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運命

気になるあの人にまた会いたい。

僕は控え室で新しい白シャツに着替えたあと、

鏡に映る自分の姿を見た。サイズも生地もぴったりで、むしろ自分の服より上質に見える。

袖を整えて部屋を出ると、さきほどの年配の男性スタッフが静かに待っていた。


「お召し替え、ありがとうございました。お怪我などはございませんでしたか?」


「あ…はい無事です、大丈夫です。」


「それは何よりでございます。お預かりしたお洋服は、当店でクリーニングをさせていただきます。仕上がり次第、ご記入いただいた住所へお送りいたします。」


差し出されたのは、小さな黒い革フォルダ。中には丁寧に折られた記入用紙とペンが添えられていた。僕は緊張しながら、住所と名前を書き込んだ。


「あ、間違えた、すいません、えっと…」


「ごゆっくりで構いませんよ」


「あ、あは、すいません」


何度か斜線を引いて直した記入用紙を、僕はそっと革フォルダに戻した。少し手が震えているのに気づき、深呼吸して落ち着けと自分に言い聞かせる。


「ありがとうございます。では、こちらのシャツは大切にお預かりいたします。クリーニングが完了いたしましたら、三日ほどでお手元に届くかと存じます」


「はい……あの、借りたこのシャツは、いつ返せばいいですか?」


「お戻しいただく必要はございません。こちらの不手際でございますので、どうぞお納めください」


「そんな、悪いですよ……こんないい物」


「いえ、とんでもございません。どうかお気になさらず」


 深々と頭を下げるスタッフに、僕はそれ以上何も言えなかった。


席に戻ると、テーブルクロスはすでに新しいものに替えられ、先ほどの出来事が嘘のように整えられていた。

けれど、彼女の姿だけが、そこにはなかった。


「あ、あのさっきの南…女性は大丈夫ですか?」


「はい。現在は控え室で休ませております。ご心配をおかけして申し訳ございません。」


そう言って、深く頭を下げられた。

僕は「そうですか…」と曖昧な返事しか出来なかった。その後は、料理が一皿ずつ丁寧に運ばれ、店内の時間は静かに流れていった。食事を終え、会計を済ませて店を出ようとすると、入口に先ほどの年配の男性スタッフが立っていた。

背筋をまっすぐに伸ばし、穏やかな笑みを浮かべている。


「本日は誠に申し訳ございませんでした。お召し物の件は、改めてこちらからご連絡差し上げます。どうかお体を冷やされませんように。もしよろしければ、またのご来店を心よりお待ちしております」


その丁寧な言葉に、思わず胸の奥がじんとした。


「いえ、こちらこそ……本当に素敵な時間を、ありがとうございました」


 そう返すと、彼は深く一礼をして、ドアを静かに開けた。夜風がふっと吹き込み、ピアノの音が遠くで揺れた。


――南條さんのあの笑顔を、もう一度見たい。

そう思いながら、僕は静かに店を後にした。



あの日の出来事から、もう三日が過ぎた。

何度かレストランの予約を試みたが、どの日も満席だった。クリーニングを終えたシャツは無事戻ってきたけれど、原稿だけは少しだけ染みが残ってしまった。あの時、原稿が入っていた紙袋にもワインの飛沫がかかっていたらしい。

家に戻って封を開けたとき、ページの端に淡く滲む赤が見えた。

その跡を見るたび、あの夜のことが頭に浮かぶ。


 「……元気かな。」


そう呟きながら、僕は原稿をリュックに入れて、出版社へ向かった。自宅から電車でおよそ一時間。拍堂出版はくどうしゅっぱんの入る十階建てのビルは、神保町の古本街から少し離れた場所にあった。入口の前に立つと、いつものように憂鬱な気持ちになる。ビルのガラス扉を押して中に入ると、ロビーには雑誌の見本や新刊のポスターが並んでいる。


 受付カウンターの奥では、スタッフが電話対応をしている。僕は少し緊張しながら声をかけた。


「す、すみません。11時にお約束していた奥田と申します。編集部の新部さんに、お会いする予定で……伺いました」


 受付の女性がにこやかに会釈しながら、名簿めいぼを確認する。


「奥田様ですね。新部より伺っております。どうぞ、あちらの応接室でお待ちください」


 僕は軽く会釈して、指示された廊下を歩く。壁には作家たちのサイン色紙や、受賞作の表紙が額に入れて飾られていた。


――何度来ても、慣れない場所だ。


 応接室の扉を開けると、落ち着いた色のソファとテーブル。僕は原稿の入った封筒を膝に置き、深呼吸した。


――しばらくして、ドアがノックされる。


「お待たせしました〜」


明るい声とともに、新部さんが応接室に入ってきた。けれど、声の印象とは裏腹に、どこか気まずそうな顔をしている。

向かいの席に座ると、彼女は軽く頭を下げて言った。


「先日はホント申し訳ないです」


「謝らないでください。こ、これ、新しい原稿です…」


元々、あの日に原稿を見てもらう予定だった僕は、少し波打った原稿をテーブルに置いた。

角のあたりには、淡く赤い滲みが残っている。


新部さんは目を輝かせて原稿をつかみ、すぐに開き直るように笑った。


「拝見します!あれ?……なにこれ、なんかこぼしたですか?」


(ま、まじかこの人…)


 向かいに座っていた新部にいべさんが目を丸くした。ラフにまとめた髪を揺らしながら、紙の端をつまんで笑う。反省の顔は一瞬のうちに消えていた。


「ちょっと、ワインを…」


「えー奥田さんワインなんて飲むんですね。あっ…もしかしてあの日のレストランでとか…?」


「ん、ま、まぁいいじゃないですかそこは…」


「えー教えてくださいよ。…なんかいい体験できました?ネタになりそうなやつ。」


「いや、まぁそうですね…なんか…はい。」


「なんですかその微妙な反応。あのね奥田さん、外出て経験積むのも仕事のうちですよ? ほら、インスピレーションってやつ!」


「…なんかすいません」


「もー、すぐ謝るの悪い癖ですよ?」


 呆れ笑いをしながら彼女はソファーに背を預ける。この人のそういう距離の詰め方に、いつも少し調子を崩される。


「とりあえず、よ、読んでください」


「そうですね。じゃあ、改めて…」


 そこからは沈黙の時間。僕がいちばん苦手な時間。原稿を読み進めながら、時々小さく唇を噛んだり、ペン先で文字をなぞったり。僕は彼女の反応を伺いながら、無意識に指先を組んでいた。


――数分後、新部さんがふっと顔を上げる。


「うん、前よりぜんぜん良くなってますね。まぁ、時々意味わかんないところありますけど。物語り自体は、毎度毎度最高です。――でも」


「で、でも…」


「――読者には、伝わんないですね。たしかに、ファンとかならニュアンスで?読み解けるとは思うですけど、新規の客層を狙うんだったら、きついと思います。なんか、読者を意識してないというか。」


「やっぱりそこですよね…。自分だと書いてて違和感ないんです。他の人の小説とか読んだり、色々調べたりしながら書いてるつもりなんですけど…。どこを直したほうがいいんですかね。」


「そうですね、物語は問題ないです。…文章ですね。」


「遠慮なくお願いします。」


「んー、細かく言いますね。まず、起承転結と段落構成がほとんどないです。これじゃ文章全体の流れがなく、読み手は情報を整理できません。あと接続詞の使いすぎ、『しかし』『だから』とか、逆にわかりづらくなってます。表現も抽象的すぎて具体性がない。『すごく良かった』とかじゃ、読み手にイメージが伝わらないんですよ。それに回りくどい。結論はいつ出るんだよって感じです。あと誤字脱字も多すぎ…まだありますけど、聞きます?」


「も、もうやめてください…」


気づけば僕は半べそをかいていた。直すところが多すぎて、まばたきする気力も出ない。

でも、新部さんの言葉は、軽い口調なのに不思議と的を射ていた。さすが編集者。元気な見た目に反して、言葉は鋭く、恐ろしいくらいだ。


「ま、でも焦んなくていいです。少しずつやっていきましょう。編集長も、奥田さんに期待してるって言ってくれてますし」


「……ほんとですかそれ」


「当たり前ですよ。じゃなきゃ私が奥田さんに時間なんて割くわけないじゃないですか」


そう言って笑う新部さんは、いつだって上手く僕のやる気を引き戻してくれる。

少し言葉はきついけれど、どこか姉のような優しさがあった。


「いいですか、奥田さん。苦手でもいいんです。でも、“読者に寄り添う思いやり”だけは忘れないでくださいね。」


――そんなこと、頭ではわかっている。けれど、実際にできているかと問われると、自信がない。

たぶん僕は、「わかってるつもり」で止まってしまっているんだと思う。

そこから先を、考えないようにして…。

そうやって、自分をごまかしてきたのかもしれない。改めよう――そう思った。

けれど、それは結局、効力を持たない、簡単に破れる誓いだった…。



時間はあっという間に過ぎ――気づけば13時。打ち合わせは終わり、原稿の話も、今後の方向性も、一通り確認できた。外の空はすっかり暗くなり、ビルの窓ガラスには灰色の雲が映っている。


別れ際、新部さんが折りたたみ傘を振りながら声をかけてきた。


「奥田さん、降りそうですよ。傘、持ってます?

…なんなら私の貸しますよ?可愛いでしょこれ」


「ほんとですね。あ、でも大丈夫です。晴れ男なんで……たぶん」


「へー意外です。――じゃっ!また連絡しますね。気をつけて。お疲れ様です!」


「あっ、お疲れ様でした。」


強がって笑ったけれど、外に出るころには、もうぽつぽつと雨が降り始めていた。僕は生まれてからずっと雨男だ。つまらない嘘をついたまま、僕は駅に向かった。


――雨は次第に強くなっていった。

傘のない僕は、原稿を守るためリュックを前に抱え込む。本降りになった雨を避けるように、近くの小さな喫茶店へ駆け込んだ。

ドアが軽く軋み、鈴の音が控えめに鳴った。


…カランッ


中に入ると、珈琲の良い香りがする。


「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」


 柔らかな声とともに、若い男性スタッフが奥から顔を出した。僕の髪の先から滴が落ちるのを見て、彼は軽く目を見開いた。


「外、けっこう降ってきましたよね。これ、よかったらどうぞ」


 差し出されたのは、温かみのある白いタオルだった。思わず受け取りながら、僕は小さく頭を下げる。


「すいませんありがとうございます」


「お好きな席へどうぞ。窓際でも奥でも空いてます。メニュー、こちらになります」


「あ、ありがとうございます」

(なんて爽やかな笑顔…かっこいいなこの人。)


 丁寧な笑顔に少しだけ照れながら、タオルで髪先を押さえた。店内は静かで、雨音だけが窓を叩いている。客は数人ほど。


僕は窓際に向かいながら、ふと視線を向ける。

――その瞬間、心臓が跳ねた。


その人は静かに、ゆったりと、本を読んでいた。

淡い栗色の髪。細い指先で本をめくるその姿。


制服ではなく私服なのに――すぐにわかった。

あの夜、レストランで見た彼女。


――間違いない、南條さんだ。


思わず足が止まった。白いブラウスに薄いグレーのカーディガン。控えめな色合いなのに、彼女の存在は、喫茶店の中でも際立っていた。以前見たときは髪を結んでいたけれど、今回はゆったりと肩に垂れ、ライトの加減でほんの少し明るく輝いて見える。あまりに美しくて、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


――これはもう、『運命』なんじゃないか。


僕は高鳴る気持ちを、どうしても抑えられずにいた。心臓の音が耳まで響くようで、足が自然と彼女の方へ向かっていた…。



見ていただきありがとうございます。

毎週木曜日〜金曜日の間に投稿いたします。

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