88話 魔女の工房
閲覧ありがとうございます。
サブタイにどきどきしたりしなかったり。
足首の治療をしてもらった私は、転んだ時についた汚れを落とそうと洗面所にやってきました。一通り綺麗にすると、最後に手を洗っておしまい。リビングに戻ろうと廊下に出たところ、ふと、知らない香りを感じて顔を動かします。
「……なんだろう」
香りは廊下の奥から漂っているようでした。気になって足を進めると、昼間なのに薄暗い空間が広がっていました。
人様の家です。あまりずんずん行くものではありませんが、香りが濃くなっていることに気がつきました。
お香でも焚いているのかと思いつつ、もう少しだけ……と奥へ。
ほのかに照らされた廊下の先には、閉められたドアがありました。小窓がついていますが、不透明なガラスがはまっていて中は見えません。
つい目を凝らすと、ガラスが色とりどりに光ったような気がして不思議な気分を抱きました。
かなり気になる部屋ですが、リビングに戻らないと。踵を返した瞬間、目の前にすまさんがいたので悲鳴を上げて後ずさります。
「な、なななな、なん……えっ⁉ あ、えっと、すみません、勝手にうろうろして……」
咄嗟に謝る私ですが、すまさんはミステリアスな雰囲気をまとって「その先が気になる?」と訊きます。
遠慮がちに頷くと、彼女はすっと杖を取り出して回します。背後でがちゃりと鍵が開く音がしました。
壁の方に身を寄せると、彼女がドアを開けて入るように促します。
「お邪魔します……」
不安はありますが、好奇心の方が格段に強いことを感じています。黙って立っているすまさんを横目に、室内のあちこちに視線が飛ぶ私。
テーブルの上には無数の紙束ときらりと光る綺麗なペン。壁に埋め込まれた棚には数えきれないほどの書物が収められています。棚のない壁に貼り付けられた紙に描かれた魔法陣に胸が高鳴ります。
いろんな道具が置いてありますが、用途はひとつもわかりません。ただ、絵本で見た大きな壺がひときわ目立っていました。中は空ですが、ほこりをかぶっている様子はありません。
「あの、ここは?」
一通り見終えた私が訊くと、すまさんは杖を一振り。何もない空間から出現した三角帽子を被り、その瞳を赤く煌めかせます。
「魔女の工房さ」
「魔女の工房……」
「魔法を作ったり、練習したり、魔法薬のレシピを考えたり、調合したり。魔法に関する様々なことを行うわたしの仕事場と言えばわかるかな?」
「はい」
私が頷くと、すまさんは再び杖を振ります。棚に収まっていた本が蝶のように飛び、彼女の手中に着地しました。本を私に手渡しますが、知らない言語で書かれているようで読めません。
「魔法使いや魔女と呼ばれる者たちは、文献にも残らない古い時代から存在したとされる。その本に書いてあるのは、遠い国での魔女について。志普ちゃんが知らない世界が広がっているよ」
読めないだろうけど、と付け足して笑顔を浮かべます。意地悪をしたのではなく、存在を伝える為だけだったのでしょう。また蝶のように舞い、本は棚に帰っていきました。
「さて、志普ちゃんが知りたいことはなにかな?」
「私が知りたいこと?」
「そう。魔女について? 魔法について? 魔法生物について? 知れば自分の『普通の世界』が広がる分、いろんなことがまとわりつくことになる。知らない前には戻れないよ」
ひとりでに動く椅子が二脚。片方にすまさんが座り、私を見ます。
知らないことは怖いこと。けれど、知ることも怖いこと。私を助けてくれた魔法生物はそう言いました。
でも、私は知らないままではいたくない。知って、何かできることがあるなら喜んで進んでいきたいと思いました。
それに、私は純粋に、魔奇さんが見ている世界、生きている世界をもっと知りたいのです。大事な友達だから、マジマジのメンバーだから、それ以外にもきっと理由はあるけれど、今はまだ。
「教えてください」
躊躇いなく椅子に座った私は、真正面からすまさんを見つめました。知らない世界が向こうから鍵を開けたのなら、私は開ける選択肢しか持っていません。
「いい目だね。よし、何から訊きたい? 答えられることならなんでも教えるよ」
「えっと……、私は知らないことが多すぎて、何から訊けばいいのかもよくわからないんです」
魔奇さんや小悪ちゃんの言う『何がわからないのかわからない』状態です。学校の勉強なら教科書や参考書がありますが、魔法にもあるのでしょうか。
「そうだねぇ……。じゃあ、まずは初歩的なことから始めようね。ずばり、魔法とは何か」
私は背筋を伸ばします。
「魔法は、魔力によって起こる自然の摂理に介入する力のこと。そして、介入した結果、自然とは異なる作用を引き起こす力だよ」
「摂理に介入……」
「難しく考えなくてもいい。たとえば、さっき本を動かした魔法を思い出してごらん。重力を考えれば、本はあんな動きはしないよね」
「はい」
「でも、魔法で介入することで、重力を無視した動きをもたらす。誰かや何かに力を加えられずとも、本が勝手に動くように見える動きを」
すまさんは杖を振ります。
「物を動かす魔法は簡単なんだよ。そこに働いている摂理に少し介入するだけでいいからね」
「じゃあ、難しい魔法というのは、介入が大きい魔法ってことですか?」
「ざっくり言えばそうなるね。介入レベルが大きかったり、介入する箇所が多かったりすると、その分、頭も魔力も使うことになる。志普ちゃん、難しい問題を解く時に疲れたなって思うことはない?」
「あります。甘いものが欲しくなるので、鞄にチョコレートを入れています」
よく小悪ちゃんにせがまれてあげていますよ。
「魔法も同じなんだよ。何度も問題を解くように、経験を積めばショートカットもできるけれど、その領域に到達するまでは長い。だからといって、無理やり発動すると失敗して大変なことになる。向こうの摂理に弾かれて、こちらの摂理が捻じ曲がることになるからね」
「……だから、知ることが重要?」
すまさんは深く頷きました。
「使う魔法が摂理のどこに介入するか、ちゃんと知らないと魔法は成功しない。学校でやっている勉強と同じさ。ちゃんと学び、知り、活かす。知識は力になるんだよ」
「なんとなく……ですが、わかったような気がします」
彼女は満足そうに微笑みます。「志普ちゃんは魔法を使えないから、そこまででじゅうぶん」
「じゃあ、あの、次は魔法使いについて訊いてもいいですか?」
「もちろん。……なんだか懐かしい気分だね。昔、魔法を習い始めたすぺるにも同じように教えたんだよ」
時を超え、娘の友人に教えることになるとは思ってもみなかったでしょう。しかも、魔力を持たないただの人間に。
それでも、すまさんはどこか嬉しそうでした。教えたところで魔法は使えないと知りながら、彼女は口を開くのです。
お読みいただきありがとうございました。
『そうなんだ~』くらいで読んでいただければ。雰囲気でいいです。




