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32.仮面を


 情緒が不安定な自覚はある。ふらふらな頭に仮面を被せる事もなく、無防備に自分を曝け出してる。ほぼ並走に近い距離で先輩が私の名を呼んでいた。しかしそれを一切無視をし、早歩きを続けている。歩く内に募る不満、それが理不尽に大きくなっていた。


 仕事で疲れている、寝不足である、第三者が私を決め付けた、様々な理由が重なり自分でも抑えきれない苛立ちが溢れてくる。顔に、行動に、言動全てに現れ、自分が急に嫌になった。


 兎に角帰りたい。こんな自分に最低限の仮面も被せる事が出来ないなんて他人の前に出るべきではない。襲い来る負の感情を必死に抑え込みながら会場の入り口へと急いだ。先輩は焦った声で私の名を何度も呼んでいる。腕を掴まないのは彼なりに考えての事なのだろう。今触れられれば、絶対に強い拒絶をする自信がある。


 整えて貰った髪の一部がぱらりと落ちた。こんなにも激しく動いているのだ、髪も乱れよう。足の速度を緩めずその髪を耳にかけたその時、淡い茶色が見えた。それはほんの一瞬で、瞬きよりも短い時間だったが、必然のように足が止まった。


 まさか、と思った。もしかして、と胸が激しく鼓動する。私は色が見えた方向に顔を向けた。だが先輩が私の視界を遮るように立っていた為、その色は見えなかった。


 ほっと安堵した。この反応で正しい筈だ。しかし、違う感情がそれを飲み込もうとしている。それは正しくない感情である。


 先程よりも速度を落とし、足を前へと出した。これ以上無様な感情に塗れたくはない、そう思い既に瞼に焼き付いた茶色を消そうとする。距離の近い先輩が何か言いたげにこちらを見ていた。鼻に消毒液の匂いが香り、彼が持っていた薬瓶の存在を思い出す。


(そうだ、わざわざ薬を取りに行ってくれたんだった)

 

 先輩の事なんて見るものかと思っていたが、手元を見る。蓋が取れたのか、液体が漏れている。私は立ち止まり、自分の背後を見た。


「キャロル?」


 懐かしい音色が私の名を呼んだ。一瞬にして耳から音が消える。後ろを向いた顔だけが声の主を見ようと動く。

 声は先輩の後ろから聞こえた。


 私は先輩の体に軽く触れ、力ない腕で押した。羽に触れるよりも軽く押したが、先輩は簡単に横に逸れる。よく声が聞こえたものだ。その人と私の間には何人もの人がいたのに。


「ベン……」


 僅かに開いた口が出した音は小さく、近くの先輩にも聞こえたかどうか分からない。だが、視線の先にいるベン、かつての婚約者には聞こえたようだ。眉を下げ笑みを浮かべた顔を小さく上下した。


 会わなくて良かったと安堵した癖に、足はベンジャミンの元へと近付いていく。ベンジャミンもこちらにあの時と変わらぬ笑みで近付いてきた。しかし、そんな彼の腕には一人の女性がいる。


 その女性を確認した途端、私の足はぴたりと止まった。僅かに上がっていた口角はそのままに、感情が死んでいく。


 どうして忘れていたのか、彼はもう既婚者である。何故、気安げに話そうとしていたのか。下がりそうな口角を維持したまま、近付いてくるベンジャミンを待ち構える。


「お久しぶりです。ご息災でしたか?」


 無になった心には嘘の顔が上手く貼り付けられた。柔い笑みをベンジャミンへ、そして恐らく彼の妻であろう女性に向ける。彼女は私と彼の関係性を知っているのだろうか。願わくば知らないでいて欲しい。私の道化がばれるから。


 ベンジャミンは一瞬目を見開いた。何に驚いたのかなど、緩やかに腰を曲げた私にはわからない。再び微笑みながら前を向けば、目尻が下がった笑みを向けられた。細められた濃紺が会場のシャンデリアの光を受け輝いている。


「ええ、元気でした」


「それは良かった」


「あなたは?」


「私も、元気でした」


 薄っぺらい会話に心を隠し、女性に視線を向けた。彼女にも挨拶しなければ失礼だろうと。しかし、それよりも先にベンジャミンが私の横の存在に目を向けていた。


「彼は?」


 私は先輩が横に居た事に気付かなかった。だが、思えば私の後をずっと追ってきていたのだ。彼と会ったからとて何処かに行く人でもない。

 ハッと少し驚いた顔にすぐ笑みを被せる。先輩の顔を見れば、よく見る胡散臭い笑みを浮かべていた。その胡散臭さに安心した。


「職場の先輩。今日はパートナーになって貰ったの」


 先輩の前に手を出し、紹介をする。きらきらと輝く金髪をゆらりと揺らしながら、先輩が会釈をした。


「ファル・テリオンです。キャロルさんとは今同じチームで仕事をしておりまして、その縁でパートナーを」


「そうなんですね。ではあなたも魔術師なので?」


 ベンジャミンが握手を求め、手を伸ばす。


「ああ、自己紹介が遅れまして申し訳ない。私はベンジャミン・ブラウン。こちらは妻のタニヤ」


「タニヤです。よろしくお願い致します」


 先輩は二人と握手をし、ちらりと私を見た。何故先輩は私を見たのか。それはきっと白い顔をしていたからだろう。

 気遣わし気な手が私の腰に回った。


「そうです。私もキャロルさんと同じく第二魔術師団に所属しております。頼もしい後輩です」


 いつも一人称は「僕」の癖に何格好つけているのか。しかしそんな冷たい感情とは別に、気を抜けば力が抜けそうになる体は温かい彼の手に支えられている。煩わしいと思うが、それを振り払う事も出来ない。私は笑みの崩れない顔で、前の夫婦をただ見つめる。


「頼もしい……そうですね、キャロルは学生時代から優秀でしたから」


 遠い日を懐かしむようにベンジャミンに激しく胸が掻き乱される。しかし、そんな私の心を静めるのは彼の妻であるタニヤさんである。


「あの、」


 タニヤさんはおずおずとベンジャミンのジャケットの端を摘まんだ。

 大きく可憐な瞳と視線が合い、顔が強張る。


「キャロルさんでよろしいでしょうか? あの、夫とはどういう関係で? もしかして以前婚約をしていた方でしょうか」


 どくんと胸が鳴る。そうか、結婚したのに前の婚約の事を知らないわけもない。自己紹介もしていなかった事にも気付き、戸惑う。

 彼女の目は不安げに揺れていた。それはそうだろう。自分の夫が自分の知らない女と話しているのだから。それもその女は自分から素性を話さない。


 名前を言おう、関係性を言おう。隠した方が不安を煽る。正直にベンジャミンとの過去の関係を言わなくては。そしてもう何年も合っていないし、もうただの知人に近いと、そう言わなくては。


 笑みを貼り付ける。害を成さない笑みを。安心して良いのだと、彼女に言い聞かせるように。


「ご挨拶が遅れまして申し訳御座いません。私の名はキャロル・ベインズと申します。おっしゃる通り、以前タニヤ様のご主人と婚約しておりました。しかしそれはもう何年も前、顔を合わせたのも婚約を白紙にして以来になります」


 心配せずとも、と言おうと思ったが言う方が逆に悪い印象を与えると思い、そこで言葉を止める。

 いまだ彼女は不安そうな顔をしていたが、横にいるベンジャミンを見てぎこちなく微笑んだ。


「そうですか、もう何年も」


 そうよね、と独り言のように呟いて、彼女は自身の腹に手を置いた。まるで守るような動きに目が見開く。

 私の目線に気づいてか、ベンジャミンが「ああ」と言った。


「子供が出来たんだ。今年の冬には生まれると思う」


 愛おしげに腹を見るベンジャミン。彼女の手に自分の手を重ねた。


 どうしてだろう、目が回っているようだ。




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