道鬼 5
信玄は諏訪の地を収めたのちも信濃侵攻の手を緩めなかった。
天文十四年(1545)四月、信玄は高遠頼継の本拠地、高遠城を攻めこれを陥落させている。
さらにこの年のうちに、上伊那郡のほぼ全域を平定すると、翌天文十五年(1546)5月には佐久地方への侵攻を開始する。
信玄と由多姫との間に男児が生まれたのはこの頃のことであった。信玄の正室である三条夫人との男児がすでに三人いたので、その子は四郎と名付けられた。
「勘助、由多がそちを呼んでおるぞ。気に入られたのお」
信玄が意地悪い笑みを浮かべながらこう言ったのは、佐久郡内山城に籠っていた大井貞清をその地から追い出し、無事に内山城攻略を果たしたのち甲斐本国へ帰陣した直後のことであった。
勘助は館の奥の一間に片足を引きずりながら向かった。嫁入りの護衛以来、由多姫とは一度も会っておらず、なぜ呼ばれたのか不思議であった。
その部屋には赤子を抱く由多姫と乳母と思しき女が座っていた。
「勘助か」
子に視線を落としたまま感情のこもらない声で由多姫は言った。
由多姫はまだ幼さを残しており、このような儚い少女の体から子供が生まれたことに勘助は驚いていたが、さらに驚いたのは由多姫の次の一言だった。
「四郎を抱いておやりなさい」
「…………」
時候の挨拶を述べようと頭を下げ口を開きかけていたが、そのままの姿勢で勘助は暫く停止していた。
「聞こえなかったのですか。四郎を抱いておやりなさい」
「……し、しかし……」
「そなたが、私と御屋形様の中を取り持ってできた子です」
やっとこちらを見た由多姫の顔に浮かんだ笑みは、先ほどここに来る前に見たものとよく似ていた。
それでも途方に暮れている勘助に、少し苛立ちをみせた由多姫は、四郎を抱いたままそば近くまで歩み寄り、手の中の四郎を勘助に突き出した。
慌てて手を出そうとしたが、勘助は躊躇した。この手はつい先日、内山城の戦で人を刺し殺した手である。いまだに、貫いた己の刀で相手が息絶える瞬間の感覚がこの両手に残っていた。
しかし、由多姫の願いを無下にもできず、勘助はその腕の中に赤子を収めた。
生まれて一月もたたない四郎の潤った大きな目は見開かれ、興味深々に勘助の顔を見ていた。
(これが、命か……)
震える手の中の四郎を見ながら勘助は思った。
「よい面構えじゃ」
しわくちゃな小さな手を勘助の顔に伸ばしながら、四郎は今にもこう言い出しそうであった。




