物語と文才
第一章のラスト。
ここから物語は大きく動き出していく。
「横浜の海沿いを歩くのも好きなんですけど、
こういう、木々に囲まれた場所も……落ち着きますね」
「わかります。なんていうか……静かなんですけど、閉じてない感じがして」
「閉じてない――いい表現ですね」
「そ、そうですかね」
会話は穏やかなのに、内側では落ち着かない。
女性と並んで公園を歩くなんて、これが初めてだった。今の僕は、これ以上ないほど緊張している。それでも、その緊張を上回る心地よさが、確かにあった。
遊歩道を外れると、足元の感触が変わる。
舗装された道から、やわらかな土へ。
そのせいか、自然と歩幅が揃い、彼女との距離も、近づいた。
木々が周囲をやわらかく包み込み、木漏れ日がやけに美しく感じられる。
人の気配が薄れた分だけ、隣を歩く存在が、はっきりと意識に浮かぶ。
不思議と、気分がいい。
「なんか……こういう場所に来ると、自分が特別なんじゃないかって錯覚するというか。
あぁ、僕は“自然の一部なんだ”って思えるというか……」
言葉を探すように、少し間を置く。
「目立つわけでも、偉くなるわけでもないんですけど……
ここに立ってる自分が、ちゃんと世界に含まれてる、って感じがして」
「それで、ほんの少しだけ、高揚感みたいなものが湧いてきて。
……ワクワクしちゃうんです」
言い終えてから、遅れて気恥ずかしさが込み上げ、視線を落とした。
「……すみません。僕だけですよね」
南條さんは、歩きながら小さく笑う。
「ふふ。それ、分かります」
「わ、分かります? この感じ」
「なんて言えばいいんでしょうね……
アダムとイブになったみたいな。
まだ名前をつける前の世界に、そっと戻ったような……」
「あっ……そ、そうです! 神様になった気分、というか!」
しまった、とはしゃいでしまった自覚がすぐに追いつく。
それでも――。
まさか、僕とはまるで違う世界を生きてきたような彼女が、
こんな感覚まで共有してくれるなんて。
奇跡、なんて言葉でも足りない気がした。
「こうして自然に触れていると、よく分かります。私の悩みなんて、とても小さくて……悩みすぎているだけなんだって」
彼女の歩幅は、その時々の心を映すように緩やかに変わる。ふと立ち止まり、指先の届く葉にそっと触れる仕草は、
まるで命そのものに語りかけているみたいだった。
一つひとつの所作に、育ちの良さと、
世界を大切に扱う人間だけが持つ静かな気品が滲んでいる。
――ああ、だめだ。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
「……好きです」
言葉は、考えるより先にこぼれ落ちていた。
「……え?」
彼女が振り返る。その一瞬で、背筋が凍りついた。今、何を言った?
『好きです』――人生で一度も、口にしたことのない、言えなかった言葉。誰かに向けて思う、いちばん無防備で、いちばん大切な感情。
逃げ場のない静けさの中で、
自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
言ってしまった。
けれど、後悔より先に浮かんだのは――
この空気が、壊れてほしくない、という願いだった。
その危機的状況を誤魔化すように、
焦りを含んだ言葉が、無謀にも口からこぼれ落ちる。
「す、す……好きな言葉は、木漏れ日です!」
「木漏れ日……?」
「な、なんて言うんでしょう。
よく晴れた日の木漏れ日って、自然と気持ちが落ち着きますよね。
風景のハイライト、みたいで……それが好きなんです」
(うわ、風景のハイライトなんて臭い言葉を言ってしまった……!)
「ああ……確かに。
そう考えると、私も好きかもしれません」
「そ、そう言ってもらえて嬉しいです」
――うまく、誤魔化せただろうか。
彼女は何事もなかったかのように、静かに歩いている。
僕も余裕を装い、隣を歩き出した。
そのとき、背後から小さな駆け足の音が聞こえた。
次の瞬間――
ドサッ!
思わず振り返ると、
六歳くらいの女の子が、地面に露出した木の根に足を取られ、
その場に倒れ込んでいた。
南條さんは僕の横をすり抜け、すぐに女の子のもとへ駆け寄る。
少し遅れて、僕もあとを追った。
「大丈夫? 怪我はない?」
「えっと……立てるかい?」
できるだけ二人とも、落ち着いた声で声をかける。
女の子は一度だけ小さく頷くと、地面に手をついて、ひょいと立ち上がった。
「……大丈夫」
短くそう答えると、こちらを見ることもなく、
小走りでそのまま先へ行ってしまう。
「……なにか、急いでいるんでしょうか」
思わずそう口にすると、
南條さんは女の子の背中を見つめたまま、少し間を置いて答えた。
「ええ……でも、どこか怪我していないといいですね」
そう言って、
彼女は女の子の姿が見えなくなるまで、その場に立ち止まっていた。
「たぶん大丈夫だと思います。ほら、普通に走ってましたし」
僕がそう言うと、
南條さんは少しだけ考えるように頷き、歩き出した。
僕も、その後に続いた。
細道を抜けた先で、園内に設置された時計に目を向けると、時刻は14時20分。
公園に入ってから、16分ほどが経っていた。
舗装された園路の脇には、低く刈り込まれた芝生が広がり、
ところどころに木の影が落ちている。
南條さんは、その影を避けるように歩いたり、
ふと足元の小石を気にして、歩幅を少し変えたりしていた。
ベンチの横を通り過ぎると、
どこからか子どもの笑い声が聞こえ、
遠くには、石垣の向こうにお堀の水面がちらりと見える。
そんな景色を楽しみながら、僕たちは会話を続けた。振り返ってみれば、創作とは関係のない、たわいもない話ばかりだった。
彼女は知識が豊富で、
僕の知らないことをいくつも知っている。
それでも、うんちくのように鼻につくことはなく、押しつけがましさもない。
気づけば、自然と耳を傾けてしまう。
気づけば、創作の悩みを考えずにいられた。
締め切りのことも、構成のことも、
頭の隅にすら浮かんでこない。
何かから解き放たれたように、清々しい。
広場に出ると、黄色い帽子をかぶった子どもたちが走り回っていた。
幼稚園児だろうか。
近くにある池のそばでは、先生らしき大人たちが目を光らせていて、
子どもたちから視線を離さないようにしているのが分かる。
僕には、とても真似できそうにない。
「あの! すいません!」
……っ。
背後から、少し上ずった声が飛んできた。
振り返ると、
息を切らした女性がこちらへ駆け寄ってくるところだった。
肩で呼吸をしながら、落ち着きなく周囲を見回している。
「この辺で……小さい女の子、見ませんでしたか?」
言い終わる前から、
視線はもう僕たちの後ろへと向いていた。
「私の子供が、急にいなくなってしまって……」
言葉は早く、少し噛み気味だ。
手振りも定まらず、途中で何度か言い直している。
「愛理咲って言うんですけど。六歳くらいで、髪がこのくらいで……
茶色のチェック柄の上着を着てて……」
南條さんが、すぐに一歩前に出た。
その理由は、僕にも直感的に分かった。
「もしかしたら……」
母親が、はっと顔を上げる。
「え、なにかご存知なんですか?」
「あの、30分ほど前になるんですが」
南條さんは一度だけ言葉を区切り、落ち着いた声で続けた。
「日本武道館の近くの細道で、
一人で歩いてる女の子と、私たちすれ違ってて」
「ほんとですか?」
「服装も、今聞いたのと同じだったので……
たぶん、愛理咲ちゃんだと思うんですが……」
南條さんの言葉に、母親が息を呑む。
僕は、母親のほうを見ることができず、
南條さんに視線を向けたまま、
そのときの状況を確かめるように声を出した。
「……転んでましたよね。
声をかけたら、すぐ立ち上がって……」
南條さんが、小さく頷く。
「それで、ちょっと急いでる感じで、
こっちの方向に向かってましたよね」
言い終えてから、
これで合っているかを確かめるように、
そっと彼女を見る。
南條さんは自然に視線を返し、
「大丈夫ですよ」とでも言うように、
やわらかく微笑んで、もう一度頷いた。
その仕草を見て、
張っていた肩の力が、ふっと抜けていく。
視線を戻すと、
母親は額に手を当て、俯いていた。
その表情は、さっきよりも明らかに険しい。
「もう……ほんとに……
いつも、勝手にどっか行って……」
思わず漏れた独り言のような言葉に、
母親ははっとして顔を上げる。
「あ、すみません。
あの……教えてくださって、ありがとうございます。もう少し、この辺を探してみます」
そう言うと、
疲れた様子を隠すこともなく、
周囲を素早く見回しながら、早足で走っていった。
そう言うと、
疲れた様子を隠すこともなく、
母親は周囲を素早く見回しながら、早足で走っていった。
「……僕たちも、探したほうがいいですよね」
思わず、そんな言葉が口をついた。
「そうですね。……心配です」
南條さんの返事を聞いて、
僕たちは母親とは別の道を進むことにした。
少し歩くと、
さっきまでとは違って、人の気配がほとんどない場所に出た。
静かで、視界も開けている。
そのときだった。
少し先の、大きな木の下に、
ぽつんとしゃがみ込んでいる子どもの後ろ姿が目に入った。
「あれ……あの子じゃないですか?」
「本当ですね」
南條さんも、同じ方を見ている。
「思ったより、早く見つかりましたね。
よかった……でも、何してるんでしょう」
「ええ。……行ってみましょうか」
そう言って、
驚かせないように、ゆっくりとその子のほうへ近づいた。
距離が縮まるにつれて、
かすかに、ぐすぐすと鼻を鳴らす音が聞こえてきた。泣いているのだろうか……。
僕は少し不安を覚えながら声をかけたせいで、
思ったよりも声が小さくなってしまう。
「……あの、愛理咲ちゃんだよね?
お母さん、探してたよ」
返事はない。
どうやら、僕の声は届いていないらしい。
「……うぅ……」
かすかな声が、風に混じって漏れる。
「――どうしたの? 何かあった?」
僕に代わって、南條さんが声を落として尋ねた。
すると少女は、少し間を置いてから、
ゆっくりとこちらを向いた。
その両手には、一羽の小さな鳥が乗せられている。
けれど、その身体は、ぴくりとも動かなかった
亡くなっている。
僕と南條さんは、同時にそう悟った。
少女は、視線を小鳥から離さないまま、
淡々と、か細い声で話し始めた。
「……ちょっと前まで、元気に飛び回ってたの。
でも、急に元気なくなって……
ごはんも、食べなくて……」
一度、息を吸う。
「昨日、来たかったけど……
ママに、だめって言われて……
だから、今日……急いできたの……」
その話を聞いた南條さんは、
そっと少女と同じ高さにしゃがみ込み、
何も言わずに、背中をゆっくりと摩った。
「そっか。
だから、さっき急いでたんだ」
少し間を置いてから、
小さく息を吐くように続ける。
「……つらいね」
その一言で、
少女の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
声を押し殺したまま、
唇だけが、かすかに震えている。
――自分も見ているのが、つらい。
こんなにも小さな子の目の前で、
ひとつの命が失われている。
その事実が、耐えがたい現実として、少女の小さな胸に重くのしかかっている。
今にも声を上げて泣き出しそうな少女に、
南條さんは、静かに問いかける。
「この子は……
この大きな木に、住んでるの?」
「……うん」
少女は、涙を拭うこともせず、
木のほうを見上げた。
「この真ん中に、おうちがあるの……
わたしも、手伝ったの」
「そっか、一緒に作ったんだね」
南條さんは、微笑みながら言った。
「愛理咲ちゃん。もしよかったら、
お家見せてもらってもいい?」
「……うん。いいよ」
「ありがとう」
枝の間を覗き込んで、南條さんは目を細める。
「わぁ……立派なおうちだね。
これは、小鳥さんも嬉しいね」
その言葉は、過去形じゃなかった。
まるで、
今もそこに気持ちが残っていると信じているみたいで、少女の悲しみを、否定しない言い方だった。
その優しさに、
僕はただ、言葉を失っていた。
「その子のお名前……
聞いてもいいかな?」
「……みーちゃん」
ほとんど聞き取れないくらいの声で、少女は答えた。
「みーちゃんか」
南條さんは、ゆっくりと頷く。
「愛理咲ちゃんはみーちゃんのこと、
本当に大好きなんだね」
その声には、
子どもに向けた優しさだけじゃなく、
同じひとりの人間として寄り添う、
静かな強さがあった。
「……うん。大好き」
少女の表情が、少しだけ柔らかくなっていた。
すると、少し間を開けて、僕たちに問いかける。
「みーちゃん。天国いったよね」
少女は小鳥が亡くなっていることを、しっかりと理解し、受け止めている。
そんな少女に、南條さんは頭を優しく撫で、寄り添うように答えた。
「みーちゃんが行ったのは、天国よりもっと楽しいところ」
「もっと……?」
「ええ――愛理咲ちゃんとみーちゃんとの、一番素敵な思い出の場所」
「……ここ」
そう言って、少女はゆっくりと立ち上がった。
大きな木を見上げる。
すると、どこからか小鳥のさえずりが聞こえてきた。一羽の声、みーちゃんだろうか。
僕は一瞬、ここだけが現実から切り離されたような感覚に包まれた。
気づくと少女は、僕たちの方を見ていた。
「……みーちゃんの、お墓……つくる」
「うん、それがいいね。
みーちゃんも、きっと喜んでくれる。
愛理咲ちゃんとの思い出がある、この木の下に……埋めてあげようか」
少女は一生懸命に頷くと、
そっと小鳥を巣に戻し、両手で土を掘り始めた。
「待っててね……」
土は少し湿っているのか、
思っていたよりも柔らかく、指がすっと沈んでいく。
そのとき、南條さんが、僕にだけ聞こえる声で言った。
「奥田さん……すみません。
もしよければ、愛理咲ちゃんのお母さまを、呼んできてもらえますか」
「あ、はい。わかりました。すぐ呼んできます」
僕が二つ返事で答えると、
南條さんは静かに頷き――
次の瞬間、少女の隣にしゃがみ込み、
迷うことなく、一緒に地面を掘り始めた。
手を汚しながら。
小鳥のために。
そしてなにより、少女の心のために。
ただ、黙々と。
*
僕はなんとか少女の母親を見つけ、急いで一緒に戻ってきた。
母親は、娘の姿を見つけるなり、一直線に駆け出した。
――ほっとした言葉が、飛び出すものだと思っていた。
けれど、違った。
「ねぇ、何してんの!?」
「なんで勝手にいなくなるの?」
「急にどっか行かないでって、いつも言ってるよね!?」
怒鳴り声が、静寂の場所に突き刺さる。
僕はその音だけで、体がすくんだ。
「ママ……今ね、おねえちゃんに――」
「え、なにその泥だらけ。
なにしてんの……」
母親の視線の先は、いつの間にか、少女の隣にいた南條さんに向けられていた。
「あ、あなた……さっきの」
「え? 一緒に土遊び、ですか?」
まずい。
少女の話を聞く気がない。それどころか――
今度は、南條さんに矛先が向いている。
それだけは、黙って見ていられなかった。
「あ、あの……すみません。
ち、違うんです。土遊びじゃなくて……その……それは誤解でして」
声が震える。
頭の中で言葉が絡まり、うまく形にならない。
「見つけてくれたことは、感謝してます」
母親は、淡々と、けれど鋭く言った。
「でも、こっちが必死で探してたの、知ってましたよね?」
「それなのに、おかしくないですか?」
「大人なら、普通すぐ連れてきますよね。
遊んでないで」
「あ……」
言葉が、喉で止まった。
怖い。
怒鳴られているわけでもないのに、
声の出し方を忘れるほどの威圧感。
こんな大人を、僕は直接見たことがなかった。
そのとき、ふと南條さんの言葉がよみがえった。
――「ええ……心配です」
あれは、
少女がいなくなったことへの心配だけじゃない。
この子が、
今まさに向き合わされているもの――
そのことを指していたのではないか。
あの一瞬、母親の感情のわずかな揺れを見逃さなかった南條さんに、僕は驚いていた。
同時に、この張りつめた空気をどう収めるべきか、必死に頭を回していた。
すると――
「……すみませんでした」
深く、迷いのない動きで頭を下げたのは、南條さんだった。
「お母さまのおっしゃる通りです。
すぐにお伝えできず、申し訳ありませんでした」
「いえ、謝ってもらわなくて結構です。
愛理咲、行くよ」
冷たく言い捨てる母親の言葉にも、南條さんは表情を変えず、続けた。
「失礼を承知で、お願いがあります。
今、愛理咲ちゃんがしていることが終わるまで、少しだけ待っていただけませんか」
「……あのですね」
母親の声が、低くなる。
「この子、本来は保育園にいる時間なんです。
そこから抜け出したって連絡をもらって、仕事を抜けて、必死で探して……」
早口になり、言葉が途切れない。
「こっちは、早く職場に戻らなきゃいけないんですよ。
言ってること、わかります?」
「わかっています」
南條さんは、はっきりと答えた。
「わかった上で、お願いしています。
もし今、ここでやめてしまったら――
愛理咲ちゃんは、この苦しさを抱えたまま、生きていくことになると思うんです」
一瞬の間。
「それは、避けたいんです」
「……勝手なことばかり言って」
母親は苛立ちを隠さない。
「この子まだ六歳ですよ?
たかが土遊びに、何を大げさなことを。
ほら、愛理咲。早くこっち来なさい」
その瞬間だった。
「――愛理咲さんのお友だちの、みーちゃんが亡くなったんです」
声が出たのは、僕だった。
「……はい?」
「みーちゃん?」
母親が怪訝そうに眉をひそめる。
少女は今にも泣き出しそうで、
必死に耐えているように見えた。
その表情を見て、僕は続けていた。
「小鳥のみーちゃんです。
愛理咲さんがここに来たのは、その子に会うためでした」
喉が締めつけられる。
「最近、元気がなくて……
だから、どうしても、早く会いに来たかったんです」
母親は、しばらく黙り込んだあと、
何かを思い出したように、ゆっくりと少女を見た。
「みーちゃんって……家で話してた……?」
少女が小さく頷く。
母親は視線を上げ、
大きな木の幹を見回した。
すると、少し下の方――
幹の途中に走った割れ目の奥に、
小さな巣があるのが目に入る。
子どもの手なら、
背伸びをすれば届きそうな高さだった。
母親は一歩近づき、
割れ目の中をそっと覗き込む。
そこには綺麗な形をした巣があった。
しかし、次の瞬間――
「……っ」
短く息を呑み、
反射的に一歩、後ずさった。
そこには、
動かなくなった小さな鳥――みーちゃんが、静かに横たわっていた。
「……お墓……掘ってたの?」
声は、わずかに震えている。
「……うん」
その一言で、
母親はすべてを理解した。
今、娘が何をしようとしていたのか。
なぜ、ここから離れなかったのか。
「ママに見せたいって言ってたの……この木の巣?」
「……うん」
「愛理咲ちゃんと、みーちゃん。
二人で作ったそうです」
南條さんが、静かに補足する。
「……あ」
母親の喉から、短い息が漏れた。
「愛理咲ちゃん……すごいですよ」
南條さんは、まっすぐ母親を見て言った。
「ちゃんと、わかっているんです。
自分に、何ができるのか。
せめてできる、心遣いを」
その言葉に背中を押されるように、
母親はゆっくりと、少女の前にしゃがみ込んだ。
「……ごめんね」
声が、わずかに震えている。
「おうちで、ちゃんと話、聞いてあげられなくて」
「小鳥が元気ないって……言ってたよね」
「それなのに……ごめんね」
「ママ……ごめんなさい」
少女も、涙をこらえながら言った。
「ひとりで……ここに来て……」
「ううん」
母親は首を振り、そっと抱き寄せる。
「大丈夫……」
「怒鳴っちゃって、ごめんね」
少し間を置いてから、母親は小さく微笑んだ。
「……私も、手伝っていい?」
「……うん!」
その声は、さっきより少しだけ、明るかった。
「あ、ぼ、僕も……手伝います」
思わず、口を挟んでいた。
僕たちは四人で、
みーちゃんのお墓を作り始めた。
さっきまで張りつめていた空気。
胸の奥に残る、いくつもの感情。
それでも――
こうして同じ場所にしゃがみ込み、
同じ土に触れていることが、なぜか誇らしく思えた。気づけば、手も靴もズボンも、土で汚れていた。
穴を掘り終え、
落ちていた葉や小さな花で、まわりを飾る。
最後に、少女がみーちゃんをそっと置いた。
土をかけ、
四人で、静かに手を合わせる。
「……みーちゃん、ずーと大好きだよ」
「愛理咲と、友だちになってくれて……ありがとう……」
少女と母親の関係も、
この出来事をきっかけに、少しは変わったのだろうか。
僕たちは何も知らない。
この家族のこれまでの生活も、これからの人生も。
ただ――
この出来事が、彼女たちにとって大きなものだったことだけは、きっと間違いない。
そして、そこに居合わせたことは、
僕にとっても、間違いなく貴重な体験だったと思う。
僕と少女が話している間、後ろの方で、
南條さんと母親が何か言葉を交わしていた。
しばらくして戻ってくると、親子とは、その場で別れることになった。
「おねえちゃん、ありがとう!」
「おにいちゃん、ありがとう!」
「うん。愛理咲ちゃん、元気でね」
「い、いや……僕は何も……
あ、転ばないように、気をつけるんだよ」
母親は、深く頭を下げた。
「先ほどは、本当に失礼なことを言ってしまって……すみません。
娘の話、もっとちゃんと聞こうと思います。
気づかせていただいて……本当に、ありがとうございます」
その言葉を背に、
僕たちは静かに、その場を離れた。
「二人とも、幸せでいて欲しいです。」
「ええ。そうですね」
今日一日。
平凡だったはずの僕の毎日に、これでもかというほど出来事が重なった。今になって、ようやく疲れが、どんと押し寄せてくる。
間違いない。
この一日は、これまでの二十六年分より、ずっと濃い。
――気づけば、時刻は16時を回っていた。
バイトの時間だ。もう、出なければならない。
北の丸公園を後にして、
僕たちは神保町駅へ向かって歩き出した。
*
歩いているうちに、
会話は自然と、小説の話になった。
「原稿は……編集の方にお見せするの、いつ頃なんですか?」
「あ、えっと……今週の土曜日です」
「あと、三日もないですね」
「はい……。
それなのに、まだ十七枚で……正直、かなりまずいです。
三十枚必要なのに……」
「……そうですか」
一瞬、言葉が途切れる。
靴音と、街のざわめきだけが間を埋めた。
「恩着せがましいかもしれないんですけど……」
「は、はい」
その前置きだけで、
彼女がこれから何を言おうとしているのか――
理屈じゃなく、察してしまった。
余計な感情が、静かに脇へと追いやられていく。
ただ、続きを聞こうとする気持ちだけが、前に出てきた。
「私、今日一日、ずっと考えていたことがあるんです」
歩きながら、南條さんは続ける。
「奥田さんと話して……
どうするべきか、ずっと考えていました」
少し間を置いて、
「それで、公園を歩いて。
愛理咲ちゃんに出会って……」
一瞬、言葉を選ぶようにしてから、
「――確信に変わったんです」
胸の奥が、わずかに波打った。
「私が、するべきこと。
それから……できるかもしれないこと」
「な、なんですか……?」
そのとき、
南條さんは足を止めた。
「奥田さん」
「は、はい」
振り返った彼女は、
迷いのない目で、まっすぐ僕を見て――
はっきりと、言った。
「小説を作る、お手伝いをさせてください」
その瞬間、
夕方の街の音も、行き交う人の気配も、
すべてが、一瞬にして変わった。
その言葉の余韻を、
僕が正しく受け止められるのは、きっともう少し先だろう。
それほどまでに、大きな衝撃と、混乱だった。
この先に、
何が待っているのかは、まだわからない。
けれど――
確かに今、
僕の物語が、静かに動き出した。
――第一章、終。
見て頂きありがとうございます!
ただいま、賞に向けて短編小説を作成中です。
なので、ハクレンの栞は今回の10話目でお休みさせて頂きます。短編が完成次第、第二章に入っていきますので、今しばらくお待ちください!




