86話 夏課題をやろう
閲覧ありがとうございます。
レギュラーメンバー兼スペシャルゲストこと課題さん。
二日目、ログハウスにて。
冷房から送られる涼しい風を感じながら、私たちは大きなテーブルに向かっていました。
「この問題は、百二十ページに書かれている公式を使うのですが、その時に注意すべきことがあって……」
勇香ちゃんの声をBGNにし、私は問題集のページをめくりました。隣では、黙々と問題を解くきとんがいます。彼女には言わず、どちらが早く終わるか勝手に勝負しているのですが……。
「……ううむ」
この問題、どうやって解きましたっけ。つまづくといけません。隣のきとんは一度も手を止めることはないのです。今回の勝負、私の負けになりそうです。
「……なあ~、一旦休憩にしないか?」
テーブルに顔を乗せた小悪ちゃんが気だるげな声を出しました。
「だめです。まだ初めて二十分しか経っていませんよ」
「だが、集中力が切れたのだ」
「すぺるさんを見てください。文句も言わずに問題を解いていますよ」
「そんなまさか……って、大丈夫か、おぬし?」
訝しげに魔奇さんを見た小悪ちゃんは、一転して心配そうな表情を浮かべました。
「だいじょうぶ……ぜんぜん……まだいける……まだとべる……」
一点を見つめて微動だにしない魔奇さんが目を見開いていました。小悪ちゃんが若干の恐怖を感じて身を引きます。
「実家まで来て夏課題をやるとは思わなかった……。せっかくみんなで遊ぼうと……」
「いまは夏休み。遊ぶのも大事ですが、課題も大事ですよ」
「勇香ちゃんの正論が痛いよう……」
「それに、休み明けにはテストもあります。範囲は夏課題なので狭いですが、赤点を取れば例のごとく補習ですよ」
「ああぁぁぁあぁぁ~……、聞きたくない言葉ランキング上位が三つも!」
叫んだ彼女は、勢いよくテーブルに突っ伏しました。ゴンっと重苦しい音が響きます。
「みっつ、なに?」
顔をぶつけた音に驚いて三角耳が出たきとんが訊きます。
「テスト、赤点、補習だよ。絶望三銃士って覚えてね……」
「おぼえたくない」
「だよね……、わたしも……」
非常に弱々しい彼女は、口から不透明な何かを出しつつシャープペンシルを握ります。
「魔奇さん、わからないところがあったら言って。私が教えるよ」
「ありがとう、平良さん。やさしいねぇ……」
めそめそしながらも、彼女は問題集を開きます。主が難題に立ち向かっている隣では、使い魔のシロツメちゃんは優雅に座布団でお昼寝中。
ふと、視線を感じて顔を動かすと、勇香ちゃんに教わっている小悪ちゃんがこちらを見ていました。テーブルに置いた頬がむにゅっと伸びています。
「なあ、おぬしら。ずっと気になっていたんだが……」
つぶれた口で言うので、若干舌足らず気味です。
「なんで名字で呼んでいるのだ?」
魔奇さんがシャープペンシルを落としました。氷柱のごとく固まり、微動だにしません。
「入学式からの知り合いだろう? 我らよりも先に出会っているのに、なんで妙に硬い呼び方をしているのだ」
「それは……」
弁明しようにも、うまく言葉が出てきません。
「誰に対してもそうならまだしも、おぬしら基本的に名前で呼んでいるから、こっちからしたら不思議で仕方がないぞ」
「そ、そうだね……」
「何か理由があるなら知りたいのだが、どうだ?」
「理由……」
そう言われても、難しいワケなんてありません。
「課題から逃れる為の質問かと思いましたが、私も気になります。よろしければ教えてください」
勇香ちゃんも参考書をテーブルに置いてしまうので、私たちは二人して身を硬くします。
「……………………」
「……………………」
沈黙する両者に、小悪ちゃんは不敵な笑みを浮かべます。
「ははーん。さてはおぬしら、タイミングを失ったな?」
「そっ、そんなわけないじゃん! 別にタイミングとか問題じゃないし、どう呼ぼうがわたしたちの勝手だし、そりゃ、名前で呼ぶっていうのは仲がいい感じがするけれど、名字で呼んだって関係性は変わらない……はずだし!」
「必死なところを見ると図星っぽいが?」
「ち、ちちち違うって! そういう小悪ちゃんはどうなのよ。基本的に呼び捨てだけど、何か理由でもあるの?」
「我は魔王だぞ。呼び捨てで何が悪いのだ?」
「せめて年上には敬称をつけた方がいいんじゃない?」
「必要ならばそうしよう」
「これはしないやつだな」
やれやれと肩をすくめる魔奇さんは、落としたシャープペンシルを拾って課題を再開しようとします。
しかし、小悪ちゃんの意識は依然として呼び方に向いているようです。身を乗り出し、「なあ、なんでだ?」と再度問いただします。
「な、なんでもいいじゃん……」
「よくないぞ。もし気になることがあるのなら、マジマジに所属する者として協力してやらんこともない」
「協力?」
私が小首をかしげると、彼女は「そうだ」とにやり。
「おぬしたちが逃したタイミングとやらを、こちらでセッティングしてやろう」
「お見合いの話ではありませんよね?」
表現が気になったのか、勇香ちゃんが目を光らせます。
「違うが、そうだったらどうするのだ」
「楽しそうなので全力で取り組むまで」
きらきらしたものを飛ばしつつも彼女は正座を崩しません。自分の感情をコントロールできているようですが、しっかり『楽しそう』と言いましたよね。
「勇香の興味関心はともかく、手伝ってほしいことがあったら言うのだぞ。ほれ、物は試しだ。いまここで名前呼びに挑戦するといい」
「セッティングって、強引すぎない⁉」
問題集を盾にする魔奇さんですが、小柄な小悪ちゃんは隙間を縫って顔を覗かせます。
「まあまあ、そう言わずに。まずは挨拶からだぞ、すぺる」
「だから、お見合いみたいに言わないで!」
「お二人の趣味や座右の銘などを教え合うのもよいですよ」
「勇香ちゃんは完全に趣旨を間違えているよね⁉」
「しほはうさのすけがすき」
「あ、それは知ってる。二人でうさ之助のコラボカフェに行った――じゃなくて、この時間は夏課題でしょ! 散れ、散れ!」
両手をぶんぶん振りますが、完全に夏課題から意識が逸れた少女たちはテーブルに前のめり。ふと、小悪ちゃんはもう一人の当事者である私に狙いを定めます。
「志普はどうだ?」
「どうって……」
「このままズルズルと名字で呼ぶつもりか? もし名前を呼びたいのなら、いつか変える時が来る。今をその時にしようではないか」
「うっ…………」
私の脳裏に、教室での出来事が思い浮かんでいました。あの時、魔奇さんが言いかけたこと。教室のドアを開ける音に遮られたこと。
そのうち、と思っていたら、あっという間に時間が過ぎてしまいました。新しい人と出会うたびに、簡単にできていたことが、なぜか彼女を相手にすると躊躇ってしまうのです。
でも、小悪ちゃんが強引に引っ張ってきてくれた今なら……。
「あの、魔奇さ――」
「あああ、ああああそうだそうだ思い出した!」
急に叫び、立ち上がるので、ぽかんと彼女を見上げます。
「お母さんに呼ばれてたんだった! なんでか平良さんを連れてきてって言われてたんだよねー! はやく行かないと怒られちゃう! よし、行こう。平良さん、行くよ!」
「えっ、えっ?」
「ほら立って、家の方に行くよ! レッツゴー!」
状況が掴めない私は、彼女に手を引っ張られて立ち上がりました。そのまま引きずられるので、とりあえず足を動かすしかありません。
「あっ、逃げるのか、おぬしら!」
「お母さんに呼ばれた用事を済ませたら帰ってくるからー!」
「それほんとか⁉ 嘘っぽいぞ!」
「いってきまーす!」
「夏課題はどうするのですか?」
「夏はまだまだこれからだよ! そう、チャンネルはそのまま!」
「何を言っているのやら」
彼女たちの声を背に、私は魔奇さんに手を引かれるがまま。座布団で眠っていたシロツメちゃんが仕方なさそうに走ってくると、彼女の肩に飛び乗りました。ちらりと顔を見ると、面白そうに鼻を鳴らします。
「あら、顔真っ赤」
そう言われると気になるので、私も覗こうと首を伸ばしますが、
「いまこっち見るの禁止!」
必死に言われたので、大人しく姿勢を戻します。こうしている間も、彼女が走るスピードは緩まりません。魔奇さん、結構足が速いんだなぁ。とはいえ。
「魔奇さん、歩いて行こう? じゃないと転ぶ――」
あ、つま先が石に当たりました。私の足がもつれます。これはいけない。
「魔奇さん、ごめん!」
「えっ、なにが――うぎゃぅっ」
「あうっ」
華麗なる転倒を披露した私たち。直前で回避したシロツメちゃんが上に乗り、青い目で見下ろします。
「こどもねぇ」
お読みいただきありがとうございました。
名前を呼べない少女たち。




