99話 存在証明
閲覧ありがとうございます。
どこかにいる平良さんのお話。
ずっと考えていることがありました。
魔奇さんから、「自分の名前は好きか」と訊かれた時から、ずっと。
名前とは何なのでしょう。
すぐ思いついたのは、親からもらった最初のプレゼントだということ。ほとんどの人はそうでしょう。
生まれた命に名前をつけ、呼ぶことで個が判別される。私もそうだったはずです。
私は志普です。自分の名前に疑問を抱いたことなどありません。志普だと思っているから、志普と呼ばれた時は自分なのだと思いました。
では、そうなる前は? やはり、名前を呼ばれることで自分がそれなのだと学んでいったと思います。なんだか、考えれば考えるほどややこしい話ですね。
名前とは、自分を表すもの。私が私であることを証明するもの。ひとりが呼べば、ひとりの中に私が存在する。ふたりが呼べば、ふたりの中に私はいます。
いつか消えてなくなったとしても、『志普』という名前が残っていれば、私が存在した証拠になるのでしょう。
いろいろと難しいことも考えましたが、私が出した結論は。
「名前は存在の証明……」
私が私であること。あなたがあなたであること。
ここにいること。どこかにいたこと。
名前を呼ぶことは存在を証明すること。名前を呼ばれることは存在を証明されること。
呼び方がなんであれ、その人にとって『名前を呼ばれた』と思えることが重要なのでしょう。
私が魔奇さんを呼んだ時、彼女はいつも私を見てくれました。うれしそうに微笑むのです。そんな顔をされれば、呼びたくない人なんていません。
入学式で出会ってから、何度お互いの名前を呼んだでしょう。でも、そのすべてが名字でした。
最初は何も思わなかったのです。これまでも、名字で呼ぶ人もいれば、名前で呼ぶ人もいましたから。関わっていくうちに、呼び方が変わったことも多々あります。
シロツメちゃん、小悪ちゃん、勇香ちゃん、きとん。みんなを名前で呼んでいる私は、魔奇さんのことも名前で呼ぼうと思いました。
でも、できませんでした。それが不思議でたまらなかったのです。正直に言って、今までこんなことはありませんでした。
そうしようと思えば、ある程度は簡単に実行できていたからです。呼び方だって簡単です。「こう呼んでいい?」と相手に訊けばいいのですから。
それがどうして、魔奇さんだけできなかったのでしょう。何度も考えて思ったのは、私が現状に満足してしまっていたということ。
名前で呼ばなくても、呼ばれなくても、いつも彼女の隣にいるのは私でした。それだけでとてもうれしかったのです。毎日、楽しくて幸せな時間を送ることができていた。じゅうぶんだと思ってしまったから、それ以上を望まなかったのかもしれません。
一度、挑戦した時もありましたが、以降がなかったのは私の心のせいでしょう。私は、今という状態が最適だと思っていたのです。
でも、違った。
私は彼女の苦悩を知りました。素敵だと思った理想を揺らがせる彼女の恐怖。世界を知ったからこそ、彼女は前に進めないでいるのです。
知らないことは怖いこと。でも、知ることも怖いこと。
彼女は知りました。世界の広さを。
私も知りました。魔法の世界と彼女の理想を。
では、魔法が使えない私にできることはなんでしょう。気高き理想を抱く彼女の為にできることはあるのでしょうか。
知った私は考えました。彼女が立派な魔女になる為に必要なことは何か。
限られた知識を総動員し、私はとあることを決めました。だいぶ強引で呆れた案でしたが、きっと必要だと思ったのです。
私は立てた膝を両手で抱え、空を見上げました。灰色の雲が流れていく頭上から光はなく、薄暗い空間を作り出しています。
彼女を信じ続けて待つ私。胸の奥に抱く気持ちは、彼女の理想を聞いた時から変わりません。
世界に暗い影が落ちようと、高い壁が立ち塞がろうと、あなたの理想は奪えない。きらきらと光るものを追いかけながら、不思議な力で理想を叶える姿が想像できるのです。
誰かが夢物語だと笑おうと、私は信じ続けましょう。何度でも、あなたに幸運があらんことを、と願いながらシロツメクサを渡すでしょう。
だから、負けないで。世界は広くて果てしないけれど、あなたの理想は必ず意味がある。いつか誰かの幸せを作り、守るのだと。
現に、私がここにいることが一つの証。平々凡々、ありふれた普通の少女だった私が、こんな大それたことを考えて行動に移したのです。これがあなたの背を押すと信じます。
雨が降りそうな空から目線を落とし、かすかにわだかまる恐怖を振り張ろうと目を閉じました。
その時。
私の耳に届いた彼女の声。暗澹たる灰色の空をかき消す彼女の声。それは私の名前を呼んでいました。
だから、私も呼びました。ずっとずっと呼びたかった彼女の名前を呼びました。
「すぺるちゃん!」
私の声は、空の彼方に消えていきました。大丈夫。ちゃんと届いた。理由なんてありませんが、私は安心して微笑みました。
よかった。やっと呼べた、あなたの名前。
大事にするあまり、いつの間にか触れられなくなっていたあなたの名前。
目の前にあなたはいないけれど、私の声はたしかに彼女に届きました。
まぶたを照らす淡い一筋の光。上を見上げると、灰色の空から青い色が覗いています。雨は降らず、天気は回復に向かっているようです。
心を満たすのは、今まで名前を呼ばなかったことへの晴れやかな後悔と、透き通った幸福感。
もう大丈夫。彼女がそう言ったような気がしました。
だから私も、空に向けて笑顔を浮かべました。
嵐の後だからでしょうか。空がきらきら光っているように見えました。
お読みいただきありがとうございました。
魔法が届いた時のお話。




