16話 名前
閲覧ありがとうございます。
今後大事になってくる名前についてのお話です。
連絡先を交換してからというもの、魔奇さんは時折、携帯を眺めて笑顔を浮かべることがありました。
つい気になり、「何かいいことでもあった?」と訊きます。
「クラスのグループに入ったことで、クラスメイトの名前を知ることができたの。入学式で一覧のプリントをもらったけど、顔まではわからないし」
「アイコンが顔写真じゃない人もいるけど……」
かくいう私もそのひとりです。公式から配布されている、とあるマスコットキャラクターの画像を使っています。魔奇さんも顔写真ではなく、魔女の三角帽子とほうきの写真でした。
「名前とアイコンを結び付けて覚えようと思って。あと、好きな音楽とか」
「自由に設定できるもんね」
「まだ話したことない人でも、事前に情報を得ておくと話しやすいかなって」
スパイ?
「そんなに気を張らなくてもいいと思うよ」
「自然体が一番難しいんだよう……」
口を尖らせながら、彼女は画面をスクロールしているようでした。
「みんな素敵な名前だなぁ」
その言い方から、なんとなく引っかかるものを感じました。
「ねえ、平良さん」
「ん?」
「平良さんは自分の名前好き?」
「好き……かどうか、あんまり考えたことはないかな」
志普。両親が一文字ずつ決めて組み合わせたそうです。小学生の時にあった『名前の由来』を調べる授業で聞きました。
志。なにか一つでも胸に志を抱いて生きる子になってほしい。
普。あまねく広がる大きな幸福をあなたに。
こどもの頃はよくわからなかった意味ですが、今では理解できます。好きか嫌いか、あえて考えたことはありませんが、良い名だと思っています。
この事を伝えると、魔奇さんは両手で顔を覆いながら「素晴らしすぎる……」と蚊の鳴くような声でこぼしました。
「そう?」
「あまりに良い……」
「そんなに褒められたことないから恥ずかしいよ」
褒められたお返しに、「魔奇さんの名前だって素敵だよ」と言うと、彼女は浮かない顔で私を見つめました。
「どうかした?」
「わたしの名前、どう思う?」
「どうって、素敵だと思うよ」
「…………」
彼女は口を固く結び、私の目を射るように見つめます。漆黒の中に赤い薔薇が咲いているような美しい瞳。遠く深く沈んでいく深淵の奥で光が瞬いたような気がしました。
自分の発言に嘘はありません。彼女の視線に私の視線を重ね、じっと沈黙を守りました。静寂が耳にこだまします。
「…………わたし」
ふと、彼女が小さく口を開きました。
「……自分の名前をずっと恥ずかしく思ってたの」
「……どうして?」
深刻な表情の魔奇さん。これまでの人生で、何か辛いことでもあったのでしょうか。私にできることはあるでしょうか。
気づかれぬように息を整え、続きを待ちます。
「…………わたしの名前」
「……うん?」
「……キラキラネームじゃない⁉」
「…………」
想定していなかった発言に、私は一瞬思考が停止します。いま、なんて?
「恥ずかしくて名前を言えない……」
「…………」
涙目になった彼女に、私はかける言葉を考えていました。丁寧に組み立て、「魔奇さんは自分の名前嫌い?」と問いかけます。
「……嫌いではないよ。ちゃんと由来もあるし、考えてつけてくれたことを知っているから。ただ……」
「ただ?」
「成長するにつれて思ったんだ。『あれ、これっていわゆるキラキラネームでは?』って」
まあ、よくある名前ではないことは確かですけど。
「せめて漢字なら……。いや、変に当て字を使われるよりはいいのか……」
頭を抱える彼女に、私は用意していた言葉を発そうとして。
「…………」
やめました。代わりに、奥底から湧き出てくる思いを勢いのままに口にします。
「私は、かわいいと思ったよ」
「…………へ?」
「入学式の日、自己紹介の時間があったでしょ。あの時、魔奇さんの名前を聞いて『かわいい名前だな』って思ったの」
「かわいい……。そ、そう。かわいい名前か。そっか。そう……」
咀嚼するように反復し、やがてその声は細く消えていきました。しかし、隣の席の私には見えています。彼女が頬を真っ赤にして俯いているのを。
「……聞き間違いじゃないよね?」
「もう一度言おうか?」
「いっ、いい! 大丈夫! 聞き間違いじゃないならいいの」
「そう?」
彼女の反応があまりに素敵だったので、少々意地悪な私が顔を出します。いたずら心を刺激され、微笑みながら彼女を見ます。
「……な、なに?」
「ううん。なんでも」
「何か言いたげな顔だけど」
「そういう魔奇さんこそ、何か言ってほしそうな顔だけど」
「へっ……⁉」
からかって言ったのですが、どうやら図星だったようです。
「そ、そんなこと……ないもん」
「なんでそっぽ向くの?」
「携帯見てるだけだって」
「そっちに携帯ないよ」
「そ、空を見てるの」
「そっか」
白い雲が流れていきます。二人とも口を閉ざし、静寂が訪れます。
彼女をからかう積極的な私は、高鳴る心臓の音を聴きながら『あること』を脳裏に浮かべました。いつ沈黙を破ろうか、そればかりを考えます。
普段は言えない『あること』。今なら言えそうな『あること』。静寂を突き破るくらいに鼓動が強まっていきます。勢いに身を任せ、それを口にしようと意を決します。
「ねえ、魔奇さん」
「ねえ、平良さん」
彼女が口を開くのが同時でした。
「あ、どうぞ」
「ううん、そっちが先に」
「大丈夫だから」
「わ、わたしも大丈夫」
そして、また黙りました。少しだけ開いた窓から春の風が吹いてきます。
何度か息を吸い、吐き、呼吸を整えます。よし、と再び準備して言います。
「魔奇さん」
「平良さん」
「あっ」
「あっ」
見事に揃う声。顔を見合わせ、「どうぞ」と促しました。キリがないと思ったのか、小さく頷いた彼女は端整な顔に緊張を走らせながら私を見ます。
「平良さん、もしよければきみのこと、名前で呼んでも――」
ガララッ! 耳につんざく大きな音が言葉をかき消しました。
「わっ⁉」驚いた魔奇さんは音の発生源に目をやります。
「あ……」私も見ると、そこには担任の先生が。
「授業始めるぞー」
気怠そうな先生が教材を持って入ってきました。少々乱雑に開けられたドアは開けっぱなしで、仕方なさそうに廊下側の生徒が閉めにいきます。
「あ、悪い。ありがとな」
感謝した先生は、教室を見渡してぎょっと目を開きました。
「…………」
「…………」
無言で先生を凝視する生徒が二人。
「な、なんだ?」
恐る恐る問いかける彼に、私たちは口を閉ざしたまま鋭い視線を浴びせます。
「なんだよ……」
「…………」
「…………」
別に、彼が悪いわけではありません。いろんなことが爆発し、思考が停止しているのです。ただ、先生はそれを知りません。私たちの視線を一身に浴び、理由もわからないまま背中を丸めます。
「なんかよくわからんけど……」
女子高生に見つめられ、きまりが悪そうに小声で言います。
「ごめんって……」
いえ、こちらこそ凝視してごめんなさい。
お読みいただきありがとうございました。
二人とも、あとちょっとでしたね。




