33.どうして
それからの事はあまり覚えていない。気付けば私はテリオン伯爵家の馬車に乗っていた。ガラガラと回る車輪の振動を感じながら、私はただ前を向いていた。開いてはいるが瞳が何も認識しないのは、思考処理が追いついていないからだろう。
先程の光景がこびり付いて離れない。ほのかに膨らむ腹部、それに触れるベンジャミン。彼の顔を見て私の視界は消えていったように思う。
体の中に、ただぽつんと「どうして」とだけ言葉が落ちた。
(どうして)
(どうして)
(どうして)
(どうして)
幸せそうで良かったという気持ちは皆無だった。
ただ、どうしてという言葉だけが頭の中を巡っている。
ずっと認めていなかった未消化な気持ちがぐちゃぐちゃと溢れてきているようだ。
(どうして彼は私が愛していないと思ったのだろう)
(どうして私は白紙を受け入れたのだろう)
(どうして彼は私がいなくても平気なのだろう)
(どうして、私はまだこんなにも好きなのに彼は幸せそうなのだろう)
私はまだこんなにもあなたを忘れられない。忙しい日々を送っていても一度止まればあの日々を思い出す。そして夢想するのだ、夜ボロボロな私を抱き止めてくれるベンジャミンのいる生活を。
繰り返し、繰り返し一度だって叶うことのない、虚しい妄想。同じベッドにあなたがいたらとボーッと天井を見る夜。
(どうして)
ガタン、と馬車が停まった。手を引かれ、地面に足をつける。よろける私を支えているのは先輩だろう。
(どうして)
誰かが私に話し掛ける。女性の声だ。私は空っぽな声を発した。何と答えたのかもわからない。何と聞かれたのかも頭が処理していない。しかし、そんなやり取りでも周囲は動く。
ぼやりとした頭はされるがまま彼女達を受け入れていた。頬に擦り込まれるオイル、頭に触れる細い指が手早く髪を解いていく。
(どうして)
ベンジャミンが結婚したのは二年前である。その知らせは実家から届いた。結婚式は当然呼ばれていない。呼ばれる筈もない。婚約白紙をした相手を呼ぶなど新婦方に失礼だ。
しかし、思うのだ。あの時出ていれば、二年前には消化出来ていたのではないかと。こんなにもぐつぐつと醜い感情になる前に現実を受け止める事が出来ていたのではないかと。
婚約白紙をして四年、その四年で彼は未来へと行った。しかし私はその場に留まり続けていた。この四年会わなかったのは現実に向き合えなかったから。
会わなかった日々は彼との関係の変化を深く考えなくてもすんだ。きっと心の何処かでベンジャミンが再び愛してくれるのではないかと思っていたのだ。
「どうして」
どうして私は婚約白紙を受け入れたのだろう。どうして私はあなたを愛していると引き留めなかったのだろう。どうして何をするにもあなたの事を考えると言えなかったのだろう。
どうして、
どうして私じゃ駄目だったのだろう。
本来あの場所は私のものだった。彼の腕も私のものだった。
膨らむ腹を持つのも私だったかもしれないのに。
何故、どうして、私は彼の隣に居られないの?
私は愛を知らないわけじゃない。愛していた。はじめはベンジャミンとは違う気持ちだったかもしれない。でも私は間違いなく彼を愛していた。そうでなければ体を預けたりはしない。全てのはじめてを捧げたりしない。
愛していたから、愛を伝えたかったから、自然と触れ合った。
あれは確かに私の愛だった筈だったのに。
「大丈夫?」
目の前に被った陰に閉じていた視界がゆるりと開かれる。機能を忘れていた瞳に金色が映し出された。
感情が見えない瞳に、私は再び瞼を下ろす。そんな質問には答えられないと思ったからだ。
頬に手が触れる。伏せていた瞼を上げると至近距離に先輩の顔があった。私はその手をそっと退かす。
「ごめんなさい」
もう何もかもが嫌だ。他人に触れられるのが嫌な自分も、触ってくる先輩も。その思考回路も。
全てが一つの事に繋がる。
触れられたくないと思うのはまだベンジャミンが好きだから。好意を抱かれるのが不快なのはベンジャミンを裏切っている気持ちになるから。遠ざけたいと思っていた理由も同様だ。
――キャロル
反響するのは今日の彼の声。名を呼ばれただけでまだ心は痛いくらいに跳ねる。なのにどうして彼は私が彼を愛していないと思ったのだろう。
私は愛していた、愛していたのだ。だから今、こんなにも辛くてたまらない。
私は先輩の肩越しに窓の外を見た。暗く、黒い闇はあと数時間で日付が変わるだろう。そうすればまた朝が来て仕事が始まる。
ああ、仕事をしなければ。仕事をすればまた現実を受け止めずに生きていける。
読んで頂き、ありがとうございます。
面白かったら評価、いいねをお願い致します!




