第一話 私が悪役令嬢になった日
朝日が窓から差し込む中、鳥の囀りで目が覚めたであろう旦那に徹夜明けにいいメニューを考えて調理している中、そろそろ起きてくるだろうからとコーヒーを入れている時だった。
「嫁ぇ……おはよー」
コーヒーの香りを嗅ぎつけ、執筆部屋で画面と睨めっこをしていたであろう旦那が頭を掻き長屋らリビングにやってくる。
「おはよう、糸世一彩先生。徹夜明けにコーヒーはいかが?」
「ありがとー、ドリップ?」
「正解」
「いいねぇ、飲む飲む。新聞はー」
「テーブルの横にあるよ」
「ありがとう」
起き上がってくると予想していたので、先に他のメニューを置いてから今淹れ立てのドリップコーヒーをテーブルに置く。うとうとしながら座る旦那はあくびをして食卓を見る。
「今日はツナサンドだよ、コーン入りです」
「お、いいねぇ。ありがとう鎮花」
エプロンを脱ぎながら、私も席につく。
手を合わせて、お互いに「いただきます」と言って、それぞれ自分が食べたいものから先に食べる。
「それで、進捗はどう?」
「もう書き終わったよー、後は出すだけ」
「そっか、無理はしすぎないでね。体が壊れることが一番ダメなんだから」
コーヒーを置いて心配する私にツナサンドを頬張りながら旦那は答える。
旦那の徹夜している時の顔は仕事を頑張っているというのもあるが、もし私と結婚してなかったらもっとひどい顔をしていたかもしれないと思うと正直、彼の嫁になってよかったのだと思う。
「心配性だなー、俺の奥さんは」
「む、独身時代ゲームで三日間も飲まず食わずで倒れていた人はどこの誰?」
「はい、わたくしめでこざいます」
私、天手鎮花の旦那である天手空吾、もとい糸世一彩先生は作家だ。ラノベなども執筆している超売れっ子である。
なのだが、売れっ子になったのはラノベを新人賞に応募したからではない。だからと言って、シナリオライターとして募集があった会社で作った人気となったコンテンツのシナリオを担当して有名になった、というわけでもない。実は……、
「今日なんだよね、群アマの続編」
「ん、出る。そういえば俺が持ってきた方はやったの?」
パンを噛みながら旦那の誘惑の言葉に決して屈しない。
旦那が頑張ってシナリオ担当したゲームを、自分のお金を払って買うという楽しみは絶対に譲りたくないのである。
「やってない。だって、発売日当日に買ってから楽しむって決めてるもの」
「それは、その……嬉しいけど、さ」
「私、本当に色花シリーズ大好き! 空吾が私のために乙女ゲームを作るって約束してくれたあの日からずっと応援し続けてきてよかったって思ってるよ!」
「……そっか」
旦那はツナサンドを口に含みながらそう言った。顔には出さないけど、照れてるってわかってるんだから。
――――――――そう、この男は……同人ゲームで徐々に名が知られていって有名になった作家なのだ。
色花シリーズはエロありの乙女ゲー、つまりアダルト乙女ゲームというジャンルのシリーズだ。うーん、乙女エロゲーでもいいのだろうか……まあ、それは好みでいいか。
旦那がシナリオ担当したこのシリーズは「乙女エロゲーの革命!」と呼ばれるくらいに人気のあるコンテンツであり、一般ゲーム化やアニメ化もしている。
それぞれ、一作目が赤銅のフラガリア、次に不言のカレンデュラと承和のクリザンテムと続いて、四作目が鮮緑のムゲーテ、五作目が群青のアマリュリスに、藍錆のヴィオラ、七作目が至極のアスセーナとなっている。さっき言ってた群アマとはもちろん五作目の群青のアマリュリスの略。
色花シリーズのの中で私の一番のお気に入りの作品だ。
しかし至極のアスセーナで完結編となっているため、群アマの続編は出ないと思って落胆していたが、今年の春に出ると聞き楽しみにしていた作品だ。
「晩酌は編集の片岡さんが来てから付き合ってあげる」
「いいの? じゃあ……夜は?」
食べ終わったパンくずが付いた指を舐める旦那、うん、わざと聞き返してるなこの男。
仕事が終わった旦那を労うのも、大事な妻の務め……では、あるが!!
「今日はいいんじゃない? 疲れてるだろうし……」
「ぶっちゃけると?」
「先生、ゲームがしたいです……!!」
「諦めなくてもゲームは逃げないよー」
「予約特典のCDも楽しみにしてるのー!」
「そりゃ、携わった側からすれば嬉しいけどー……」
旦那が照れてる具合によって、頬を掻く癖がある。
熟年夫婦までとはいかなくても、私は知っている。
合掌して空吾にさらにおねだりする。
「明日は一日中付き合うから! ほら、ゲームショップ行こう?」
「言質取ったからなー」
「はいはい」
食事を終え、準部を済ませてから車に乗り込む。
旦那の好きなアニメソングを車の中で聞きながら、外を眺める。
街路樹の枝に乗ってる鳥を見たり、信号で青になったのを慌てて走る女学生だったり。
平和だ、と楽しみにしているゲームを満足するまでプレイしたら、旦那のために頑張ってあげるかな。
なんて、思っていたのに現実は無情だった。
交差点の前で停止していると、右側の方から猛スピードでやってくる対向車のトラックがこっちに向かって来ていた。回避したくてもまだ信号が赤で発進することもできない。
「きゃあああああああああああああああ!!」
「鎮花!!」
空吾は私の名前を叫んで、私は目をつむる。
ああ、私達死んじゃうのかな。
せっかく一緒にゲーム買いに行くって、わがままだったのかな。
視界が黒く染まった時、そこからは無音だけが支配した気がする。
◇ ◇ ◇
怖い恐怖の黒が私を全て包み込んだ後、目に強烈な光が差し込んだ気がした。
「……様、お嬢様、起きてください」
「……待って、お願い」
誰、だ。空吾の声じゃない。女の人の声だ。
誰だろう、片岡さんは男性だし、空吾の今書いてるラノベのイラストレイターさんの黒猫之子さんかな。
「ダメです、起きてくださいお嬢様、お母様に叱られてしまいますよ」
あ、黒猫さんじゃない。だって私のことお嬢様なんて呼ばないもん。
いつもなら、しーちゃんって呼んでくれるし、こんな大人の女の人って声じゃないし。
だったら、こんないい歳の女にお嬢様なんて呼んでくれるなんて優しい人なんているんだな、と思いつつ私は恐る恐る目を開いた。
どうやら、私を呼んでいたのはメイド服を着た女性のようだ。
知らない人だけど、なんで私を起こそうとしてるんだろう。
「……だ、れ」
「お嬢様、寝ぼけているんですか。メリッサです、お食事ができていますよ」
「……眠いの、起こさないで」
なんだ、さっきのは夢なんだったらここもきっと夢だ。
ゲームを買いに行ったらトラックが突っ込んできた、なんて、流行ってるラノベの異世界転生物によくある設定じみたことなんて……? 私をお嬢様なんて呼ばれるなんてことなんて、絶対ない。
メリッサ? メリッサって、群アマなら裏設定集に出てきたレークヴェイムの専属のメイド、で……?
上半身を起き上がらせて、状況を整理しようと試みる。
「……ここ、は」
視界に広がるのは、白と青を基準とした部屋。
明らかに貴族の娘が寝ていそうな広くて大きなベットを見て、自分の自宅の物と絶対に違うことがすぐにわかった。横を向くと私に声をかけてきたメリッサって人が優しく笑いかけてくれる。
「やっと起きてくださったんですね」
「……メリッサ」
「はい、なんでしょう」
思わず自分の喉に手で触れる。
喋った声が、いつもの自分の声じゃないことに気付いた。
声優さんの声みたいな綺麗な声で、ゲームの時でもどこか聞いたことのある声だ。
――――……ちょっと待て、鏡。いや、それより彼女に聞いてみるのが吉だろう。
「私の名前を呼んで、フルネームで」
「……? はい。レークヴェイム・オルトリンデ・アマリュリス様です」
私はその言葉を聞き辺りを見渡し、化粧台を見つけてすぐに駆け寄った。
鏡を食い入るように見て、私は絶望した。
「……うそ、でしょう?」
「お嬢様?」
フランス人形にも似た幼くて大きなアイスブルー色な瞳と、藍染めより深い紺色の髪。
モンシロチョウの羽のような白い肌。
私の記憶が正しければ、この目の前に映る私じゃない少女は……、
「……間違いない、私、は」
鏡に映る私は旦那である天手空吾の嫁、天手鎮花じゃない別人になっていた。
それも、ゲームの中に登場する悪役令嬢、レークヴェイム・オルトリンデ・アマリュリスになってしまったのだった。何の間違いで、こうなった。