第二〇話 辿り続ける記憶たち フィリーネ編
鎮花は体を起こすと、両目を手で擦った。
「……っ……はぁ、耐えきれなくなってきてるわね」
この痛みは、おそらくレム嬢へに変わる最終段階の一歩手前くらいなのだろう。
なんとなくだが、感覚でわかる。
「……ふぅ」
胸元に手を置いて、すぅーっと息を吸う。
ゆっくりと、心臓がどくっと震えるのを感じまで息を吐いた。
これをすると、身体の体温が少し下がる感覚を抱く。
昔小さい時、お父さんから落ち着きたい時にするといいと教えてもらったのが役に立った気がする。
カレフが言っていたようにレム嬢に変わりつつあるから、ということなのだろうけど。
私は顎に手を当てて考えることにした。
どうしてレム嬢と私を、あの女神は会わせたんだろう。
それに、レム嬢が悪役令嬢物のストーリーで言うなら逆行している可能性があるのは明白だ。
「……どこかで、繋がっている気がする」
あのローブ女はなんなのか。それはまだ私がレム嬢になってからしかわからないことかもしれない。
でも、聞けるならレム嬢の口からどうだったのかも聞いておくべきだ。
しかし、一番に気にすべきなのはそこじゃない。
「追憶の回廊なんて……群アマにも出てこなかったのに」
ゲームの中で追憶の回廊は出てこなかったということは……?
「新作の方のゲームや小説出ていた可能性があるってこと……? それとも本当に未発表の作品からの設定、とか……?」
そっちの路線で考えるならカレフの登場がわかりやすい。
空吾は拗らせているオタクだが、自分のことだと自堕落な典型的なダメ男。
私がいないときっと外食でジャンクフードばかり食べていたから高血圧で脳卒中で孤独死で自宅に死亡していたこと間違いなし筆頭の旦那だ。
これをいうと、ちょっぴり空吾に悪いなと罪悪感に駆られるが今はそういう場合じゃない。
「……だとするなら、行かなくちゃ」
私の推測が正しければ、そうするべきだと判断した。
温室から出て、私はフィリーネの部屋へと向かった。
愛らしいデザインの彼女の部屋の扉を開ける。
「……スチル通りね」
フィリーネの部屋はとても乙女ゲームのヒロインによくあるピンク色を取り入れた可愛らしい部屋だ。
愛されている、ヒロインの部屋。
乙女ゲーの、自分が彼女となって感情移入するために用意された彼女の人生が詰まった部屋。
どうも、色花シリーズの中で一番に苦手意識を湧いた主人公はきっとフィリーネが初だ。
それは、まるであの子を思い出すからなのだと、自分の中でもわかっている。
『……お姉様、難しいです』
『勉強はそういうものだと思いなさい。淑女なら、その程度こなせずどうするの?』
ノイズが一瞬走ったと思うと、そこにはレム嬢とフィリーネがそこにいた。
レム嬢はどうやらフィリーネの部屋で勉強を教えているようだ。
『……うぅ、よく、わからないです』
『メリッサに紅茶を頼んでいるわ、一度休憩しましょう』
『! はい!』
フィリーネはパァっと明るくなるのを見て、フィリーネは机に置いている拳を強く握った。
鎮花はレム嬢が必死にフィリーネの前でも平然としようとしているのにまた泣きそうになる。
どうして、悪役令嬢とはこんなにも辛い目に合わなくちゃいけないんだろう。
ただの悪い子ばかりだけなら、私だって悪役令嬢物のラノベにハマることなんてなかった。
だからこそ、彼女の吐露しきらない感情を隠すように無表情でいるのは見ていて辛かった。
『お待たせしました、レークヴェイム様。フィリーネ様』
『ありがとう、メリッサ……ほら、フィーネ、紅茶よ』
『あ、ありがとうございます』
フィリーネは少し、不満そうな顔をして紅茶の水面を見る。
『……私、紅茶ってあまり飲んだこと、ないです』
『淑女なら嗜む程度には飲めるようになりなさい、そうしたらお父様に喜ばれるわよ』
『! わかりました! 頑張って飲みます!』
フィリーネがレム嬢に厳しいことを言われながらも、笑顔で紅茶を飲み始める。
『うぅ、甘くないです……っ』
『角砂糖を入れてないのだもの、当たり前でしょう……まったく、どれくらい甘い方がいいの?』
『えっと……リンゴくらい甘くなってほしいです!』
『…………はぁ、とりあえず適当に入れるわよ。文句を言ったら舌を引っこ抜くから』
『は、はい……! ご、ごめんなさい……』
レム嬢は落ち着いてフィリーネの紅茶に角砂糖を一つ一つ入れていく。
大体六個くらいか、そんなに入れたら子供も甘すぎるのではないかと思ったが、フィリーネは満足そうに笑う。
『おいしい?』
『はい! とっても!!』
『……フィーネは、エンデお母様が好き?』
『はい! 大好きです! お父様ととっても仲が良くて、いつもとっても楽しいんです!』
『……リリスフィアお母様は、嫌い?』
フィリーネはそこで口を噤んだ。
紅茶を持って、レム嬢から視線を逸らしながら小さく頷く。
『……嫌い、です。だって私と一緒にいる時、いつも怖い顔をするから』
『……そう、私は?』
レム嬢は落ち着いた様子で紅茶を飲む。
私は胸が苦しくなってきて、胸元を抑える。
『お姉様はリリスフィアお母様と一緒にいて、辛くないんですか?』
『どうして?』
『だ、だって……いつもリリスフィアお母様と話す時、辛そうな顔をしている気がして』
『……そう。でも、それはフィリーネの勘違いよ』
『……勘違い?』
レム嬢は優しくフィリーネの頭を撫でる。
しかしその目はどこか悲しそうで、フィリーネに無理をして彼女を宥めているように見えなかった。
『ええ、勘違い。きっと……きっとフィーネがリリスフィアお母様に嬉しいことをしてあげたら、きっとすぐ仲良くなれるわ』
『そう……なんでしょうか?』
『頑張ってみなさい』
『……わかりました! やってみます!』
『それじゃ、今日はもうおしまい。また明日、分からないところがあったら聞きに来て』
『はい!』
フィリーネが笑顔を浮かべると、レム嬢はフィリーネの頭を撫でるのをやめた。
そしてレム嬢は席から立ち上がり、玄関の方へと向かってフィリーネへと手を振った。
『ありがとうございましたー! レイクお姉様―!!』
『…………ええ』
レム嬢が扉の向こうに行くとフィリーネはしばらくの間ずっと手を振り続ける。
ようやくいなくなったのかを見計らって、彼女はぽつりと言葉を漏らす。
『どうしてお姉様は私が勉強を教えてもらう時、あんなに嫌そうな顔するんだろう。嫌なら、無理してこなくてもいいのに』
「……うっ!!」
私は心臓を潰されるとすら感じる痛みが胸に襲う。
私は立ってられなくて、その場で崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ」
『はぁあ、わからないや、とりあえず今日はお父様に勉強を教えてもらいに行こうかな。お姉様の説明、難しいんだもん』
「……っ!!」
私は玄関の方へと歩いていくフィリーネをじっと見つめる。
フィリーネが扉を開こうとする瞬間、私は手を伸ばすと視界が黒へと変わり意識が失せた。
ぴちゃん、と水音が響く水面の世界で目が覚める。
「……ここは?」
自分が出した声が、レム嬢ではなく私になっていることに気づいた。
ゲームを買いに行った時の服とまんま一緒で。
「目覚めたんですね、神様のお嫁さん」
ふと、目の前に一人の少女が立っていた。
私は彼女の顔を見るために顔を上げる。
「貴方、は……?」
「……どうして、貴方はお姉様になりたいんですか?」
見覚えがある、いや、覚えしかない。
その顔を旦那の嫁である私が、間違えるはずがない。
目の前に私と一緒に過ごした幼いフィリーネが可愛らしい人形を抱きしめて俯いている。
私は思わず、彼女の愛称を口にした。
「フィー、ネ」
「……違います、貴方が私を呼ぶ時はいつもフィリーネだったでしょう? シズカさん」
「それ、は」
まるでそれは一緒に冒険してきた友に送るような言葉で、彼女は言った。
フィリーネの言葉は事実だ。
私がゲームをプレイしている時、必ず彼女をそう呼称していた。
「愛称でなんて絶対呼ばなかった、私は覚えています。だって……貴方はいままでずっと私と一緒にこの物語のすべてを見てきたのだから」
「……貴方は、本当のフィーネじゃないんだね?」
フィリーネは静かに頷く。
「私は追憶の回廊で言うところの幻影です、だからこそ貴方に忠告をしに来ました」
「……忠告って、」
わずかに震えた声で、彼女は腕に抱いた人形をぎゅっと強く抱きしめる。
「貴方が私を通して私と彼らとの恋の物語を読み耽ったことを……お姉様に変わったらどんなに嫌でも、私をフィーネと呼ばないといけなくなってしまいますよ? 本当に、いいんですか」
フィリーネはじっと私の目を見つめた。
……今の彼女は、どうしてそのことを知ってるんだ?
追憶の回廊だからこそ、ってことなのかな。
確かに、ゲームをプレイして彼女と攻略キャラたちの恋愛を堪能していたのは事実だけど。
フィリーネよりレム嬢のほうに強い愛着があるのも事実。
彼女のあった今までの記憶を見てきて、みんなが嫌になってきている。
彼女の瞳の奥がどんな風になっているのか、私にはわからなかった。
でも、この機会を逃したら絶対にレム嬢を助けられない。
彼女に約束したのだ――――だから、私は。
「――――うん、大丈夫。だって今の私は、レークヴェイムを、レムを助けたいから」
「それは、本心ですか?」
「……うん、ごめんね。貴方の本当の幸福な物語を願ってあげれなくて」
「なら、覚悟してください――――お姉様が味わい続けた現実を、貴方は知ることになります」
水音が響く空間から雫の落ちる音は止まり、目の前に扉が現れる。
「さぁ――――進んでください。ここからは貴方が絶対に知らなくてはならない記憶だから」
「うん、ごめんね。でも、ありがとうフィリーネ――――私は、行くよ」
私は立ち上がり、扉の前に立つ。
ドアノブに手をかけて、眩しい光が私に襲ってくるのを感じた。
 




