喫茶店『青の園』
勇気を振り絞った声は、きっと震えていたと思う…。
窓の外の雨よりも、自分の鼓動のほうがはっきり聞こえる。まさか、こんなところで――。
南條さんは本に目を落としたまま、淡々と活字を追っている。白いブラウスの袖口からのぞく手首が、ページをめくるたび静かに揺れる。
(どうしよう……声、かける?やっぱり変に思われるかな……)
声をかける勇気はすぐには出なかった。
迷いながらも、気づけば一歩、二歩と近づいていた。他の席はいくらでも空いているのに、僕の手は自然と、彼女の隣の椅子に伸びていた。
椅子に手をかける瞬間、
彼女が少し顔を上げた――けれど、視線は僕ではなく、窓の外へ向けられていた。
ガラス越しに流れる雨脚を見て、ふと小さく息をつき、また静かにページへと視線を戻す。
その仕草に、一瞬、胸の奥で緊張が走った。
……まだ、気づいていない。
それにしても、横顔の輪郭があまりに整っていた。鼻筋から顎にかけての滑らかなラインが、まるで彫刻のように美しい。
(これはかなり気持ち悪いぞ自分。まずは、声をかけるだ、すいませんお隣よろしいですか?よし…いける。)
声をかけたい――その思いが喉までこみ上げる。
けれど、言葉になる寸前で、息がつまった。
「……ス、」
かすれた音だけが零れて、すぐに消える。
胸の奥で、ためらいだけが静かに膨らんでいった。
(ここで…もし勇気を出せたら、他のことにも挑戦できる気がする。これがきっかけで、少しでも変われるなら――)
――僕は、覚悟を決めた。
なにか、ほんの少しだけ、人生が楽しくなる気がしたから。
「あ、あの……お隣、よ、よろしいでしょうか」
情けないほど震えた声だった。多分、人生でいちばん勇気を出した瞬間だと思う。
すると彼女はゆっくりと顔を上げ、僕の方を見た。一拍の間――そして、目が合う。
穏やかな笑みが、ふっと唇に浮かんだ。
「ええ、どうぞ」
その瞬間――彼女の顔に、やわらかな光が差した。何も嫌がらず、何も気にしていない。
ただ、当たり前のように受け入れてくれる。
その余裕のある笑みが、まるで赦しのように見えた。僕は思わず、立ち尽くしてしまった。
「……あの、座らないんですか?」
少し戸惑いを含んだ声に我に返る。
「あ、もちろん、座ります。」
ぎこちない返事をしながら、ようやく椅子を引いた。彼女に促されるようにして席に着くと、緊張で頭が真っ白になった。それとは裏腹に、
何かを期待している自分がいた。
手のひらがじんわりと汗ばんでいるのが分かる。
幸い、雨に濡れていたおかげで誤魔化せている――たぶん。
タオルもある。大丈夫、落ち着け。
荷物を座席の下に置き、ポケットからスマホを取り出した。
隣に座ることまでは考えていたけれど、その先のことなんて、何一つ考えていなかった。
彼女のことを何も知らない。話題もない。
沈黙をごまかすように、スマホの画面を開いた。
いつものように、自分が投稿した小説のページを開き、評価やコメントをなんとなく眺める。
少しすると、先ほどタオルを渡してくれた男性スタッフが、注文を取りに来た。
「失礼いたします。ご注文、お決まりでしょうか?」
「あ……忘れてた。」
慌ててメニューを手に取る。
英字の並んだコーヒーの名前がずらりと並んでいて、どれがどんな味なのかさっぱり分からない。
南條さんの前で聞くのも、なんだか恥ずかしい。
だから、とりあえず――読めるものを頼むことにした。
「えっと……じゃあ、ホ、ホットコーヒーでお願いします」
「かしこまりました。ミルクとお砂糖はおつけしますか?」
「はい、お願いします」
注文を終えると、スタッフは軽く会釈して静かに離れていった。ほっと胸をなでおろしながら、そっと南條さんを横目でうかがう。
すると、偶然なのか、目が合ってしまった。
彼女は本を閉じ、少し戸惑うように、それでも穏やかな声で言った。
「あの、すいません……」
「あ、ごめんなさい、濡れてるの嫌ですよね」
「いや、そうではなくて…」
彼女は少し迷うような表情を浮かべて、言葉を探すように続けた。
「間違っていたらすいません。……もしかして、先日、ポール・ルミエールというレストランにいらっしゃいましたか?」
「え……?」
まさか、と思った。
こんな印象の薄い顔を、覚えているはずがない。
それでも――胸の奥で、かすかに何かを期待していた。
「い、いました」
「……奥田様、ですよね」
彼女の口から自分の名前が出た瞬間、
喉の奥がひりついた。
「は、はい。奥田です」
「やっぱり……。私、あそこで働いていて。南條と申します。先日、奥田様にワインをかけてしまった――」
「あ、あ〜、何となく」
――嘘をついた。
本当は、あの瞬間のことをはっきり覚えている。
でも、どうしてか、曖昧な返信をしてしまった。
「その節は、本当に申し訳ございませんでした」
彼女は椅子を引き、すっと立ち上がると、
喫茶店の静けさの中で深々と頭を下げた。
まさか、ここでそんなふうにされるとは思っていなかった。
「え!や、やめてください。す、座ってください!」
思わず声が上ずる。
周りの客がちらりとこちらを見ていた。
僕は慌てて彼女を席に戻した。
謝ってほしかったわけじゃない。
ただ――覚えていてくれたことが、嬉しかった。
「あの、謝らないでください。僕、本当に全然なんとも思ってませんから」
彼女は小さく息をつき、視線を落とした。
「……ずっと、気になっていたんです。あの時、直接お詫びできなかったので。
もしまたお会いできたら、きちんと謝らなきゃって……《《ずっと》》。」
その声は、湯気のように静かに空気へ溶けていった。
「……え、」
言葉にならない音だけが漏れる。
《《ずっと》》というひと言だけが、胸の奥に染みていった。
「……あれですね。偶然って、あるもんですね」
僕は照れながらそういうと、
「ほんとですよね」
その瞬間、彼女の表情がふっと明るくなる。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
「本当に、気にしなくていいので。
むしろ自分のほうが気になってて……あの後、体調は大丈夫でしたか?」
自分でも驚いた。
思っていた以上に、自然に言葉が出てくる。
この空間の静けいせいか、それとも――理由は分からない。
「はい。あの後すぐに落ち着いて、仕事にも戻れました」
「それは良かったです。……無理しない範囲で、お仕事頑張ってください」
「お気遣い、ありがとうございます」
彼女がやわらかく笑った。
その笑顔を正面から見ることができず、僕は思わず視線を窓の外へそらした。
ガラスの向こうでは、細い雨がまだ降っていたが――その勢いは、さっきよりずっと穏やかになっていた。
「……雨、止みそうですね。」
彼女がそう言って、テーブルの上の本にそっと手を伸ばした。
その仕草を見た瞬間、胸の奥がざわめく。
――もしかして、もう帰ってしまうのか。
何か話題を、会話になりそうなものを、必死に探した。
「……あ、あの、その本……小説ですか?」
思わず声が出ていた。
僕は、彼女が手にしている本に、目を留めた。
彼女は少し驚いたように顔を上げ、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、そうですけど」
「小説、お好きなんですか?」
「そうですね――よく、読みます」
「あ、そうなんですね。…あの、題名って」
「『アニーがいない』という小説です。」
「あっ、聞いたことあるかも。昔、そんな映画がありましたよね。」
「ええ、映画でもありましたね」
彼女の声が、耳の奥で、静かにやわらかく響く。
「僕、小説ってあまり読まないんですけど、映画はよく観るんです。その作品はまだ観てないけど……名前だけ気になってて」
「そうなんですね。なんだか嬉しいです。この小説、私、とても好きなんです」
南條さんはそう言って、指先で表紙の角をそっとなぞった。その仕草が丁寧で、どこか品があった。
「ちなみに……どんなお話なんですか?」
「そうですね……」
彼女は少しだけ視線を落とし、ページを静かに開く。言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「アニーという少女がある日、突然姿を消すところから始まるんです。
残された人たちは戸惑いながらも、“彼女のいない日常”を過ごしていくうちに、少しずつアニーという存在の大きさに気づいていく――そんな、静かで深いお話なんです。」
その声を聞いているだけで、情景が浮かんできた。彼女の言葉はまるで、ページの向こうの世界を少しずつ現実に染み込ませていくようだった。
「……なんか興味出てきました。み、観てみようかな」
「映画がお好きなら、きっと気に入って貰えると思います。文字なのに、映像のように情景が浮かぶんです。
それに、とても余韻の残る作品なんですよ。」
「南條さんが言うなら、間違いないですね」
ページに目をやると、整った文字が淡く光を受けていた。よく見ると、その文章はすべて英語で書かれている。
「すごい……英語なんですね。僕、読めるかな……」
そうつぶやくと、彼女は小さく「あっ」と声を漏らし、ふっと表情を明るくした。
「私、翻訳版を持っていますので……よければ、お貸ししましょうか?」
「え、いや、そんな……悪いですよ、それは」
思わず慌ててしまう。けれど彼女は、静かに首を横に振った。
「あの日のお詫び、まだちゃんとできていませんから。これくらい、させてください。」
その言葉に、胸の奥がじんとした。
彼女の目をまっすぐ見られなかったが、その気持ちは十分に伝わってきた。
断る理由なんて、もうなかった。
「……ありがとうございます。」
「良かった。断られなくて。」
彼女はほっとしたように、肩の力を抜いた。
その仕草があまりに自然で、見とれてしまう。
「でも、英語で読めるなんて、すごいですね。」
「お恥ずかしい話ですけど、私もスラスラとは読めないんです。でも、原作の言葉の“息づかい”を感じてみたくて……
今、少しずつ読み進めてるんです。」
そう言って、南條さんは照れくさそうに笑った。
その笑顔に、胸の奥があたたかくなる。
不思議だ――こんなに自然に会話が続くなんて。
ついこの前までは、ただの客と店員だったのに。
――失礼いたします
背後から、焙煎された豆の香りがふわりと漂ってきた。とても落ち着く香り…。
「お待たせいたしました。ホットコーヒーでございます。お熱いのでお気おつけください。
ミルクとお砂糖もどうぞ。」
先ほどの男性スタッフが、静かな手つきでカップをテーブルに置いた。
湯気がゆらめき、香ばしい香りが二人のあいだを満たす。
カップを置き終えると、スタッフは南條さんのほうへ顔を向けた。その表情には、どこか親しみのある柔らかさがあった。
「珍しいですね、結子さんのお知り合い?」
「ええ、ちょっと……偶然お会いしたの。」
南條さん――結子さんの口調は、先ほどまでよりわずかにくだけていた。
その響きに、胸の奥がかすかに痛んだ。
彼女が見せる、僕の知らない表情。
それが、たった一瞬のことだとわかっていても、なぜか目が離せなかった。
カップから立ちのぼる湯気が、
ぼんやりと揺れて見えた――。
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