47.クズ
血が巡っている事を感じられない皮膚に感情がすっぽり無くなった光の無い瞳。濃いクマにこけた頬を抜きにしても酷い顔だ。僅かに開いた唇は意識をすればひりひりと痛く、触れればかさつきが引っかかった。色もくすんで見える。
客観的に見なくても酷い顔に、笑いさえ出て来ない。恥ずかしくてぼさぼさな髪を更に乱し、俯いた。
「城勤めは過酷っていうけど、少しは鏡を見なさいよ。だからあんな見掛けだけの女に侮られるのよ、分かる?」
空気を揺らすような低い声は呆れを孕んでいた。しかし語尾だけは強く、前のめりとなっている気配を感じた。私は眼前に集めた髪の隙間から美人顔を見る。じとりと細められた瞳と目が合い、そっとまた視線を逸らした。だが、彼……ヤンは強い人である。私の視界を覆う髪を大きな手でむんずと掴むように払うと空色の瞳を間近に近付けた。
「アンタ、逃げ癖あんのね」
その言葉に胸が痛んだのは、図星を指されたからだろう。自衛しようと口元がへにゃりと歪んだ。しかしヤンはそれさえも阻止をする。
「そういう反応も惨めだからやめなさい」
ぐにゅりと片手で両頬を挟まれた。タコのような口にされ、その手のせいで顔も固定され動かせない。何だか踏んだり蹴ったりな気分となってきた。私は責めるように強い眼力に屈服し、ゆっくりと瞬きをする。
正直ヤンは強いし、怖い。しかし、このままでは此処から帰る事は出来ないのだと理解した。だからと言ってどうすれば帰る事が出来るのかも今は分からないが。
ヤンは私の顔をまじまじと見た後、ふんっと鼻を鳴らしながら手を離した。何を言われるのかと思ったが、彼は視線を合わす私に何も言う事は無く、長い足を優雅に組んだ。長く、バランスの取れた足が視界の端でピンと伸びている。
「ヤンはどうして私を此処に?」
単純に気になった事を尋ねれば、ただ一言。
「ぶすだったから」
確かに鏡の中の私はそんな顔をしていた。今も継続中だろう。思わず笑い声が漏れた。小さく、細かく出る笑い声が部屋に響く。真正面から「ぶす」と言われる事など無かったから新鮮で面白い。嫌な気持ちになるどころか、正直な言葉に勇気づけられる気さえした。
私は笑い終わりにそこまで乱れていない呼吸を整えるが如く、大きく息を吐いた。自然と下がる目尻に手をやり、指を滑らるように両目を覆う。
「私、彼女の配偶者の元婚約者なんです」
口元が上がる。ひくりと痙攣するように。
「その人とは学校卒業後に結婚する予定でした。それを疑っていなかった。でもある日、彼が婚約を無くしたいと言ったんです。一緒に朝を迎えて、朝食をベッドの上で笑いながら食べて、公園まで散歩に行って」
当時の光景が瞼の裏に流れていく。出来事は言葉にすれば単調だ。流れる映像はこんなにも細かく、膨大なのに。
瞼の裏の私は真冬のシーツの冷たさに震えている。びくりと足を縮ませ、横に眠る彼の足に自分の足を絡ました。ほんの少しごわりとする肌は私よりも温かい。足を絡ませたついでに大きな背中にしがみつく。半分寝ているベンジャミンはどうしたのかと気の抜けた顔で笑むと優しい手で私の頭をポンポンと撫でた。
ベッドの端が冷たい、そう言えばベンジャミンは変な方向に足を伸ばす。途端、ひゅんと縮まるベンジャミンの足。二人して目を丸くし、顔を合わして笑った。
鈍い朝日に、外気との差で結露する窓ガラス、シーツを服代わりにして厚いカーテンを開ける。後ろから現れた腕にぎゅっと抱き締められた。ぐりぐりと頭を頬に擦り寄せられ、鼻が首筋に触れる。頬を擽る髪のくすぐったさに笑えば、戯れるようにベンジャミンが頬にキスをしてきた。
額、鼻、唇の端、そして唇へと順々と落とされるキスに込み上げてきたのは、奇声を上げたくなる程の愛しさだった。
瞼の裏、暗い手のひらの中に映し出される映像から逃れるように目を覆っていた手を外した。しかし、それでも開いた瞳は過去を映し続ける。お前が見るのは今ではなく、過去なのだと言わんばかりに。
冬の澄んだ空気に包まれた公園は耳が真っ赤になる程寒かった。手を繋いで、どうでも良い話をしていたと思う。でも、私が結婚後の話をし始めた途端、ベンジャミンの様子がおかしくなった。
それで、そう、それで……
「その公園で、婚約を無くしたいと言われたんです」
数時間前まで愛し合っていたのに。あんなにも笑い合っていたのに。
「抱く度に虚しくなると」
愛していたのに。いつだって、あなたを想っていたのに。
「愛しているから、愛されていないのが辛いと」
くしゃりと頭を抱え、出した声は嗚咽にも似ていた。苦しく、吐き気を催す程の揺らぎに耳が狭窄していく。
目を閉じていても、開いていても当時の映像が流れ続ける。天国から地獄とはあの日の事を言うのだろう。
現実味を感じないまま話は進み、ベンジャミンとの接点を断たれた。あの時の私はどういう風に生活していたのだろうか、何も思い出せない。
「アンタ、」
ヤンの声が何処か遠くに聞こえる。目の前にいる事は分かっているのに。
髪に埋もれる私の指は震えていた。俯いている私の瞳から雫が落ちている。服が水分を吸い込み、醜い楕円を作る。瞬きをしなくともボタリボタリと涙は落ちた。
何がいけなかったのか、と定期の言葉が頭を巡る。つい先日も巡った言葉だ。仕事で追いやった筈なのに。
(どうしてみんな決め付けるんだろう)
私がベンジャミンを好きじゃないなんて、どうして他人が言うのだろう。ベンジャミンに言われるのならまだ良い。でも彼女には言われたくなかった言葉だ。だって、彼女は私がもうなれないベンジャミンの妻である。そんな人にどうして「好きじゃない」と言われなくてはならない?
(ああ、駄目だ)
落ちて行く気持ちに頭を振る。ぐしゃぐしゃに乱れた髪を整えもせず、顔を上げた。正面には可哀想な目をしたヤンがいた。そんな視線を向けられるのも嫌だ。顔は上げたが、視線は背ける。
「アンタ、そんなクズと婚約してたの?」
「へ……?」
逸らしていた視線が衝撃でヤンへ向く。私は言葉の意味が理解出来ず、瞠目したまま暫し止まった。
「だってクズでしょう? 振るって決めてたのにアンタと寝てたんでしょう? しかも冷たくする訳でもなく、優しく抱いて。そんな事するのクズに決まってるじゃない」
ハアァと大きな溜息を吐いたヤンは頬杖をついた。
「どんな悲恋かと思ってたのに、ただクズに振り回されてただけって。良かったじゃない、クズと結婚しなくて。そういうタイプはね、すぐ愛人作るから」
「え、えええ」
なんだ、何を言われている?
え、クズ?ベンジャミンが?
そういう批評は聞いた事が無い為、混乱する。今までベンジャミンをそう評する人はいなかった。寧ろ「彼は人が良いね」と言う人の方が多かった。
ベンジャミンがクズという言葉が中々紐付かない。
「ベンジャミンがクズ……」
自分でも復唱してみる。しっくりこない言葉に、段々と腹が立ってきた。
そもそも、ベンジャミンはクズではない。付き合っていた私が言うのだからそうだろう。何故私の話だけを聞いたヤンがそんな事を言うのか。
ムッとした顔をすれば、心底呆れた顔をされた。
「いや、絶対クズよ。処女奪っといて結婚しないなんていうのはクズでしかないわ。アンタ、貴族でしょう? それに何その理由、愛されてないのが辛い? 馬鹿じゃないの。そんな理由で婚約破棄すんな! 一昔前の真実の愛症候群か! 拗らせてんじゃないわよ!」
言い返せないのは声が大きく、顔面の力が強いからか。仰け反り、防御の構えを思わずしてしまった。負けの姿勢ではあるが、それでも言われっぱなしは癪である。私は目に力を入れ、大きく口を開けた。
「婚約破棄じゃなくて、白紙です!」
私の返答にヤンは一瞬キョトンとすると直ぐに目を細めた。これは馬鹿にしている目だ。
「どうでもいいわ」
そしてそう言うと手をひらりと振った。
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