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架空世界の恋愛/童話・お伽噺

夢見がち令嬢と冷酷猫将軍の結婚 〜目指すは溺愛と理想の夫婦〜

作者: momo_Ö


『よき夫は、妻を、溺れるほどの愛をもって(いつく)しみ。

 よき妻は、夫の愛を尊び、余すところなく享受する。』


 ――これが、我が国の模範とされている夫婦の()り方。



 私もずっと心待ちにしていた。ひたすらに甘く、溺れるほどの愛を浴びせてくださる旦那様。そんなかたに出逢って、(とろ)けるほどに愛し愛される日々を。

 お父様とお母様のように素敵な夫婦に、そして私は世界一幸せな奥様になるのだと。そう信じて疑わなかった。


 だから、お父様の部屋に呼び出されて、それが結婚の話だと知ったとき。わくわくが抑えられなかった私は、羽が生えた心臓がどこかへ飛んでいくんじゃないかと思ったの。




「マリジェラ、お前の結婚が決まった。相手はナレシュ・ヴァルタ、二十四歳。西の地を守るイルミラ騎士団に属する将軍だ。すまないが、国王陛下から(たまわ)った縁談だから断ることはできない。少々急だが半年後には挙式予定で……」

「まあ、お相手のかたは騎士様ですのね、素敵! お母様から『あとで衣装部屋に来るように』と言われていたのはきっと、婚礼衣装についてのお話ね。こうしてはいられませんわ、早速行ってまいります!」

「あっ待て、マリジェラ、最後まで父の話を――」



“ナレシュ様”。

 お名前は初めて聞いたけれど、イルミラ騎士団は誰もが知っている。魔物の多い西の地を守護する、精鋭揃いの集団。武に秀でていることはもちろん、知性や品格も兼ね備え、あらゆる面で優れた者ばかり。“騎士たるもの女性を重んじ崇めよ”、といった心得も染み付いていると聞く。

 そんな騎士団の将軍なのだもの、きっと素敵なかたに違いないわ――。


 ふわふわと浮き足だった私は淑女らしからぬスピードで階段を駆け上がると、その勢いのままに衣装部屋の扉を押し開けた。


「お母様、聞いたわ! 私の結婚が決まったって」

「ああ、マリジェラ……お父様からお話があったのね」

「? ええ、どうしたの? お母様ったらなんだか浮かないお顔」


 お母様は、窓辺に置かれたトルソーを前に佇んでいた。トルソーが着ているのは、私が受け継ぐ予定の見事な婚礼衣装。金銀糸で花模様を織り込んだなめらかな絹のドレスは、陽だまりの中にやわらかく輝いている。

 というのに、窓からの光を避けるように立つお母様の顔は、どんより曇り空。


「だって、相手が猫族だなんて……」

「猫、族……?」

「まあ、お父様から説明されていないの? 狙った獲物は決して逃さない、冷酷で残忍な性格。夜目がきいて、社会的生活が苦手。野蛮な恐ろしい一族よ」



 ――猫族。貴族の娘として生活していると、関わることはまずないけれど。一応聞いたことはある。国の端のほうでひっそりと暮らしている、少数民族。猫のような耳と尻尾を持っていて、私たち()()()人間とは文化が違い、お母様が言うように野蛮とされている。


 そんな相手との縁談がなぜ持ち上がったかというと、国王陛下のご意向とのこと。一般には()み恐れられている猫族だけれど、彼らは身体能力が高く、武力として非常に有用。従来どおり互いに避け合って生きていくより、積極的に友好関係を深めたい。その第一歩が、私たちの政略結婚なのだと。



「はあ……マリジェラよ、すまない。父が、陛下へ領地の様子を報告に行ったタイミングが悪かったのだ。近頃の陛下はちょうど猫族との関係を考えておいでで。雑談の折、『そう言えばそなたの娘はいくつだったか?』と問われ、十八になったところですと答えたら、それで……はあ……」

「お父様、そんなに溜め息ばかりつかないで。猫族っていっても、立派な騎士様なのでしょう? それに、陛下から賜ったご縁ですもの。きっと素敵なかたに違いないわ」

「ああマリジェラ、お前はなんて良い娘なんだ。いや、だからこそ幸せになってほしいというのに」

「大丈夫よ、お父様。きっと私は世界一愛されて、お父様とお母様が羨むくらい素敵な夫婦になってみせるわ!」




 ……なんて、がっくり肩を落としてしょげかえるお父様の手前、宣言してしまったけれど。

 新婚二日目にして、私は早々に叫び出したくなっていた。


 〜〜〜〜もう、思ってた結婚生活と、全然違う!!!




 ❁



「はあ……溺愛なんかもってのほか。きっと、嫌われているに違いないわ」


 お父様には、「溜め息ばかりつかないで」なんて言っておきながら。新婚二日目の朝、私は朝食も取らずに自室のベッドへ突っ伏して、盛大な溜め息を重ねていた。



 縁談が舞い込んでから半年が過ぎた、昨日。私は無事にナレシュ・ヴァルタ様の妻となった。


 いや、正確には「妻」とは言えないかもしれない。挙式はしたけれど、新居に到着した旦那様は自分のお部屋にこもってしまわれて、いつまで待っても夫婦の寝室へやってくる気配はなかった。つまり、結婚初夜を共にしていないのだ。


「結婚式の、誓いのキスすらしてもらえなかった……」



 式を待つ半年の間、ナレシュ様にお会いできたのは一度だけ。縁談の発起人である国王陛下の御前にて、短時間の顔合わせがあった。


 実際に会うのは初めてだった「猫族」。第一印象は、なんというか、ピリリとしていた。

 容易に人を近づけないオーラというのか。私には、騎士のお仕事――魔物を討伐して国を守るというのは想像しかできないけれど、日々戦いの場に身を置いているとあのような雰囲気になるのだろうか。それとも、お母様が仰るように野蛮な猫族だから?


 背はお父様より頭ひとつ分も大きくて、肩幅は広くがっしりしていて。彼が私の前に歩み出たとき、窓から部屋へ差し込む光が遮られ、そびえたつ大樹の陰に隠されたような、自分がとても小さきものになったような。そんな心持ちがした。


 やや日に焼けたお顔の中に、淡いブルーグレーの瞳がガラス玉のように光っていた。髪は木炭に似た濃い灰色で、毛先にふわっとした癖があり、さらに視線を上に向けたところに――ピンと立った獣の耳が二つ。


 本当に、人とは違うお耳なのだわ……私はつい我を忘れてじろじろ眺めてしまって。そのうちに、彼は何も言わずに私からすっと距離を取った。


 そうして一言の会話もないまま迎えた昨日の結婚式。式はつつがなく、万事手順どおりに進んだのだけれど。

 いざ誓いのキスをという場面、緊張を抑えて目を閉じた私が感じたのは、鼻先にちょんと何かが触れた感覚だけ。



「はあ〜〜……」

「お嬢様ったらそんなに大きな溜め息をおつきになって。でも、いいじゃありませんか。夫婦の在り方は溺愛が基本といえど、あんな怖そうなおかたに愛されるよりは、放っておかれたほうが。あっ、でも今朝のことはいただけませんわね。あのような趣味の悪い贈り物、嫌がらせかしら」


 傍らで、鼻の上あたりにきっと(しわ)を寄せたのは、生家から伴った侍女のターニア。

 食堂で朝食を取れなかった私のため、彼女は自らトレイを手にし、部屋までパンやらハムやらを運んできてくれた。


 そう、私がまだ朝食を取れていないのには理由がある。朝一番でナレシュ様からの予想外の贈り物と対面した私は、食堂へ向かうどころではなくなってしまった。



「初夜に花嫁を放ったらかしにして、今朝もお嬢様に会うことなくさっさとお仕事に行ってしまわれて。贈り物があるというので見てみれば……魔物のツノやハネって、一体どういうことなんですの!?」

「ターニア、代わりに怒ってくれる気持ちは嬉しいけれど、もっと声を落とせる? 昨晩はあまり眠れていないのよ」

「はっ、申し訳ございません! つい感情がだだ漏れてしまいまして……!」


 今朝ナレシュ様に挨拶をしようと自室を出たところ、彼の従者から「旦那様はお仕事へ出られました」と告げられた。代わりに渡されたのは、両腕でちょうど抱えられるほどの大きさをした、簡素な木箱。

 蓋を開けると、中で何かがキラリと光った。宝石でも贈ってくださったのかしら、と。けれどもそんな胸の高鳴りは一瞬のうちに消え去って、中身を確認した私は息を呑んだ。


 七色のオパールのような煌めき、だけどこう、この独特のつやっとした感じ……これはもしや、甲虫のハネ……? その隣にはくすんだ白色の、木の枝をくるくるねじったような形をした、きっと、何かのツノ。そしてその隣は――記憶にない。視界がくらりと傾いて、倒れそうになったから。


 とにかく木箱に詰まっていたのは、おそらくナレシュ様が退治した魔虫や魔獣の一部だった。



「嫌がらせ、そんなことをされるほど嫌われているのかしら……」

「お嬢様が落ち込まれる必要などございません、すべてあちらが悪いのです。野蛮な猫族ですもの、お嬢様が嫌がる姿を見て(たの)しんでいるのかもしれませんわ。もう溺愛うんぬんはお諦めになって、旦那様には構わず好き勝手に過ごしましょう! 幸い旦那様はお仕事ばかりで、大して屋敷にいらっしゃらないみたいですし」

「…………それは……駄目よ……」

「……えっ?」


 ターニアがトレイに載せてきたものをテーブルに並べ、遅れた朝食の準備をしてくれている間もずっと、私はベッドの上に伏せったままだった。

 だけど――



「“溺愛を諦める”、それだけはできないわ。溺愛こそが夫婦の模範だし、何より夢だったのよ。蕩けるほどに愛し愛されて、私は世界一幸せな奥様になる、そう決めたの……!」


 急にむくりとベッドから起き上がった私へ、ターニアはこぼれ落ちるんじゃないかと思うくらいに丸く見開いた瞳を向けた。

 彼女が取り落としたフォークが亜麻布のクロスの上で跳ねて、コトっと小さく音を立てた。




  ❁



「いいわね、マリジェラ。よき夫は最初から『よき夫』だと思っているなら、それは間違いよ」

「お姉様、どういうこと……?」


 新婚の旦那様に嫌われているかもしれない、でも、溺愛されて世界一幸せな奥様になるという夢は諦められない――。

 改めて自分の気持ちを確認した私は、朝食後すぐに馬車を用意させ、五年前に嫁いだ姉エミリーヌのもとを訪れていた。


 昨日結婚式を終えたばかりの妹が事前連絡なしに訪ねてきたので、お姉様はたいそう驚いたご様子で。

 けれど、「よき夫婦になる秘訣を教えて……!」、到着するや否や思わず声を上げてしまった私を、優しい姉はあたたかく迎え入れてくれた。



 エミリーヌお姉様は、貴族女性として一般的な結婚をした。私からは義兄にあたるご夫君は、お父様ご旧友の嫡男フェリクス様。

 子供時代から見知った間柄というのもあり結婚生活は順調で、いつ見ても仲睦まじく寄り添うお二人は、私の憧れだったのだけれど。


 客人を迎える応接間ではなく、ご自身のプライベートなお部屋へと私を招いたお姉様は、いつになく神妙な面持ちだった。


「夫というものは、常に妻へ心を配り、惜しみない愛情を送る。マリジェラ、あなたもこれは当然のことだと思って生きてきたでしょう。私たちが物心ついた頃にはお父様もそうだったし。だけどね……結婚したその瞬間から、皆がよき夫になれるわけじゃないのよ」

「そう、なの? でもお義兄(にい)様はいつもお姉様を気遣ってらして、完璧な旦那様に見えるわ」

「ええ、フェリクスはいい夫だわ。けれど、完璧かどうかというと……。特に、結婚してすぐの頃はね」



 そうして「ここだけの話よ」と前置きしたお姉様は、フェリクスお義兄様の()()エピソードをいろいろ語ってくれた。


 まず、歩くのが速い。お義兄様はすらりと背が高く、歩幅が広いため、自覚がないまま気がつくと速歩きになっているそうで。腕を組んで一緒に歩いているお姉様が引っ張られてしまい、隣からたしなめることしばしば。

 それから、大事な記念日を一日間違えたり、出かける約束をしていた日に大寝坊したり。そして何よりお姉様が不満に感じた点というのが、恥ずかしがってなかなか愛の言葉を伝えてくれないこと。


「結婚生活が進むにつれ、フェリクスはどんどん『よき夫』になっていったわ。でもね、何もしないで変わったわけじゃないの。模範的な夫婦となるために必要なこと――それは、『妻による教育』よ」

「教育……」

「あらマリジェラったら、そんなに難しい顔をしないで。大したことじゃないわ、『妻を愛せよ』なんて言ったって、大抵の男性は何をすればいいかわかっていないのよ。だから、こうしてほしい、というのを妻が伝えていくことが大切なの」

「わかったわ、お姉様。理想の結婚生活のため、私も妻として頑張ります……!」




 こうしてお姉様のアドバイスを受けた私は、妻としての決意を新たにした。

 自宅へと戻る馬車に揺られながら、教わった話を復習する。


 ――「してほしいことを、旦那様に伝える」。昨日は結婚式を終えて、新居に移動して……そうやってばたばたしているうち、ナレシュ様は食事もなさらずに自室へこもってしまわれた。今朝もお会いできなかったし。

 夫婦として、まずは一緒に過ごす時間が欲しい。帰ったら夕食の頃合いだから、食べながら少しはお話しできるかしら。



 そんなことを考える間に自宅へ到着し、馬車を降りると。太陽はだいぶ傾いて、東の空には気の早い一番星が顔を出していた。

 思ったより戻りが遅くなってしまった、そう気がついた私は慌てて、女主人を出迎えるために出てきた使用人の一人に声をかける。


「旦那様は、もうお仕事からお戻りになっている? もしかして夕食をお待たせしてしまっているかしら」

「いえ、旦那様は……」


 よかった、というのは失礼かもしれないけれど。私のほうが早かったのね、どうやらナレシュ様はまだお仕事からお戻りではないみたい――


 安堵しかけたのは束の間。使用人からなされた返答の続きに、私は耳を疑った。


「旦那様は一度お戻りになられたのですが、つい先ほどまたお出かけに」

「……え? こんな時間から一体どこに?」

「それは、教えていただけませんでした。何時に戻るかわからないので、奥様におかれましては気にせずゆっくりお過ごしくださいと」

「…………」




 結局その夜、ナレシュ様が戻られることはなかった。


 ターニアは、傍らでずっと何かをぼやいていた。けれど、私が相槌を打つ元気さえないのを見て取ると、彼女は一緒になってしょんぼりして、「お嬢様、もういっそご実家に帰られては……」なんて言うものだから。


 初日と同じくひとりで眠りについた私は、新居のベッドがやけにひんやりとして感じられた。

 そして、あたたかな夢を見た。微睡(まどろ)みの中、子供に戻った私は、皆と実家の食卓を囲んでいて。


『あなたも子供たちも、これが好きねえ。贅沢なものではまるでないというのに』

『君が作ったものなんだ、世界一おいしいに決まっているじゃないか。思い出が詰まった料理というならなおさらだ』



 ――あれは……お母様の作った、ケーキ?




   ❁



「できたわ!」


 翌日、私は新居の台所へ赴いて、ケーキ作りに(いそ)しんでいた。


 作ったのは、昨夜の夢で見た「玉ねぎケーキ」。お母様の、さらにはお祖母(ばあ)様の得意料理でもある。

 お父様の家、つまり私の生家が陛下直々に縁談を賜るほどの格である一方、お母様はあまり大きくない地方貴族家の娘だった。もちろん使用人や料理人を雇ってはいたけれど、お祖母様は自ら台所に立つことを(いと)わず、時々おやつにケーキを焼いてくれたのだという。


 そうしてお母様はお祖母様から家庭料理を受け継ぎ、私たちにも教えてくれた。中でも季節を選ばず台所の常備野菜でよく作ってくれたのが、この玉ねぎケーキ。

 ケーキといっても甘いお菓子ではなく、塩コショウで味付けをした、食事の一品にもなる料理だ。ベーコンの油でしなしなになるまで炒めた玉ねぎを、生クリームやチーズ、香り付けのキャラウェイシード等とあわせ、バターをふんだんに用いたタルト生地の中に敷き詰めたら、オーブンでこんがりと焼き上げる。



「ナレシュ様、気に入ってくださるかしら……」


 昨夜ナレシュ様は帰らず、今朝はそのままお仕事に向かったらしい。

 今日はいつ戻られるのかわからなかったけれど、おやつにも食事にもなるケーキならいいかもしれない。夫婦として一緒に過ごす口実作りに。

 そう考えた私は、実家の思い出でもあるケーキを抱え、今か今かと彼の帰りを待った。


 ターニアはなんとなく不機嫌というか、何か言いたそう……というか実際に、心の声が少々漏れていた。

「結婚二日目にして外泊とは、なんてひどい仕打ちなのでしょう。猫族が冷酷で野蛮だというのは本当だったのですわ。そんな相手のためにお嬢様が料理をなさる必要なんて……!」


 ターニアの言い分はもっともだと思う。それでも私は何かせずにはいられなかった。

 心配しながら送り出してくれた両親のため、アドバイスをくれた姉のため、そして、「愛されて世界一幸せな奥様になる」という長年の夢のためにも。




 ナレシュ様が戻られたのは、その日の夕方頃。私は玄関ホールに立って、妻として初めてのお出迎えをした。

 初対面時の印象と同様、彼の周りの空気はピリリと張り詰めていて。目が合ったかと思えば、ふい、とすぐに視線を外されてしまった。


 ただし、夕食を共にしたいという私の言葉は聞き入れられ、渾身の玉ねぎケーキは晴れて食卓へ並ぶこととなった。



 食卓へ着いたナレシュ様を、私はちらりと窺う。飾り棚を背に、彼がテーブル中央に座り、私は斜め隣へ。結婚式では慣れない衣装や儀式、周囲への挨拶などに気を取られていたから、落ち着いて場を共有するのはこれが最初。


「あの、旦那様。これは実家の思い出のケーキで、私が作ったんですの」

「……ああ」


 料理人が作った料理に混じって並ぶケーキを、おずおずと示してみる。

 ナレシュ様の返事は低くくぐもったお声で、その短い中に感情は読み取れなかったけれど。


 おもむろに、彼は皿に取り分けられたケーキへと手を伸ばした。

 ナイフとフォークで一片を切り取り、口に運んでゆく指先を、その横顔を、私は息を呑んで見守る。



 静かに咀嚼された一片が、こくり、微かな音を立てて喉元(のどもと)を通っていくのがわかった。濃灰色の柔らかそうな髪から突き出ている獣の耳が、ぴくっ、と小さく揺れる。


 ――冷酷で野蛮な猫族、というのは本当かしら。


 確かに、体格に恵まれた彼の近くにいると威圧感を覚える。髪の間からぴょんと出ている獣の耳にも、はじめは驚いた。


 でも、ごつごつと骨ばった大きな手指は、丁寧にカトラリーを扱っている。お顔の耳以外の部分は、私たち普通の人間とまったく変わらないように見える。

 寡黙だし、精悍で凛々しいお顔立ちだけれど、冷酷や野蛮というのには少し違うような。



 一口、もう一口と、ナレシュ様が食べ進める様子に、私はいつの間にか魅入られていた。そのうちに、彼のケーキの皿が空っぽになる。


「あの、お口に合いましたでしょうか?」

「……ああ」


 再びくぐもった声が返ってきて、目は合わない。けれど、私は喜びに打ち震えていた。


 食事をご一緒したいという希望が通り、私のケーキを食べてくれて、聞けば「おいしい」とも言ってくれる。お姉様の言うとおり、どうしてほしいかをきちんと伝えれば、応えてくれるのだわ。大丈夫、私はこのかたと理想の夫婦を目指していける――



 そう、思ったのに。




「…………うっ」


 突然、かすれた(うめ)き声とともにナレシュ様の上半身が傾いた。片方の肘をテーブルについた彼は、その手で自らの(ひたい)を覆っている。


 私が動けずにいると、彼は顔を覆ったままふらりと椅子から立ち上がった。

 異変に気づいた従者たちが駆け寄ってきて、足取りのおぼつかない彼の大きな体を支え、食堂から連れ出していく。


 何が起きたのかわからず、私はしばらくぼうっと目の前の光景を見ていた。それから、ハッと気がつく。

 急いで食堂を出てナレシュ様のお部屋へ向かうと、彼は既に部屋の中。扉の前では、数人の従者が何かを話していた。



「旦那様はどこか具合が悪いの? 私にもできることはあるかしら。私は彼の妻ですもの、ぜひ看病を……」


 妻として何かしたい、その一心で彼らに声をかける。

 振り向いたのは、先ほどナレシュ様に肩を貸していた従者だ。男性で、猫族の。


 そして、


「いい加減にしてください」

「……えっ?」


 わなわなと、相手の震える声が意味するものは怒り、なのか。

 次の瞬間、私にとっては思いもよらない言葉が廊下に響いた。


「あなたとの結婚では、旦那様が不幸になります……!」



 絶句する私に、猫族の従者は淡々と続ける。


「妻として、と仰いますが。あなたはご自分の都合を押し付けているだけではありませんか? 昨日は、せっかく旦那様が心を込めて贈られたものを嫌がらせ扱いしたとか。夕食のケーキはあなたが作ったと聞きましたが、玉ねぎは猫族にとって毒なんですよ。そんなことも知らずに妻気取りですか。旦那様が、どれだけあなたに気を遣っているか考えもせずに!」


 ――そんな、押し付けるだなんてこと……私は、理想の夫婦を目指して、努力しようと……。毒だなんて知らなかった、贈り物も、心を込められたものとは考えもつかなくて。


「ちょっと、黙っていれば勝手なことばかり。お嬢様になんて口をきくのですか! あのような贈り物、嫌がらせと取るに決まっています。ケーキのことだって知らなかっただけで、お嬢様の思いをわかっていないのはそちらでしょう!」

「何を……!」


 無言で佇む私に代わって、ターニアが勢いよく言い返す。それに応じようとする従者の姿勢は前のめりで。

 使用人同士が貴族の屋敷内で騒がしく言い争うなんて、前代未聞。女主人として彼らを叱責すべき場面だとわかってはいても、心は別のところにとらわれて動けない。


 私の努力は、間違っていたの? 愛されて、幸せな奥様になるって。それが国の模範で、夢でもあって。そのために、妻としてできることを頑張ろうとしたつもりだった。……でも。


 大きな体を折り曲げて、しんどそうに食堂を出て行ったナレシュ様の背中が浮かぶ。

 看病をしたい、だなんて、一番に彼を案じて出た言葉だったろうか。いやそれよりは、“よき妻として”こうあらねばと、ひいては自らの夢を叶えるために、と――



「……彼の言うとおりです。私は自分のことばかりで、ナレシュ様ご自身のことを全然考えていなかった」


 私がやっとのことで声を絞り出したのと、ナレシュ様の部屋の扉が開いたのは、ほぼ同時だった。




   ❁ ❁



 大きくて、ごつごつと指の関節が目立つかたい手が、遠慮がちに私の髪に触れる。かと思えば、ぱっと離れる。

 夫婦となって四日目の、夜。私は初めてナレシュ様と並んでベッドに入っている。



 図らずとはいえ彼に毒入りケーキを食べさせてしまったのは、昨日のこと。廊下で言い争う使用人たちの声を聞いて、彼は部屋から姿を現した。


『相手を思えなかったのは、俺も同じだ。人族との文化の違いに思い至れず、妻に嫌な思いをさせてしまった』


 猫族にとって、しとめた獲物の一部を贈るのは愛情表現。魔獣のハネやツノは、装飾品や薬の材料にもなるのだと。

 けれども後から妻を驚かせてしまったと知った彼は、失敗に気づき、慌てて人間(ヒト)の友人のもとへ教えを請いに行ったという。


 そして、訪問先でうとうとし、そのまま夜を明かしてしまった――猫族は、私たちより多くの睡眠時間を必要とする。社会的生活が苦手と噂される所以(ゆえん)は、どうやらこのあたりにあるらしい。

 結婚式後に疲れて寝入ってしまい、初夜をすっぽかす形になったのも、同じ理由。


 夫としての挽回を望んだ彼は、ケーキに玉ねぎが入っていることに匂いで気づいていながら、無理をして食べ切った。

『おいしいと感じたのは本当だ。だか、かえって君を傷つける形になってしまい、申し訳ない』


 胸の内の氷がとけるように、するすると。ひとつずつ解けていく誤解に、新しく知る事実に、私が知ろうとしなかった、自分と相手との“違い”。

 反省や安堵がごちゃ混ぜになり、思わずこぼれた涙を、ナレシュ様はそっと拭ってくれた。



 そうして、昨日は彼の体調を考慮して別々に眠ったけれど。今夜はいわば、初夜のやり直し。


「君を嫌っていたなんてことはない。むしろ、その……ひと目見て、陽だまりのような亜麻色の髪も、水辺を飛び回る翡翠(かわせみ)のように鮮やかな瞳も、美しいと……」


 低い声でぼそぼそと、目をそらしながら恥ずかしそうに紡がれる言葉。

 それは想像していたスマートな“溺愛”とは違って、否、想像をはるかに超えた甘さで、身体の内側をくすぐられているみたいにむずむずする。


 がさつな俺が触れたら傷つけてしまいそうだ、と。ナレシュ様はベッドに入ってからずっと、私の髪や頬に少しだけ触れては離す、を繰り返していて。


 このままじゃ夜が明けそうだわ、と吹き出しそうになった頃、やっとお顔が近づいてきて――互いの鼻先同士がちょん、と触れた。



「……キスは、してくださいませんの?」

「今、したつもりなんだが……」


 彼の凛々しいお顔、獣の耳の内側、(やわ)い灰桃色の素肌がのぞく部分までもが、真っ赤に染まっている。

 あ、もしかして、これも――



「あなたのことを、ゆっくり教えてくださいませ。私のこともお伝えしますから」





 ――二人の幸せな結婚生活は、始まったばかり。




        fin. ฅ




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