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終、山神の声

 船旅は順調そのものであった。

 東からの海流が先述した海嶺の影響で南向きに変わる。その流れに乗った。

 天気も穏やかで風も凪いでいた。――当時のベンダンス船も帆を張っていたが、技術的には当時の我が国と比較してかなり劣っていた。これも先述の通り三方を海に囲まれていても東西は上陸に難く、内陸に於いても大河を有しない地理も相まって船舶の発展は遅かったのだ。故に、大型船に関しては帆走よりも漕走の方がこの頃はまだ主流だったため、追い風でもない限りは凪が喜ばれていたのである。

 今更ではあるが、ヨシュウは馴染みの無かった船旅にもすぐに慣れ、全く苦にはしていなかったようだ。マドベの剣をものにするくらいである訳だから、それだけ優れた三半規管を持っていた故、ということなのであろう。

 ヨシュウにはアンザと共にコスカという若い兵士が身の回りの世話役として付いていた。その実体は監視であるが、ヨシュウは理解の上で彼に剣の稽古をつけたりもしていた。

「コスカは、見所がある、のですか?」

 そう尋ねたアンザに対し、ヨシュウは。

「船の上は暇で堪らん、というだけのことさ」

 そう言って笑った。

 天気につられたかのような、穏やかな時間。

(……作戦が失敗に終わるとしても、この人だけは生きて帰ってきて欲しい……)

 アンザは心からそう思う。自分を弟と呼ぶ男に、本当の家族のような親愛を抱いていた。――だからこそ、なのであろうか。この後のヨシュウの行動に、『あれは、怒りか、悲しみか。ただ、裏切られた、という感情と、それによる爆発的な内なる衝動に、自分を抑えることが出来なかった』と彼は記している。同時に、『だが、その後の自らの行動を抑えられなかった事に、今は後悔しかない。この念は生きる限り決して消えることはないのだろう』とも。


 左の、空と海の境界に、ぼんやりと太陽の気配が現れていた。

 消えゆこうとする夜の気配をそこに色濃く残そうとするかのように、ツクナミの霊峰が濃い影として屹立しているのが前方やや右手に見える。

 ――作戦の時は近い。

 帆柱を挟んで前方の甲板に、戦闘要員が整列している。先頭に一人。五名が五列。後尾に一人。先頭はヨシュウ、後尾は指揮官の男である。指揮官は高慢な男で、アンザやヨシュウを見下し、まともに名乗りさえしなかった。故にか、アンザの手記にその名は記されていない。

 アンザはその光景を、後方の船内へ降りる階段のすぐ横近くから見ていた。背の高い彼の目からはそれらがよく見えた。

 不意に、ヨシュウが刀剣を抜いた。

 背後の者達に、緊張感が走る。

 だが、ヨシュウは刀剣を眼前に掲げたまま、ゆらゆらりと揺れる船の上で、揺るがない。

 暫しそれが続くと、柄に手を掛けていた兵達もその緊張を緩めた。

 ヨシュウのそれは、まるで祈りのようであった。

 先ほどまでの緊張感とは違う、厳かな空気が漂う。辺りにはただ風と波だけがざわめき、静かだった。

 ――その時、強い風が吹いた。

 アンザの耳元を、風鳴りが行き、過ぎた。

 アンザの目は、何かに気付いたような素振りを見せるヨシュウを映していた。


 ――ブゥォォォォォォォォ……。

 眼前に刀剣を構え、祖国に刃を向ける。その覚悟を確かめた。

 心は静かに燃え、そこに迷いは無い。――そう感じた刹那、強く吹いた風の中に、それを聞いた。

(山神の声……)

 すると脳裏に、親しい者が、慕わしい者が、浮かび上がる。

 ソロウ。

 マサタ。

 シャネ。

 サク。

 そして、どうしてか思い出すことも無くなっていた、カリン。

 カリンの顔は幼い頃のままで、今はきっと美しく成長したのだろうと想像しても、上手く像を結ばない。

 ――それを見ることは、きっともう出来ない。

 そんな予感が、確信のように腑に落ちた。それを少し残念に思う。だが、後悔は無い。

 ふっ、と。燃えさかる炎だと思っていた怒りは、蝋灯の小火でしかなかったかのように、神の息吹に吹かれ、消えていた。

 マサタの事を思い浮かべても、もう、さっきまでの“熱”は戻ってこない。最後くらい、あいつに花を持たせてやるのも良いかもしれない――そんな気持ちが浮かぶだけだった。

 そんな心の内に気付いて、ただ不思議に思う。後ろにいるのはその数三十にも満たない有象無象。下の漕ぎ手どもが騒ぎに気付いて武器を取っても四十に届かない。それに不覚を取る気など微塵も無いのに、どうして“終わり”を予感するのか。――そしてそれ以上に。その終わりを、恐れていない自分自身が、受け容れてしまっている自分自身が、不思議で仕方ない。

 ――だが、どうでも良いことだ。

 その予感が当たろうが当たるまいが、自分はただ、剣を振るうのみだ。それはとても自分らしくて……思わず笑えてくる。

 心は、決まった。

 ええっと、なんて言うんだったか……。ベンダンスでは確か……『私』を最初に……。『気持ち』は確か……。うん、そうだ。

 じゃあ、やろうか。


「アガ、ジグネン、ヘジェット」

 振り返ったヨシュウが楽しげに口にした言葉を、アンザは一瞬、ベンダンス語だと気付かなかった。

 ――俺は、気が変わった。

 遅れてその意味に気付いた時には、ヨシュウは最前列の内側三人を斬り伏せていた。

 慌てて剣を抜き斬りかかる兵達を、ヨシュウは踊るように躱し、切り伏せる。

 何が起きているのか。

 どうしてこんなことが起きてしまうのか。

 信じられない思いと、ヨシュウの動きの見事さに惹き付けられる思いと、ふつふつと湧き上がる、未だ感じたことの無いような強く昏い衝動に、頭の中も心も千々に乱れ、アンザはただそこに立ち尽くして見ていることしか出来なかった。


 じわじわと前進しながら、半分ほどを斬った。

 その時、目の端に一人、他に比べれば洗練された動きで迫るコスカの姿を見た。

 瞬間、身体は無意識に船の端へ向かう。

(俺は何をしている? ……ああ、殺したくないのか)

 他人事のように考えながら、わざわざ不利な状況を招く自分に苦笑いが浮かぶ。

 左側からじわじわ後ろへ回り込もうとしていた男に突然飛びかかるように斬り掛かる。

 そのまますれ違うように動き、“それ”が倒れる前に背後へ蹴り込んで僅かな猶予を生み、舷を背にした。

 一人先行して飛び出してきたコスカの、剣を払い飛ばし、伸びきった腕を掴んで、力任せに背後の海へ放り投げた。

 その末路を確認することも無く、続く左右から来る敵に備える。が、人一人を背後へ放った体勢からでは流石に余裕を持った対処は難しい。

 難しい、という判断をするかしないかの内に右へ踏み込んだ。右からの敵へ先の先を取りつつ左からの斬撃を躱す動き。左下から右上への斬撃で右を斬る。だが、その開いた左肩後ろから腰までを斬られた。痛みを感じる間もなく、踏み込んだ右足を軸に身体を回転させ、振り下ろした剣を戻そうとする左を斬り捨てた。

 ――前へ。

 それは思考ではなく本能。狭い場所で迎え撃ち、血や脂で足を取られることを嫌った。

 一人、二人。

 斬りながら、左脇がじくじくと痛むのを感じる。平地ならこれほどには痛むまい。不安定な船の上という足場は、思っていた以上に無駄な緊張を全身に強いていた。

 傷口が“綺麗”では無いことも悪かったのだろう。ベンダンスの剣はなまくらとは言わずとも、紅玉刀のように鋭い切れ味を持っているわけでは無い。

 次、破れかぶれで向かってきた雑兵の、力任せの一振り。

 船が大きめに揺れた。

 そのせいで、技術が無いからこそ簡単に剣の軌道はぶれ、だが、それは不規則な変化となった。

 目はそれでもその動きを見極めた。身体はそれに従って反射行動を起こす。

 ――ずきり。

 揺れる足場、痛む左脇。その条件が動きを妨げた。

 左のこめかみ付近に剣先が掠める。

 咄嗟にその動きに合わせて首と上体を振り、衝撃は逃がす。切れ味が悪いからこそ、受ければ脳を揺らす可能性もあった。それを嫌った。

 その躱す動きを止めず、流れるように身体を回し、その男を斬り捨てる。

 残りは僅か。

 こめかみから垂れてきた血が、左目の視野を奪った。


 海へ放り投げられたのがコスカだと気付いた瞬間、アンザの心に浮かんだのは「何故?」という思いだった。

 コスカだけを助けようとした行動が不可解だったわけではない。それをするのであれば、何故、今ここで、その剣を振るってしまったのか。

 それは“怒り”のようで、違うようでもあった。

 例えば。今、目の前で、剣も抜かず、具体的な指示を出すでもなく、ただ「殺せ!」と喚き続けるだけの指揮官。これに対して覚える腹立たしさが“怒り”であるならば、ヨシュウに対して感じる昏い感情は、怒りでは有り得ない。

 指揮官がこのような無能である以上、恐らくこの船は捨て駒、或いは体の良い厄介払いでしかない。上手くいけば儲けもの、といったところであろう。そのような祖国の裏切りとも言える行為、またはそんなものに巻き込まれた理不尽に対して覚える苛立たしさが“怒り”であるならば、やはりこれも、今、心の底で蠢き、じわじわと浸食せんと広がるこの闇とは違うものだ。

 頭の中でそんな思考とも言えぬ感情を持て余しながらも、その目はヨシュウから離せないでいる。

 脇に、額に、傷を負ったヨシュウの動きが変わったのが、アンザにでも分かった。

 下がり、斬り捨てた者達の内側へ立つような形。ヨシュウの横に回り込もうとしていた男が、もう動かない仲間を気にして踏み込めずにいるのを見て、ヨシュウの狙いが分かった。

 正面からヨシュウに斬りかかった男が崩れ落ちた。どうやったのかは、アンザには分からなかった。

 一人、また一人と動かなくなるに連れて、アンザの心は燃え上がるようでも、凍てついていくようでもあった。

 近くで、声にならない叫びが聞こえ、階段を降りていく音がした。

 次いで、櫂を漕ぐ人夫達が次々と階段を上ってきて、目の前の光景に恐慌を来し、先を競うように海へ飛び込み始めた。

 船が揺れる。

 カラン、と。

 アンザの足元に転がってきたのは、大型魚を仕留めるためにその先端を研ぎ澄まされた、銛であった。


 ――面白いものだ。

 まさかこれほど追い込まれるとは思わなかった。“終わり”の予感には、きっと理屈ではない、本能的な根拠があったのだろう。

 そして。

 その最後に自らが頼りにするのは、『ゴ』の剣であった。

 この背に妹を護らんと磨いた力で、今、この時、一度は刃を向けると決心したはずの祖国を背に、立っている。

 本当に面白い。運命というものを、信じてみたくもなる。

 だが、胸の内の、自分でも確かなことは解らぬ熱情のままに、己の剣で己の道を切り開いてきた自負もある。

 その中で得たはずの“強さ”は、原点とも言える場所で、あの時見捨てる事しか出来なかった、自らの弱さの象徴とも言える親友によって打ち負かされた。

 それでもまだ燃えさかろうとしていた熱情は、故郷から響いた神の声の前にあっさりとかき消えた。

 ――何故だ?

 向かってくる敵を作業のように殺しながら、己に問う。

 ――わからない。

 そう、わからない。それに、理屈で解ろうとしたところで大した意味も無いように思えた。

 心にはただ漠然とした満足感がある。

 それで充分だった。

 ゆっくりと歩き出す。倒れ伏した者達の間を、一歩一歩確かめるように。

 その歩を阻む者は、もういない。

 向かう先には、腰を抜かして震えるだけの男。

 結局、この無謀な作戦は、ベンダンス内のツクナミ侵攻派を黙らせるための茶番狂言のようなものだったのだろう。後詰めとやらが本当に来るのかも怪しい。そういう意味では、この目の前の情けない男にも、自業自得なのだろうが、祖国から捨てられた哀れを覚えないこともない。

 だから、ひと思いに終わらせてやる。

 腰に剣を佩いていることなど頭から抜け落ちているように、ただ尻で後ずさろうとするだけの男を、一刀で斬って捨てた。

 それが済めば、左の脇がじんじんと痛み、カッと熱を持っているのがひどく意識された。加えて、いつの間にやら傷を得ていた右腿や右肩も同じように熱く感じる。

 荒い息が、なかなか落ち着かない。

 ――さて、どうしたものか。

 思案する()()に、空を見上げた。抜けるような青空、というには、まだ暗い。

 ダッ、ダッ、ダッ。

 こちらへ向けて駆けてくる気配に気付き、そちらへ顔を向けた。

 ――ああ、それもいい。

 そんな、感慨のような、諦観のような心持ちで、アンザを受け容れた。


 何の抵抗もなく、あっさりと肉を貫いた感触に、我に返った。

 自分のしたことがじわじわと理解されて、手が、身体が、震え始める。全身から力が抜け、銛の柄から手を離し、思わずへたり込んだ。

「……どうして……? どうして、避けなかったのですか!」

 思いはそのまま、声になった。意識せずそれは、ツクナミ語であった。

「……アンザ、頼みがある」

 アンザの問いには答えず、胸に銛を突き立てられたままのヨシュウから弱々しい声が、一言一言絞り出すように、降ってきた。

「妹が、いるんだ。名は、カリン。多分、霊峰の麓の、比較的、新しい里に、きっと、元気で暮らしている。……あの子に、これを、届けてくれないか」

 そう言って膝を突き、アンザの手に紅玉刀を握らせた。

 伏せていた顔を上げ、ヨシュウを見る。

 その顔は、先ほどまで鬼神のような力を振るっていたとは思えないほど穏やかであった。

 ――どうして……、どうして……。

 そんな言葉だけが、先に進めずに頭の中をめぐり、目からは涙が溢れ出した。

 ヨシュウが咳き込むように、血を吐き出した。次いで、恐ろしく優しい声で、言葉を紡ぐ。

「後ろに、小舟があったはずだ。この船に火をつけてから、そいつでツクナミへ行ってくれないか……」

 それが私の、贖罪だ。――アンザにはそうとしか思えなかった。

 そう思えば、それは、生命を賭してもやり遂げるべき、使命となった。

 心の中には、自らのしたことを棚に上げてでも、ヨシュウを助けるために可能性が潰えぬ限り足掻きたい、そんな気持ちもある。

 だが、それを目の前の男が望まないことも理解してしまった。

「……必ず!」

 だから。涙に震える声で、だが、精一杯、それだけを力強く答えた。

 ヨシュウはそれに、ただ微笑みで応えた。


 ――熱い。

 斬られた傷が、貫かれた胸が、熱い。

 聞こえてくる、ごうごう、という音は、風の音か、波の音か、船を燃やす炎の音か。それはひどく煩く耳に届くと思えば、とても遠くにも感じられる。

 視界の赤は、炎か、血か。

 首筋がぞくぞくとして、どうしてかひどく寒い。傷口だけが体中の全ての熱を奪ってしまったようだった。

 突然、浮遊感を覚えた。

 それは一つの記憶を呼び起こした。子供の時、『紅玉の間』に辿り着いてしまったあの日のことが、ありありと思い出された。

 あの日、地面が崩れなければ、自分は『ゴ』とならず、カリンは『フ』とならず、だがやがてスジャナリに里を追われ、自分は妹と共に穏やかに暮らしていただろうか?

 そんな、もしも、の光景は、一見幸せそうに見えるのに、どうしてこんなにも哀愁を覚えるのだろうか。

 それは、その光景が決して手に入らない事への悲しみではない。

 それを手に入れていたならば、失われてしまうものがあるから、悲しいのだ。

 だから、今。こんなにも心は充ち足りているのだろう。

 人生が、運命に弄ばれたものであれ、自分で切り拓いたものであれ。

 ――楽しかった。

 結局、満足してしまえる理由など、それだけのことなのかも知れない。

 気が付けば、燃えるようだった傷口の熱も、身体が感じていた寒さも消えていた。

 煩かったはずの周りの音もまた、いつの間にか消え去り、耳元にはただ、山神の声が響き続けていた――。


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