一、幼き日々
一人先行していたヨシュウが、足元の感触に違和感を覚え、飛び退ろうとした時には遅かった。
足下の更に底の方から、鈍い音がしたと思ったとほぼ同時、立っていた地面が崩れた。
間もなく襲いかかった浮遊感に、臓腑が迫り上がる不快感、そして縮み上がる急所。
落ちながらヨシュウの脳裏に過ぎったのは、恐怖、後悔。
そして――。
「あ痛ぁッ!」
それ以上を考える間もなく、崩落した“床だったもの”に尻を強かに打ち付け、痛みに悶えた。
「いーっツゥっ……」
そうこぼして尻をさすり、だがその声には確かに安堵があった。
(そんなに深くなくて助かった。どうやらすぐ下にあった別の通路に落ちただけか……)
だが、その安心も束の間。
「兄様ぁっ!」
上から振ってきた声に反射的に振り返り、闇の中を落ちてくる赤い光を目印に、しっかりとそれを受け止める。
「カリン……。バカッ! 何てことをっ、お前はっ……」
今のは自分が落ちると思った瞬間よりも肝が冷えた。まさか妹が後先考えずに追ってくるとは。あの一瞬で大切な妹を冷静に受け止める事が出来た自分を褒めてやりたい気分だった。
妹の無謀な行動に、思わず怒鳴りつけてしまいそうになったヨシュウだったが、自分の胸に顔を埋め、「よかった」と繰り返す妹を見れば、そんな気勢もそがれ、ただただ二人共に無事であったことに安堵する。
「ヨシュウ! カリン! 大丈夫なの?!」
上から聞こえたその声に。
「おい、シャネ! お前は早まるなよ? 俺達は大丈夫だから!」
と、ヨシュウは慌てて声を返す。
流石にもう一度、それも、女子とは言えカリンに比べれば大柄な人間一人を同じように受け止める自信は無かった。
「マサタもソロウも無事か?」
ヨシュウからそう問いかければ、各々から平気だ、と声が帰ってくる。
「よし。なら、三人は里に戻って縄か何かを調達してきてくれないか」
ヨシュウの言葉に、一瞬戸惑う雰囲気があった後、ソロウの声が問う。
「ヨシュウはどうする?」
「こっちも通路になってるみたいだから進んでみる。大丈夫、分かれ道があったら戻ってくるから」
「平気なの?」
不安そうなシャネの声が降ってくる。
「カリンも居るんだ。無茶はしない」
妹にはとことん甘いヨシュウのその言葉は、三人を納得させるのに十分だった。
――東西に長く、時に西を向いた魚の形に例えられる我らが島国ツクナミの、霊峰を中心とした山岳地帯である“魚の頭”の東端やや北寄りの地に、その里はあった。
クレノセキ――現在も地名として残るその名前は、当時はその里のことを指していたという。
クレノセキの里の西側、隣接する山々にいくつもの入り口を持ち、複雑に入り組んだ洞窟は、里の子供達にとっては格好の“冒険の場”だった。
大人達も、そこは自分らも通った道。口では洞窟への侵入を禁止と言いながらも、安全な洞窟だけは簡単に入れるようにしておき、子供達の冒険心を満足させていた。
だが、齢十二になっても相変わらずのやんちゃ者であるトガ・ヨシュウは、そこで満足しなかった。
そんなヨシュウが見つけてしまった、隠された洞窟の入り口。
巻き添えを食らったのは、彼の幼馴染み。
やや小心者だが、同世代の中では一番体格や腕力に優れた男子、コノト・マサタ。
いつも飄々としているが、父親の影響もあり剣術の腕前では同世代に肩を並べる者のいない男子、セイト・ソロウ。
時に男勝りの行動を見せるが、決して粗暴ではなく、近い世代の女子からの信頼も篤い女子、イスタ・シャネ。
幼い頃から良く連むこの四人は、良くも悪くもこの里で最も目立つ子供達だった。
そして、この四人がコソコソと洞窟探検の算段をしている所を見咎めたのは、ヨシュウとは歳二つ違いの妹、トガ・カリン。
兄が大好きなカリンは付いていくと言って聞かず、妹を大切に思いながらも、妹の“お願い”に弱いヨシュウは結局折れる。これもいつもの事だった。
五人は、この里でしか産出されない、彼らが『紅玉』と呼んでいたそれを、それぞれが腰にぶら下げて洞窟へ入り込み、そしてヨシュウは冒頭の災難に見舞われたのだった。
因みに、紅玉は現在では確認される数は僅かで、そして新たに採掘される事もなく、今なお謎の物質と言われている。
夜の闇ほどの暗さの中ではぼんやりと光っている程度、だが、彼らが探検した洞窟のような真の闇の中では、松明のよう、とまでは言わないまでも、ある程度は信頼に足る光源となるほどの光を放った、らしい。
但し、現存する当時の紅玉と思われるものは現在に於いてそのような性質を示す事はなく、史料が誤っているのか、経年によって変質したのかは定かではない。
また、その史料に拠れば、紅玉は見た目は赤く透明で宝石のような鉱石だが、金属的性質も持ち合わせていたそうだ。
これは、この里に伝わっていた鍛冶技術によって誂えられた鋼と紅玉の合金製と思われる刀剣が、皇室国庫に秘されている儀礼用の物の他、民間にもほんの数点、現存している。――そして、その内一つの持ち主であったのが他でもない、ヨシュウであったと伝えられている。
余談が過ぎた。彼らの物語へ戻ろう。
カリンを伴ったヨシュウが進んだのは、緩やかに下りていく方向だった。
とはいえ、暗闇の中で、真っ直ぐ進んでいるような、曲がっているような、下っているような、上っているような、それらの感覚はヨシュウの心一つで如何様にも変化してしまう気もする。
それでもヨシュウは自分の感覚を信じ、迷いを押し殺し、決して弱気を表には出さない。
腰の帯を強く握りしめる妹に、余計な不安を抱かせるわけにはいかないと、自らを鼓舞しながら。
右手を壁に沿え、慎重に歩みを進め、どれだけの時が経ったのか。
「カリン、疲れていないか?」
「まだ全然大丈夫だよ、兄様」
言葉通り、カリンの声には余裕がある。
それが、ゆっくり歩いているおかげなのか、闇の中で気を張っているために実際以上の時が過ぎたように感じただけで、実はさほどの距離を歩いていないのか、ヨシュウには判断が付かない。
だが、確かに二人は着実に前に進んでいた。
そんな会話を交わしてからさほどの時が経たないうちに、まずそれを見つけたのは前を歩くヨシュウであった。
「……カリン、あれは多分、光だ」
緩やかに右に曲がる道の先の地面に、この洞窟に於いては異質とも言える“光”が投影されているのが見え、ヨシュウは思わず声を潜めた。
改めてそれを確認した二人は声もなく頷き合い、紅玉を着物の胸元の『かくし』にしまう。
足音を立てないように反対側の壁へ移り、光の漏れる入り口をギリギリ覗ける位置まで、慎重に歩を進めた。
じっ、と耳を澄ませても、自分達の呼吸と首の血管が立てる音がごく間近に聞こえるのみ。
ヨシュウは冷静であろうとする頭とは裏腹に緊張を隠さない心臓に苦笑いしつつ、フッ、と息を吐き、気持ちを入れ替えた。
「大丈夫そうだ、入ってみよう」
そしてヨシュウはそう言ってカリンに笑いかけた。いや、笑っている自覚はなかったのかも知れない。
カリンの安全を第一に考えるのであれば、引き返すのが正解だったのだろう。だが、まだ十二の少年であるヨシュウにとって、暗闇の中で見つけた光放つ入り口は、無視するには魅力的すぎる冒険だった。
そこは円筒状の広間だった。
広間の円形の床面はヨシュウの目測で半径二十メトル(当時は『目取』と書いたが、現在の慣用に倣いこのような単位などもカナ表記とする)近くはあり、大凡中心から半径五メトルほどの円形が膝ほどの高さに窪んでいる。
そして真上を見上げれば、少しずつ窄まっていく壁面の遥か高く、天井付近の側面に、光が射し込む四角い穴が等間隔にぐるりと一周していた。
その穴一つ一つはけして大きなものではないが、どうしてだかこの部屋全体をぼんやりとまんべんなく浮かび上がらせるように光を取り込んでいた。
ヨシュウには、ここがどう見ても天然に完成された部屋とは思えない。
大人達が秘密にしている場所なのだろうか。もしかしたら『山神の使い』にまつわる遺跡かも知れない。そんな期待にも似た考えが、高揚感の中でヨシュウの頭に次々と浮かんでくる。
「すごいな、カリン。こんなきれいに、自然にできたりしないぞ。誰かが作ったんだろうなぁ。こんな高く、どうやったんだろうなぁ……」
二人は手を繋ぎ、まずは外壁に沿って回ってみた。
岩壁はさすがにツルツルとはいかないが、これまで歩いてきた洞窟内と比べれば随分と滑らかに感じられる。とはいえ、それ以上に不思議な何かが見つかるでもなく、子供の好奇心は半周もする前にその壁からは興味を失わせた。
そして二人は中央の窪みへ近づいていき、そこをのぞき込もうと――その時だった。
入り口の方から、一言では名状しがたい、重く鋭い何か、そしてそれに全身を射すくめられるような感覚を感じ、その瞬間、ヨシュウの全身に怖気が走り、冷や汗が吹き出した。
カリンはそれがもたらした圧倒的な恐怖という感情を理解する間もなく、腰を抜かし、ただ茫然と座り込んでいた。
そして、ヨシュウの体感でそのほんの一瞬後にはもう、すぐ側に刀剣を構えた人影があった。
「お前は……トガの所のヨシュウじゃないか……」
そう呟いた人影は、ヨシュウの見知った顔。
先ほど感じたはずの重々しい感覚はいつの間にか、霧散していた。
――助かった。
自分の身に何が起こったのか、訳も分からぬまま、ただそんな本能的な安心感に襲われて、ヨシュウもまた、地面にへたり込んだ。
この時に自分に対して向けられたもの、それを『殺意』と呼ぶという事を、ヨシュウが知るのはまだ先の事だった。
クレノセキの里の東側は、底に塩分を含んだ川が流れる峡谷に面していた。
里に通じるまともな橋は里の入り口正面に堅固な石造りのものがただ一つ、しかも、橋を渡って来た者を威圧するかのように、こちら側の左右には岩壁が迫っている。さながら、天然の要害であった。
その岩壁は長い年月の間に少しずつ手が加えられ、見張りの居住空間や矢窓のような防衛の為のものを始め、他にも集会用の空間なども存在した。
その内の一室――今そこに、ヨシュウとカリンはいた。
円机の正面には山神の巫女。その家姓はヤマミ、役姓はフ、名をミカリという。役姓とは読んで字の如く役目や仕事を示し、成人して仕事を得た後に家姓に続いて名乗るもので、当時の山岳地帯東部(魚で言えば“鰓”の辺り)の南北広くに、まるで霊峰への門番のように点在していた集落ではよく行われていた慣習だ(よって以降、必要なら人物名はこの慣習に倣い、家姓・役姓・名で記す)。
ミカリの右背後にはヨシュウ達に殺意をぶつけた男、アケギ・ゴ・モリウが油断なく控え、左にはこの里のまとめ役であるオムノ・オサ・タデムネが難しい顔をして座っていた。
「軍政分離だの皇政復古だのと世の中が騒がしくなって、紅玉を唯一産出するこの里の周りにも不穏な輩が見え隠れし始めたこの時期に、よもやこのような事が起ころうとは……。或いはこれも神の思し召しか……。巫女様、どう思われる?」
「今回の事が偶然か必然か、わたくし如きが理解しようもございません。ですが、こうなったからには、この子達に与えられる選択肢はもう限られているのでは?」
タデムネの言葉に、ミカリは涼しい顔をしたまま答えた。
「うむぅ……。では巫女様、この二人を後継に……?」
「幸い、わたくしも齢四十を越えてそろそろ次を考えなければならぬ頃合いですが、まだ何も決まってはいません。カリンはまだ少し若いですが問題ないでしょう」
「……ではモリウ。ヨシュウは如何か」
「……素材としては申し分ない。理想を言えば、こいつが親や友から剣を学ぶ前に仕込みたかったが、まあ、厳しくすれば問題ないだろう」
二人の返事を吟味するように黙り込んだタデムネは、さほどの時を経ずに顔を上げ、ヨシュウとカリンに向き直る。
「お前達二人が見たあの場所は、紅玉の秘密に関わる場所だ。そして、その秘密を知るのは、我々三人とその先代達、そして、生け贄となった者達のみである。その意味が分かるな?」
生け贄――それは、生まれつき(或いは後天的に)日常生活に支障をきたすような境遇の者を山神に捧げる風習で、古くから山岳信仰が存在した我が国に於いては西部の霊峰を間近に臨む事が出来る地域を中心に比較的近代まで存在した。とはいえ、クレノセキに於いては他とは異なる意味を持つものであったらしいことが推測されるが。
その生け贄と紅玉には関わりがある――それも、密接な。具体的な事は分からずとも、ヨシュウもカリンもそんな雰囲気は理解した。同時に、自分達に与えられた選択肢もまた、無い様なものであるという事も。
そして、モリウがヨシュウに問う。
「……ヨシュウ。先ほどいったとおり、俺の鍛錬は厳しいぞ。それでもお前はそれに耐え、『ゴ』の役姓を名乗る覚悟を持てるか?」
モリウは鋭い視線でヨシュウを見抜く。
そして、ヨシュウはその視線を真っ向から受け止めた。
「持てる。俺が、モリウの後を継ぐ」
ヨシュウの迷いのない返事に、モリウは思わず笑みを浮かべる。
「良かろう。明日から早速始める。……失望させるなよ?」
――こうして、不自由も知らずに仲間達と共に無邪気に山野を駆け回っていられた、ヨシュウの幼き日々は終わりを告げた。