笑顔になっていた。でも、一つだけ引っかかる。


「その、“様”ってつけなくていいですよ。そんな立派な人間じゃないですから」


「あ、すみません……少し硬かったですよね」


「でも、呼びやすいなら全然いいですよ。なんだか照れくさいですけど」


彼女は、ささやかな笑顔を見せてくれた。

距離が、ほんの少しだけ近づいた気がする。


「では改めまして――奥田さんは、ご都合のいい日ありますか?お仕事のない日とか。私は、来週の月・水・日が空いています」


僕はポケットからスマホを取り出し、バイトのシフトを開いた。(火・金・日)以外は、びっしり埋まっている。

日曜は空いているけれど――正直、そこまで待てる気がしなかった。行けそうな日はないか、

水曜日……その日は夕方からのシフトだ。


「僕、水曜なら仕事が17時からなので、それまでは空いてます。」


「お仕事の前ですよね……無理なさらなくても大丈夫ですよ?」


「いえ、全然大丈夫です! 時間は13時で、待ち合わせはここにしましょうか。…ど、どうでしょう。」


「――ええ、そうしましょう。」


言葉にした瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。

“また会える”――その事実だけで、

バイト前の疲れなんて、吹き飛んでしまう気がした。


集合時間と待ち合わせ場所を自分から指定するなんて、何年ぶりだろう。


テンションが上がりすぎている。

一度コーヒーを口にして、落ち着こう。

そう思って、唇にカップを当てた瞬間――


「熱っ!」


慌ててカップを置いた。

すっかり忘れていた。自分が猫舌だということを。


南條さんのほうを見ると、彼女はそんな僕の様子を見て、ふっと優しく笑った。


「ここの珈琲、けっこう熱いんです。ゆっくり冷まして飲んでくださいね」


――優しい。心配してくれている。



気づけば、あっという間に時間が過ぎていた。

それまで何を話していたのか、あまり覚えていない。

――きっと、忘れてしまうほど、自然に会話ができていたんだと思う。

コーヒーのカップも、いつのまにか空になっていた。


ふと窓の外を見ると、雨はすっかり止んでいる。

そのせいか、店内には少しずつお客の姿が戻りはじめていた。


「すいません、長々と話しちゃって」


「いえ、とても楽しかったですよ」


人が増えたせいだろうか。

気づけば、先ほどまでひとり分ほど空いていた距離が、近くなっていた。

――文字どおり、隣同士に。


僕は、コーヒーを口に運びながら、ふとスマホを見る。すると、画面には「夕方バイト」の通知が表示されていた。気分が落ちていく。


(あ、そうか、今日バイトか…嫌だな)


そっとカップを置き、彼女に伝えることにした。


「あの、僕、このあと仕事があって……そろそろ行きます」


「そうだったんですか」


(仕事、行きたくない。……今日くらい休んでも、バチは当たらないよね。)


そんな考えが、ふと頭をよぎる。

――休もう、そう決心し、その事を伝えようとした時、彼女は優しく微笑みながら、そんな僕の目を見て言った。


「お仕事、頑張ってください」


「はい! 頑張ります!」


その一瞬で、さっきまでの迷いは消えた。

――もちろん、休むわけにはいかない。


「えっと、な、南條さんは、お仕事、無理しすぎないでください。」


彼女は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐにやわらかく笑って言った。


「…ええ、そうですね。無理しないよう、気をつけます」


窓の外では、雲の隙間を抜けて光が差し込んでいた。この光景を、きっと僕は忘れないだろう。


この時が、人生でいちばん楽しかった時間であり、同時に、いちばん寂しい瞬間だった。


僕はそっと席を立ち、座席の下から荷物を取り出した。


「じゃあ……失礼します」


「奥田さん――また、水曜日に」


「――はい。また、水曜日に」


その声が、やわらかく胸に響いた。

最後に聞いた彼女の言葉は、次に会う日までの、小さな灯のように心を照らしていた。


高鳴る気持ちを抑えながら、レジへと向かう。

緊張の糸がふっと切れたように、足取りは少し軽くなっていた。


レジに着くと、先ほどの男性スタッフ――はるさんが対応してくれた。


「あの、タオルありがとうございました。コーヒー、とても美味しかったです」


「ありがとうございます。うちの珈琲、味も香りも自信ありますから。

……まあ、強いて言うなら、ちょっと熱すぎるのが欠点ですけどね」


思わず笑ってしまった。

確かに、少し熱すぎた。でも、香りだけは今も鮮明に覚えている。

カップから立ちのぼるその香りが、胸の奥にやさしく残っていた。


(あまりコーヒーは飲まないけど……今度、バイト先のを買ってみようかな)


そう心の中で呟きながら、僕は六百円を支払い、扉を押した。


カラン――。


「またぜひ、飲みにいらしてください」


振り返ると、はるさんが柔らかく会釈をしていた。

僕も軽く頭を下げて、喫茶店を後にする。


扉が閉まった瞬間、外の光が一気に目に飛び込んできた。そこには、近代的なビル群が並んでいる。さっきまでいたレトロな空間が、まるで夢の中の出来事のようにぼんやりと頭に残る


「14時か、そうだ、電車調べなきゃ…」


街に一歩踏み出すと、現実の日常がじわりと戻ってくる。改札を抜け、電車に揺られる。バイト先である東久留米まで、約1時間。そこからバスに乗って、30分。


出勤は17時だから、まだ余裕がある。一度自宅に戻って、少し落ち着いてから出かけよう——。

そんなことを考えながらも、どこかでまだ、珈琲の香りがしていた。


(この気持ち……いいアイデアが、産まれてくる感じ。忘れないうちに書き留めなきゃ)


僕はスマホのメモアプリを開き、頭の中にあふれるイメージを次々と書き込んでいった。

そのとき、今朝の新部さんの言葉を思い出す。


――あのね奥田さん、外出て経験積むのも仕事のうちですよ? ほら、インスピレーションってやつ!


あの人、やっぱりいい編集者なんだ。

そう実感できる一日だった。


東久留米駅に着くと、そのままバスに乗った。

最寄りのバス停で降り、

バイト先の――あのコンビニを通り過ぎて、歩いて十分ほどで自宅に着く。


「ただいま」


返事はない。けれど、誰もいないわけじゃない。実家暮らしだし、これもいつものことだ。


二階に上がり、自分の部屋へ行って荷物を置く。

それから一階へ降り、リビングの扉を開けると、台所で母が夕食を作っていた。

イヤホンをしているのか、僕の声には気づかない様子だ。


近づいて声をかける。


「ただいま」


「ん、おかえり」


ようやく気づいたらしい。僕は台所で手を洗い、再び二階へ戻った。


ベッドに倒れ込むと、喫茶店のことがふと頭をよぎった。静かな部屋の中で、自分の鼓動だけがやけに大きく響いている気がする。

さっきまでの光景や、あの香りが、まだ胸の奥に残っていた。


――ものすごく叫びたい。


漫画でよく見かける、あの「ドキドキ」という

オノマトペ。今なら、その表現の仕方が痛いほどわかる。これは「ドキドキ」だと思う。


気持ちを落ち着かせようと、リュックから原稿を取り出した。そこには、新部さんの赤ペンがいくつも走っている。細かく指摘され、丁寧に直された跡があった。


僕は棚から新しい原稿用紙を取り出し、時間いっぱいまで書き直しを続けた。

机の上には、赤ペンで書き込みのある原稿が散らばっている。

新部さんが容赦なく、けれど丁寧に一つひとつ直してくれた、その文字が目に焼きついていた。


『PLOO GYEMUプルーゲーム〈仮〉』。

もともとは、小説サイトに投稿していた短編だった。あまり評価を受けていなかった小説だったが、新部さんの提案で、いまは“本気の作品”として生まれ変わろうとしている。



「あ、違う、これじゃあ同じだ。」


言われた通りに、書かれた通りに直していく。

机の上には、消しカスが少しずつ積もっていった。時間だけが早く過ぎていくのに、文章はなかなか前に進まない。


ふとスマホの画面を開く。

時刻は16時40分。――元の原稿はあるのに、

一枚も書き終えていなかった。


来週の土曜には、また新部さんに見せに行く。

最低でも三十枚、第一章分を仕上げなければならない。

けれど、この調子じゃ間に合わない。


そう思いながら、僕はバイトへ向かう準備をした。外はもう夕暮れ。カーテンの隙間から差し込む光が、原稿の上を静かに照らしていた。


それを見つめながら、心のどこかで思った。


――あと七日、頑張らないと。


見ていただきありがとうございます!

木曜日〜金曜日の間に投稿します。


良ければ評価もお願いします。誤字脱字、変な所があれば直して、更新致します!

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