19.終わった
「キャロル、これどういう意味? もう少し簡潔に書けない?」
「あー、やってみます」
「それとあとで第三に行ってくれる? 進捗聞いてきて貰いたい」
「わかりました」
「あ、さっきヘクターが他の怪しい場所の一覧持ってったから」
「え、あれ途中でしたけど」
「途中でも良いって。取り敢えず上に見せたいだけみたい。会議終わったら返すってさ」
「あー、わかりました」
どんなに頭がごちゃついていても時間は進む。
舞踏会のパートナーの件もあの時は驚いたが、それよりも追い込みの仕事の方が忙しく、そんな事考えている時間など無くなった。
複数の机に積み重なった資料や報告書は自分達でないと何が何処にあるか分からない状況だ。床に落ちている書類の存在も把握はしているが、拾う時間も惜しく可哀想にそのままだ。歩く時にうっかり踏まないようにだけはしている。
あれから結局一度も家に帰れていない。帰った方がリセットされていいような気もするが、帰ったら終わらない気もして帰れない。これは良くない、悪循環だ。
充血した目で積み重なった資料に目を通し、報告書に必要な情報を抜き出していく。ぐあんぐあんと文字が目の前で踊り出す錯覚に陥った。しかしながらこれは今に始まった事ではない。徹夜をした次の日、二徹目からこんな風なので、目頭を押さえ眩暈が過ぎ去るのを待つ。
体が文字を追う事を拒否している。そうは思ったが、無理ですとは言えない状況な訳で。
私はぼやける頭で時計を見た。丸い時計の長針は3を示している。窓の外は暗い。そう、午後ではなく午前3時だ。テッペンを通り越して3時間、つまりハルフォーク親善訪問団(調査団)到着日当日である。
先が見えなかった仕事も少し終わりが見えてきた。といっても本当に少しだ。調査団に提出するまでに纏まるかは不明である。副長はこの部屋の残状を見て、出来る範囲で良いとは言っていた。しかし、それはあくまで副長の意見だけで副長より上の人物はそれを良しとしていない。
無理難題を押し付ける人物程、現状把握が何故か出来ない。何故出来ないのだと詰められる未来が見えるので、副長の言葉を有り難く受け止めながらせっせと手を動かしている。
「ただいま〜」
部屋の扉がノックなく開かれた。入ってきたのは副長に書類を届けに行っていた先輩である。この部屋に入れるのは私と先輩、それと副長のみだ。だから私も入り口を気にせず、手を動かし続ける。
「おかえりなさい」
でも一応返事はする。無視は可哀想なので。
「キャロルが終わったやつどれ?」
「そこの机の右側のやつです。その緑のファイルの上からが終わってます」
「おお、結構ある。ありがとう、じゃあ僕もやるか」
帰ってきて一息吐く間もなく先輩は紙を一掴みした。中身を見ながら席に戻り、机にバサリと置く。ピンと背を伸ばし、書類に目を通す姿は何日も徹夜しているとは思えない。顔色は悪いが、私よりも涼しい顔で書類を覗いている。
何となく女として負けた気がして、丸まった背中をグググと伸ばした。疲れ切った顔はどうにも出来ないが、姿勢くらいは綺麗に出来る。だが、徹夜で凝り固まった体からはボキボキボキと音がしただけで、思ったより背筋は伸びなかった。
骨の鳴る音が静かな室内に響く。恐ろしい音だったが、忙しい室内でそれを指摘する人はいない。
話すよりも手を動かしていたい、そんな切羽詰まった状況なのだ。
ハルフォークから来る調査団との顔合わせは舞踏会前の16時だ。だから締めの目安は13時。あと10時間、やろうと思えば終わるだろう。だが一度集中を切らせば終わらないかもしれない。集中を切らさないように雑念を捨て、左手にある資料を手荒に開く。
目的の単語を目を皿にして探し、ピタリとその手を止めた。
(本当に終わる?)
いまだ紙にまみれている部屋だ。部屋だけ見ると到底終わらなそうに見える。やる事はリストアップされ、線で消されたものは多い。半分以上はもう消されている。だからもう終わる筈だ。しかし襲ってきたのは焦燥感を孕んだ不安。
一瞬飛んだ意識を紙に戻し、澱んだ空気を吸い込んだ。
(終わる終わる、やれば終わる。それに)
きっと今日は流石に上からの無茶振りはふってこないだろう。
噂によると歓迎セレモニー関係の準備もギリギリらしいから、きっと上層部はそっちに付きっきりになるに違いない。
だとしたら終わるだろう。ノンストップで出来れば終わらない事はない。
必要に見えない資料作成や変な会議の途中参加。集中を途切れさせる事が多かった。その邪魔がなければ終わるに違いない。
(やれば終わる。目と手を動かせば終わる)
文字が二重で見えるが、やらねば終わらない。逆を言えば、やれば終わるのだ。私はパンパンと自分の両頬を叩き、一層ペンを素早く走らせた。
明るい陽が差し込んだのは何時間前の事だったか、ジリジリと東向きの窓から差し込む暑さにもピンと伸ばしていた背が丸まった。その変化に目を開けたまま寝ていた意識が浮上する。
「終わった……」
脱力しきった声に、ずるりと崩れる体勢。乾いた笑い声が語尾に交じり、先輩は両手で顔を覆った。
「終わった……!」
「やりましたね……」
先に終わっていた私は安堵とぼんやりした気持ちで同じく気の抜けた声を出す。何日も使い込んだ頭は熱を帯びていた。きっと血圧が高くなっているのだ。
終わった事による開放感も勿論あるが、どちらかというと疲労感の方が勝つ。
それは先輩も同じなのだろう、大きく息を吐き出した。同時に立ち上がった先輩は体を捻る。するとゴキゴキゴキと凄まじい音が聞こえた。
時計を見ればまだ10時。予定よりもだいぶ早い時間だ。
この出来た書類を副長に提出すればこの作業は終わりだ。先輩は「じゃあ、行ってくる」と副長室へと急ぎ足で向かっていった。さっさと終わったという実感が欲しいのだろう。その気持ちはよく分かる。早く自分の目に触れない場所へ持って行ってほしい。
「やっと帰れる」
机に突っ伏せば、まだ片付けていない資料が雪崩のように床へ崩れた。終わったと実感したからか体から力が抜けていく。しかし頭はまだじわじわと気持ちの悪い熱さを持ったままだった。
暫くぼーっとしていると先輩が帰ってきた。どうやら問題なく提出出来たようだ。
「一度家に帰って良いってさ」
「本当ですか、やったー」
心は確かに喜んでいる筈なのに気の抜けた声になる。へにゃりとした体をよいしょと起こし、部屋を見渡した。
まだ仕事をしていた名残のある部屋はとても汚い。しかし、これは後で片付けても良いだろう。何たって二人とも何日も徹夜した。そんな私達に片付けてから帰れ!とは誰も言うまい。
そうして私達の第一波の激務は終わった。
そう、第一波だ。
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