05.逆鱗と魔人信仰
休んでみれば全然足りない休暇が終わり、疲れが抜け切らない体で職場へ向かえば出勤早々、副長から呼び出しを受けた。一体何の用だろうか。回らない頭で副長室へ向かうと、自分よりも疲れ果てている副長の姿があった。
いつも草臥れているにしても今日は凄まじい。何と言うか萎びているとも言える。目の下に真っ黒なクマを作っている副長は部屋に入ってきた私を確認すると、ふらりと立ち上がった。
生きている人間の筈なのに幽霊のようだ。
「ああ、来てくれたんだね。おはようベインズさん」
「おはようございます、大丈夫ですか? 副長」
「あ、あはは。大丈夫だよ。というかそう思ってないとやっていけないからね」
それは精神的にもうやられているのではないだろうか。労わろうにも言葉が見つからず何も反応できなかった。もしかしたら視線だけは労わっていたかもしれないが。
「座って」
「失礼します」
ソファーを勧められ、素直に腰掛ける。対面にのそりのそりと副長が座った。
改めて見る副長は物凄く老けていた。
ローテーブルを挟んだ対面だからだろうか、比較的近い距離で見ると一体この三日間で何があったのかと思う程の劣化具合だ。
肌のハリもなければ、透明感も皆無。皺があるようなないような、違う、くすんでいるのだ。
室内にいた筈なのに薄汚れた感じがするのは風呂に入っていないのだろうか。
(ありえる)
バレないように鼻をスンスンと動かしてみた。匂いは無い、いい匂いも含めてだ。
「ええと、まずこれね」
副長は何枚かの紙をテーブルに置くと、一番端の紙をトントンと指差した。手には取らずに覗き込む。書類の文字は小さく読みづらいが、読めない事はない。眉根をムーっと寄せ、ある一文を読んだ私は首を傾げた。
「逆鱗?」
漏れた言葉に副長が反応をする。
「そう、逆鱗。知ってるよね?」
「はい、それは……はい」
戸惑ったのは知ったかぶったからではない。何故逆鱗が、と思ったからだ。
逆鱗とは天上に住まう竜人の鱗だ。ただ鱗といえば「そんなもの」と思うかもしれない。しかしこの逆鱗は竜人の第二の心臓とも言われている。顎下に逆さに生えるたった一枚だけある特別な鱗。それは見れば普通の鱗とは明らかに違う輝きを持つという。
実際私も見た事がない。
まあ、それは良いとして逆鱗である。副長に示された書類にはその竜人の第二の心臓である逆鱗が、あの黒いモヤを纏っていた物だったと記されていた。
「あのモヤは瘴気だったんだ。逆鱗が何だかの理由で瘴気を生み出す何かにされていた」
「そんな事出来るんですか」
私は思わず、テーブルに広げられた書類を引ったくるように手に取った。文字を上から下まで目でなぞり、二枚目にも目を通す。しかし、物がどういうものかは分かったが、それ以上の事は憶測でしか記載されていなかった。
それはそうか、と動かしていた眼球を瞬きと共に止める。そうすると副長が書類を私の手から全て抜いていった。
「まだそれは分からないんだ。第三が調べ中」
疲労から老けた副長は気力のない笑みを浮かべる。
(それはそう、だって三日しか経ってない)
三日で分かったら大したものだ。きっと第三の変人達は今涎を垂らしながら逆鱗の調査をしているのだろう。その姿が目の前のことのように目に浮かんだ。そんな第三の相手や出て来たもののヤバさを考えれば、副長の草臥れ加減も頷ける。
可哀想なものを見る目を向けると、副長には慣れた視線なのか苦笑した。
「まあ、えっとなんだっけ……ああ、そうそう。魔獣の件を聞きたくて。全部倒したんだよね、倒す前は生き生きしてた? 死にそうだった?」
「死にそうでは無かったですかね、たぶん」
「そうなんだ。魔獣はやっぱり瀕死で見つかる事が多いけど、そんな感じじゃなかったんだ」
「そうですね」
思い返してみるが、どの個体も息絶え絶えという事はなかった。しいて言うなれば、主のような個体が大きい割に動いていなかったような気がする。
「あ、やっぱり動きは少し鈍かったかもしれません。主みたいな大きな個体が一体いて、その個体だけはあまり動いていなかったような気がします」
そう報告すると副長は「やっぱりそうか」と胸ポケットからペンを取り出して書類の端にそれを書き込んだ。ポリポリともみあげを掻き、ペンを戻す。すると副長は眉を下げ、情けない顔を作った。
「ここからの話は人に言わないように」
私は言葉の重さにピンと背中を伸ばした。
「キャロルはバルドー教を知ってる?」
「バルドー教?」
聞いた事がない言葉に私は首を横に振った。
「バルドー教はね、魔人を信仰する宗教でね。全ての地は魔人に統治されるべきと考えている人達の集まりなんだ。ほら、魔人て異次元に強いって言うでしょう? その強さに憧れてって感じでね」
魔人を信仰する宗教?そんなものがあるのか。竜人信仰は比較的ポピュラーなものだが、魔人信仰は聞いた事がない。何せ私達にとって魔人は信仰するものではなく、恐れの象徴に違い。
「魔人……魔人て魔人ですか?あの神話の時代に地底に移ったという?」
本当にあの魔人なのかと困惑しつつ聞いてみる。副長は表情を崩さず頷いた。
「そう、神話の時代に我ら人間と獣人を排除しようとして、竜人と神々により地底に封じ込められたその魔人だよ」
頭の中に魔人の姿を思い浮かべる。実際にその存在を見た事は無いので、あくまで絵画に描かれている代表的な魔人の姿だ。浅黒い肌に黒い白目、それに赤い瞳で大体表現されている。
「ベインズさんは10年前に起きた霊峰ムーランの一部が欠けた事件を覚えてる?」
「はい、噴火ですよね?」
「そう、それ」
知っているも何もその山が噴火するのをこの目で見た。その霊峰はベインズ子爵領の隣の領地にあり、当時12歳だった私は自宅の庭でその噴火を見たのだ。と言っても見えたのは立ち上がる炎と煙だけだったが。
それでも噴火の音は間近にあるのではないかと思う程、大きく体が揺れた。
副長は目を細め、一見苦しそうな顔をした。どうやらその表情は何かを思い出そうとした顔だったらしい。
「ベインズ子爵領は、ムーランの隣の領地だったね。じゃあ、あれを見た?」
「……赤い炎と黒い煙は見ました」
「おかしいとは思わなかった?」
「何がです?」
「その炎と煙だよ」
おかしいところはあっただろうか。音と揺れが衝撃過ぎたのか、何がおかしかったのか全く分からない。
首を横に振ると、副長は手元に戻した書類の内、一枚をテーブルに置いた。
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