十、復讐の焔
ぐわん、と揺れる感覚に、意識が揺り起こされた。
目に入ったのは、木張りの天井。
ぐわん。
大きく揺れる地面に、すわ地震か、と飛び起きようとするも、左の腕と腿に鋭い痛みが走り、頓挫した。
痛みを堪えながら上体をゆっくり起こし、周囲を窺う。痛む箇所にはよく洗われた布が巻いてあった。
場所は木造の小部屋、この部屋全体が大きくゆらりと揺れているようだ。が、地震のような揺れではない。
そのままじっと様子を窺う。――と、ようやく、右手が何かを強く握りしめていることに気付く。
紅玉刀であった。
意識を失ってなお、誰かにこうして拾われてなお、柄を手放さなかったことに、ほっとしてようやく右手を緩めた。
そして気持ちが少し落ち着いたせいか、意識を失う直前に自らの身に起きたことを思い出した。
知らず全身が力み、傷が痛んだ。喉の奥から苦悶の声が漏れ出た。
その声が聞こえたか、偶々か、ちょうどその時、部屋に一つだけの扉が開いた。
入ってきたのは、見慣れぬ風貌の男であった。
何やら分からないことを口にした後、何かに気付いたようにしてから、改めて口を開く。
「ケガ、大丈夫か?」
そのツクナミ語には、変な訛りがあった。
ヨシュウを拾ったのは、ベンダンスの商船であった。
敵国同士という認識ではあったが、民間レベルでの交流はあった。とはいえ、二国間は南方との距離と比べれば近いとはいえ当時の船舶技術では決して安全とは言えない距離があり、頻繁なものではない。その点でもヨシュウが拾われたのは幸運であった。
余談かも知れないが、商人の扱うものの中には『情報』もあり、密偵めいた役割も果たしていた、が、これはお互い様であり、だからこそ国としてはどちらもこういった民間の交流を黙認していた面もある。
ともあれ、ヨシュウはそういった船に“海で”助けられた。
橋から落ちた後、気を失ったヨシュウは峡谷の底を流れる川を海まで流された。
クレノセキから北部の河口、海まではかなりの距離がある。普通なら助かるまい。それでもヨシュウが助かった要因はいくつかある。
まず、前日の雨によって川が増水し、流れもより急になっていた。元より急な流れの川で大きな岩などの障害が少ないが、より高い位置を流れることで危険が減った。流れの速さはそのまま時間の有利を生んだ。
塩分を含む川であった事も幸いであった(当時は現在よりもその濃度が濃かったと推測される)。それはヨシュウの身体が沈むことを防いだし、傷口からの失血を緩和したとも考えられる。
そして、紅玉刀は不思議な合金であった。水面から僅かまでしか沈まないのだ。そして彼の本能は、意識を失ってなお、その愛刀を手放すことは無かった。
とにかく幸運であった。それは、上記のような細かい理由は分からなくとも、ヨシュウ自身、強く感じていた事であった。
――山神様が、俺に死ぬなと言っている。
それは、ヨシュウを助けた男の手記に於いて、ヨシュウが語ったとされる言葉である。
その男は、姓をルコフ、名をアンザ、ベンダンス表記でアンザ・ルコフという。
背は高いが、ひょろりと細身で、顔立ちも含め、どこか人好きのする雰囲気の男だったという。
アンザ自身は商人ではなく、雇われた通訳であった。
生まれこそ商家の長兄であるが、幼い頃に父の扱うツクナミの陶器、その美に魅せられた。その価値など分からぬ年端から、ほうっておけば一日中でもツクナミの皿などを飽きずに眺めているような子供だったという。
それはそのままツクナミという国への興味となり、齢十になろうかという頃、彼はツクナミへの商船に潜り込んだ。そして海上に出て数日後、ひもじさに船内を彷徨っているところを見つかった。
密航者は海に捨てる決まりであったが、相手は子供、しかも取引のある商人の長兄である。捨てるわけにも引き返すわけにもいかず、仕方なしに同行を許された。この船旅でアンザはずっと通訳の男に纏わり付きツクナミ語を教わったという。
無事に戻った時は大いに叱られたが、父はその熱心さに有望な跡継ぎだと喜んでもいたという。――七年後、その息子が家から出奔するなど、露程も思わずに。
アンザ少年は実際に訪れたツクナミに大きな感銘を受けた。ただツクナミの物を扱うだけの商人ではもう満足できない程に。更に、当時のベンダンスで船を持てる商人は国が認めた数名だけ。彼に家を継ぐという選択肢は無かった。
家を飛び出したアンザは、雇われ通訳となった。ツクナミとの交易船は多くない。貧しい生活だったようだ。それでも心はけして荒むことは無く日々は充実していたと、彼は手記に記している。
そんな生活が四年も過ぎたその日、離れるツクナミを名残惜しく見つめる彼の目が、海を漂うヨシュウの姿を見つけたのであった。
引き上げてみて、アンザは仰天した。意識が無いはずのその男は、剥き出しの刀剣を握りしめているのだから。しかもその力は、指をこじ開けようとしても出来ぬほどに強かった。
周りからは殺してしまえという声も出た。だが、アンザは頭を床にこすりつけてまで助けることを懇願した。
アンザとて、恐怖を覚えなかったわけではない。だがそれ以上に、その恐ろしいまでの武人としての本能、精神性とでもいうもの、それに惹き付けられた。
目覚めたヨシュウに事情を聞き、話を交わす内、アンザはますますこの男に惚れ込んだ。
――いくらツクナミびいきといえども、愛国心はある。だが、このヨシュウという方を知れば知るほど、ベンダンスの男共が野蛮人に思えてしまうのだ。
そう手記に残すほど、少なくともアンザにとっては、ヨシュウは高潔な武人と映ったようだ。
また、自分を慕うアンザという男のことをヨシュウも気に入ったようで、ベンダンスへの船旅の内にアンザを「義弟」と呼ぶようになっていた。
当然ではあるが、ベンダンスでヨシュウに自由は与えられず、首都ダ・ベンドへ護送されることとなった。
それでも戦中の捕虜に比べれば破格と言って良い扱いで、アンザと監視の兵を伴えば途中で立ち寄った宿場町を歩くことも許された。とはいえ、首都への道程は小さな宿場町を経由する遠回りだったようで、敢えてそれらを見せることでベンダンスの国力を侮らせる意図もあったようだ。
ゆっくりと進む馬車の旅の間、ヨシュウはとても武人とは思えないほど穏やかな様子だったとアンザは記す。目新しい文化に子供のように目を輝かせ、その好奇心で簡単なベンダンス語も覚えてみせる。そんな無邪気さに、同道したベンダンス兵達も心を許している様子だったという。
そんな旅が終わる頃には、ヨシュウが拾われてから既にひと月が過ぎようとしていた。
首都も目前となったその日の朝、矢傷も癒えたヨシュウは、鍛錬を再開した。
ヨシュウが刀剣を構える。
ぞくり――と、それを見ていたアンザの背筋が震えた。
瞬間、ヨシュウが全くの別人に変わったように見えた。それは雰囲気だけの事ではない。顔つきさえ変わって見えた。
一振り一振り、丁寧に確かめているようだった。その剣の軌跡は一つとして同じ軌道を描かない。
そして、一振り毎に、ヨシュウの纏う空気が研ぎ澄まされていくようだった。
それは力強い動きのはずなのに、どこか静謐な印象を受けた。
同時に、一振り毎に、ヨシュウの目に強い意志が宿っていくようでもあった。
それは音も無く燃えさかる炎を連想させた。
畏敬の念、というツクナミ語は、こういう時にこそ使われるべきなのではないか――アンザはこの時にヨシュウから受けた印象を、そう記している。
その眼が見据えていたものが何であるのか。それはアンザにとっては思いがけないものであった。
「私をツクナミ侵攻の先頭に立てていただきたい」
王の御前であった。王の間は、主要な立場の者や警護の者ら五十名以上が並んでもなお広々と見える。
そのヨシュウの言葉に、アンザは自分のツクナミ語の認識が間違っているのかと思い、思わず聞き返した。
「……それは、あなたが、ツクナミの、敵となる、ということですか?」
「そうだ」
アンザの確認にそう答えると、ヨシュウは膝を床に付き、王に頭を垂れた。
アンザがヨシュウの言葉を翻訳すると、場にはどよめきが起きた。それは、驚きよりも困惑を伴ったものである。
「そなたが我らを謀ろうとしていない保証が何処にある」
その、王の手前に侍る総軍長ボナオス・タナテフの言葉をアンザから聞き、ヨシュウは語る。
「ツクナミは今、大きくは二分しております。即ち、皇派と軍派に。私はその軍派の一官として、かつて侵略された故郷を奪還に向かいました。そこには皇派が、明らかに私を相手とした罠を張って待ち構えておりました。……私は陥れられたのです!」
ごくり、と誰かの喉が鳴る。言葉の意味は解らずとも、そのヨシュウの怒気に気圧された。
「そこで失うはずだった命をあなた方に救われました。雪辱と報恩のため、我が剣を振るうのです。それを信じていただきたい」
その場にいた全ての者は、その怒りが熱を持って感じられるように錯覚した。
ヨシュウに目を全く逸らすこと無く見据えられ、ボナオスは自分が身体の内から燃やされてしまうのではないかとすら感じられた。耳がアンザの言葉を聞き、その意味を理解する時には、ヨシュウを疑おうという気持ちは萎んでいた。少なくとも、その怒りを嘘だと判ずる気持ちは微塵も無かった。
ボナオスは王の前に跪き、口を開く。
「……恐れながら奏上いたします。この者の言が確かであれば、ツクナミは皇派と軍派が手を結ぶ可能性があります。それが成れば我らの付け入る隙は失われましょう。ですが、これまでの経緯から、それが一朝一夕に成るとも思えませぬ。大きな変化には混乱が付きもの。ならばそれは好機でもあります。何卒、迅速なご決断を」
「……北が煩いな?」
「はい、理解しております。その上で、の奏上にございます」
「……多くは割けぬ。叶う限り少数で成す策を二日の内に献上せよ。」
「仰せのままに」
こうして、ベンダンスによる再びのツクナミ侵攻は、実行へ向けて加速したのであった。
ベンダンスは遙かな昔から、北方大陸の西と東を繋ぐ橋のように形の狭まった陸部、その半ばから南へ突き出した半島部を領土とする国である。
半島部は西側を山脈が通り、東側海岸は険しい地形が多い。それは防衛に易いということであり、北方大陸の中では最も独立性の高い国家運営を長く続けられた要因でもあろう。
だが、『半島の付け根』である北方の陸部は、東側の大国タルゴスと西側の大国セルトリアが常に支配権を争ってきた歴史が続いており、それは即ち、ベンダンス領北方もまた常に戦いや侵略の恐怖に晒されていたということでもある。事実、これより以前には半島部の北部三分の一程度を失った時代もあった。
彼らがツクナミを手に入れた先に求めたのは、資源などの他にも、そういった恐怖の無い世界、ということなのだろう。
また余談ではあるのだが、ベンダンス西側の山脈をそのまま南南西へ延長すると、我が国西部は霊峰を初めとした山岳地帯にぶつかる。更に遥か南南西へ延長すると、南方大陸中央を分断する大山脈に接続する。当然、海底に於いてもその帯は海嶺状に隆起しており、今日、それを根拠に、我らが暮らすこの星は二つの巨大な塊がぶつかり合って誕生したと唱える地学者もいる。……果たして人類の叡智はその事実を詳らかとするのか。なるほど、これも一つの浪漫である。――いや、本当に余談が過ぎた。
さて、ベンダンスが立てたツクナミ侵略計画はこうだ。
まずは行商船に偽装した船でツクナミ北方西部の漁業と塩業の村シオネに上陸、速やかに占領を行う。そこへ後詰めの戦船五隻を合流させ、橋頭堡(海岸堡)とする。そこから東、交易の町トリトを侵攻、ツクナミの交易に打撃を与えつつその辺り一帯の領土権を確立し、徐々に広げていく。
――一言で言えば、お粗末。
現在はもちろん、当時のツクナミ側から見た感覚でさえ、そうとしか言えないほど無謀な、計画というのも烏滸がましい程度のものである。
だがベンダンスは先述の通り、常に領土を削り取られる恐怖と共にあった国である。そこに強い拒絶反応がある。その感覚をツクナミの人間にも当て嵌め、初手さえ上手くいけば簡単に譲歩を引き出せると考えたのであろう。――もちろん、本気で侵略を考えていたならば、もっとましな計画が立てられていたと思われるが。
当然、それを聞かされたヨシュウも、これが成功するとは全く考えていないと、後にツクナミへ向かう船の上でアンザに打ち明けている。
だが、ヨシュウにとって、それはどうでも良いことであった。
この時点では確かに、ヨシュウの心には復讐の炎ばかりが占めていただけのはずなのだから。