道鬼
1561年(永禄四年)九月十日、川中島にて武田信玄と上杉謙信、戦す(第四次川中島の戦い)。1573年(元亀四年)四月、武田信玄、病死。武田勝頼、武田家当主となる。
永禄四年(1561)九月十日、太陽が頂点に達しようとしている。
八年前から武田信玄と上杉政虎(のちの謙信)は信濃川中島を巡って何度も攻防を繰り返してきたが、今度の戦は過去にないほどの激戦となった。
軍を本隊と別動隊の二手に分け、妻女山に陣取る上杉軍を挟撃するという信玄の作戦を政虎が見抜き、上杉軍が霧中の武田本隊を急襲したためだ。
川中島八幡原は武田軍、上杉軍入り乱れての混戦となり、武田本隊に従軍した信玄の弟、武田信繁や室住虎光、初鹿野源五郎といった名のある武将が次々と討ち死にしていった。
信玄はこれまで共に戦ってきた家臣たちの戦死の報を聞くたびに、目を瞑り唇を噛み締めた。
(あるいは勘助も……)
山本勘助も死ぬのではないか、と信玄は思った。
此度の作戦の立案は勘助によるものであり、政虎に作戦を見抜かれたことに責任を感じているのではないかと思ったからだ。
「山本勘助に伝えよ。別動隊が合流するまで決して死ぬでないと」
信玄は百足衆と呼ばれる伝令部隊の一人にそう告げると、妻女山の方角へ目を向けた。
上杉の兵と戦う勘助の腹や背には何本もの矢が突き立っており、深い刀傷も負っていた。
元来片目がつぶれており異様な形相をしている勘助は、乱戦の最中、返り血を浴びてまさに地獄の鬼のようであった。
しかし、信玄からの伝令を聞いた勘助は、少し顔の表情を和らげた。
六十二歳のこの男が信玄に仕えてからこれまで、十八年もの月日が立とうとしている。
(御屋形様、わしもそろそろ潮時でござろう)
致命傷を負った勘助は、己の作戦を見破られたことへの責任をとろうとしていた。
しかしそれとは別に、何か大きなことを成し遂げたという充実感のようなものが体の底からふつふつと湧いてくるのを勘助は感じていた。
そして体中を、夢を追いかけ戦いに明け暮れた日々の思い出が駆け巡り、次から次へと脳裏を過っては消えていった。