七、最強の剣(二)
大男は優男に担がれて道場の奥へ運ばれていった。
ヨシュウとマドベは竹刀を構え、向かい合う。
「いつでも」
マドベがそう口にした。道場は、ぴぃんと緊張感につつまれる。
――動かない。
マドベの剣も、守りの剣なのだろうか。しかし、ヨシュウの目的はこの男の現在の力量を測ること、そして己の力量を試すこと。
ヨシュウが仕掛けた。最短を最速で打ちに出る。
だが。
マドベの足元と竹刀が“僅かに”弧を描く。
竹刀と竹刀が触れた、次の瞬間、ヨシュウの身体は右へ流れていた。
ヨシュウの認識はまだ起こったことを正しく把握していない。だが、身体感覚が、その勢いのまま前方外側へ跳躍することを選択した。
ヨシュウは跳び、背で床を転げそのまま立ち上がる。
マドベは竹刀を振りかぶった状態で動きを止めていた。――その表情には、驚きと、歓喜が、隠しきれずにいた。
今の場面、並の者なら均衡を崩した身体を立て直そうと、踏みとどまる。マドベはそこを撃ちつけるだけで良い。
だがヨシュウは跳んだ。それも、迷い無く。
マドベはヨシュウを並とは見ていない。だがそれでも、その反応の速さは予想以上だった。
この農村では終ぞ見ること無かった逸材の出現に、マドベは“欲”が出た。――この瞬間、マドベは己の終わりを定めたのだろう。
「来い、若いの。その剣で、識れ」
マドベの言葉に、ヨシュウはニヤリと笑い、打ち込んでいった。
――どれほど打ち込んだろうか。
ヨシュウは考え得る限りあらゆる攻めを試した。その多彩さは、かつてサクがヨシュウから一本取ろうと試みた時の比ではない。
その全てを、マドベは己の持ちうる技術全てを駆使して捌ききって見せた。
二人とも自覚無く笑い、息が上がっていることにも気付いていない。
そして。
ならばこれは! とヨシュウが打ち込んだ次の瞬間、ぶつかり合ったお互いの竹刀が、爆ぜた。
「……そろそろ止め時ではありませんか?」
二人の様子をただ静かに見ていた優男の言葉であった。いつの間にやらこの男が道場の四方に明かりを灯したことも気にせず打ち合っていた二人は、ようやく外の宵闇を認識した。
「……休む。良いか? 若いの」
「トガ・ヨシュウと申します。ヨシュウとお呼び下さい」
『ゴ』を名乗らなかったのは、己の出自を隠すためか、マドベの剣から受けた感銘ゆえか。それはヨシュウ本人にも分かっていない。
「そういえば夕餉がまだだった。付き合え、ヨシュウ」
「はい」
返事を待たずに歩き出したマドベの後を、内に愛刀を収めた箱を背負って追うヨシュウ。
そうして汗まみれのまま道場を出て行く二人を、優男は溜息で送り出した。
翌、早朝。道場に踏み入れる人影が、三つ。
ヨシュウ、マドベ、優男である。
「ヨシュウ。その箱の中身は君の得物だな?」
「やはり、分かりますか」
「抜きなさい」
「…………」
どういうつもりであろうか。ヨシュウには判断が付かず、即座に返事が出来なかった。
「タケトモ様、済みませぬな」
「いえ。私如きにはもう止めようもありません。先生の思うがままに」
マドベはヨシュウが動かぬのを見て、優男にそう言って、道場の奥へ向かった。
マドベは優男をタケトモと、様を付けて呼んだ。その名にヨシュウは心当たりがある。いや、この国に住む殆どの人間が知る名前であろう。
「そういえば自己紹介がまだだったね、トガ君。私はタケトモ。スジャナリの弟、と言った方が分かりやすいかな?」
やはり。とヨシュウは心中で納得する。この男の持つ雰囲気は、戦場に立つ男のそれでは無い。だが、只者ではないと思わせるものがあることも事実だ。皇族、それも英才と名高い第三皇子であるならそれも尤もである。
同時にヨシュウは警戒もした。タケトモは、わざわざスジャナリの名を出したのだから。
「私を、ご存じでしたか」
「ああ。とある人物から聞いている。優秀な武人とのことだったが、これほどとはね。……ああ、そう警戒しないでくれ。私は君に対して敵意は無い。むしろ、私達では到底叶えられない先生の悲願を叶えてくれるかも知れないことに、感謝しているくらいだ。それがどのような結末でもね」
その言葉に裏は無い、そう判断したヨシュウは警戒を緩める。
「悲願とは?」
「先生の剣の継承さ。私達では力不足で、基礎を修めるのが精一杯さ。あんな楽しそうな先生は初めて見たよ」
「……私で宜しいのですか?」
「君以外に誰に出来る? セイト君、だったか、彼も素晴らしい剣士だそうだが、だからこそ、その剣に誇りもあるだろう。君はその点、勝つことや強くなることに柔軟な考えを持っていると聞いているよ」
「……誰です? 私のみならずソロウのことまで知る者とは」
「うーん、そうだね。君が無事に先生の剣を継承してくれたら、教えよう」
その時、マドベが道場へ戻ってきた。その手には、刀が握られている。
「今一度言う。ヨシュウ君、抜きなさい」
「……はい」
マドベの想い、タケトモの願い、どちらもヨシュウには関係なかった。――ただ、その最強の剣に、興味があった。
お互いに愛刀を構え、向き合う。
「今日は私から行こう」
マドベがそう言うと、その身体が予備動作無しに、ヨシュウから見て左側へ傾いだ――瞬間、ヨシュウには、マドベの身体に刀が巻き付いたように見えた。そう見えた刹那、ちらりと視界の右に光り。
――ギィン!
「初見から防ぐかッ!!」
マドベが喜色を隠しきれずに叫ぶ。
ヨシュウの右から襲いかかった鋭い斬撃を、ヨシュウはほぼ無意識の反射で受けた。
マドベの秘剣、『円刃』である。ヨシュウは理解した。昨日、対峙した男が見せたものは曲芸ですらない、児戯であったと。
剣が巻き付いたように見えたのは剣を身体に引き付ける事でより鋭い回転を行うため、そして、身体の回転に対して首が限界まで回転せずにいたためにそう錯覚したのだろう――冷や汗をかきながら、そうヨシュウは分析した。
ヨシュウが受けることが出来た理由はいくつかある。
マドベが寸止めと決めて刀を振ったこと。児戯とは言えその形を一度見ていたこと。そして、『ゴ』の剣の心がけである。
『ゴ』は、己ではなく『フ』を護る剣だ。同時に他方からの攻撃を受けた時にも不覚を取らぬような受けの態勢がある。もし、マドベの身体が左に動いた瞬間にそちらへ正対しようとしていたら、右からの斬撃を受けきることは出来なかったであろう。
何にせよ、それがヨシュウの実力であり、その実力はマドベに火を付けた。
右から左。左から右。
右から右。左から左。
更にそれらが上下水平から襲いかかり、気を抜けば喉元目がけて突きが来る。
息つく間も与えぬほどの、苛烈な攻め。
恐るべきは老いてなおそれを可能にする体力、膂力、平衡感覚。
ヨシュウはそれらを必死に避け、受ける。――そして、その足元は、いつからか自然、弧を描く。
それは昨日ヨシュウが散々見せられた動き、身体で感じた動き。それらが時間と共に見る見るヨシュウの血肉となっていく。
やがて受ける態勢に余裕が生まれ始め、そして、ヨシュウからも攻め手が。
マドベはそれを躱し、受け流す。
くるくると立ち位置を変えながら、出ては引き、引いては出る。
その二人の動きはまるで、優雅な円舞であった。
二人共が笑顔さえ浮かべているものだから、余計にそう見える。事情を知らなければ、二人がギリギリの所で命のやり取りをしているとは分からないかも知れぬ。
――だが、楽しい時にも終わりは来る。
ヨシュウはマドベの攻めに順応し、ヨシュウの攻め手は更に増えていく。
軽くいなすようだったマドベの守りは、紙一重での守りになっていく。
そして。
マドベが打って出る。
その剣筋が描くのは円ではない。素直な、だが洗練された、最短を最速で打ちに行く斬撃。――それはまるで、昨日のヨシュウの初手を見るかのよう。
そしてヨシュウもまた、昨日のマドベの動きをなぞるように。
剣と剣が触れ合い、だが、鳴る音は微か。
マドベが体勢を崩す。
ヨシュウは受け流した形から淀みなくその身体を回転させた。
身体に巻き付いた紅玉刀の赤が、飛び出すように、伸び。
その刀身は朝日を受け赤白い楕円を描き、楕円はマドベの背中、肩から入り腰から抜けた。
そのまま前方へよろめき、どう、と倒れるマドベの背中から溢れ出した血が、床を染め広げていく。
「……奥伝、成りし」
弱々しい掠れる声は、だが、ヨシュウとタケトモ、どちらの耳にもしっかり届いた。
その言葉を最期に、笑みを浮かべたまま、マドベは逝った。
しぃん、と静まりかえった道場に、ヨシュウの呼吸と、小鳥のさえずりだけが聞こえる。
「……行きなさい、ヨシュウ君。そろそろ早い門弟はやってくる」
「それで宜しいのですか?」
「言ったはずだよ。どんな結末でも、君に感謝すると。それに、先生にこんな満足そうな顔で逝かれては、君を恨みに思うことなど出来やしないさ。……だが、他の門弟もそう考えるとは、限らない」
「……分かりました」
ヨシュウは剣を鞘に収めると、そのまま外へ向かおうとする。
その背中に、タケトモから声が掛かる。
「そうそう、約束だ。君のことを教えてくれたのは、コノト君だ。コノト・マサタ」
一瞬、ヨシュウの動きが止まるが、直ぐさま駆け出してゆく。
(マサタが、生きている。生きていてくれた……!)
ヨシュウは手に入れた力、そして手に入れた情報に、周りも見えぬほどの大きな充実感、高揚感、そして喜びの中にいた。
冷静さが戻ってきた時には、ヨシュウは帰路を駆ける馬上の人であった。