その後の8
なんでこんなことになってるんだろう。どうしてなんだろう。
理子はひとりの人物の腕の中にいた。
相手の着ている服を通して体温を感じるくらいに密着し、言葉を発することができないままに
理子はその人物によって抱きしめられていた。
時間をさかのぼること1週間前。
理子はスーパーで買い物を済ませたあと、家に帰り夕飯の準備をしていた。
「翔くんはご飯いらないって言ってたけど、あの様子だと夜食に食べるのかもしれないから多めに作っておこうかな。」
桐生家には夕飯を家で食べる場合には事前に理子に伝えておくというルールがある。
それは仕事で忙しい悠里や、いつ家に帰ってくるか分からない朱里のことを考えて翔里が提案したことだったが実際には
いつ誰が帰ってきても暖かいご飯を出せるようにと理子は多めに作って保存しておく習慣があった。
すでに鍋にはいっぱいのカレーができあがり、弱火でコトコトと煮込まれている。理子はミモザサラダを作るために冷蔵庫から出した
レタスを流水で洗っていた。
「ただいま、理子。いい匂いですね、夕食はカレーですか?」
「あ、おかえりなさい、悠ちゃん。うん、いっぱい作ったから食べてね。」
理子は水を止めて手をふくと、悠里のもとへと行き持っていた仕事用の鞄を受け取る。
「お風呂にする?ご飯にする?」
何気ないいつもの一言だったが、悠里は微笑んだままからかうように理子に答える。
「まるで新婚夫婦のようですね。お帰りなさいのキスはしてくれないんですか?」
ネクタイをゆるめながら笑いかける悠里はどこか嬉しそうだ。
「・・・悠ちゃん、仕事で疲れてるんじゃないの?」
「家に入るまでは疲れてましたよ。そうですね、そしたら先に汗を流してきます。」
呆れたように問う理子に悠里は苦笑しながらも答えるとバスルームのほうへと足を向ける。
あ、と悠里が振り返るので理子はなんだろうと悠里を見た。
「なんだったら一緒に入りますか?」
その言葉に理子はじろり、と睨むと悠里は今度はくつくつと笑いながらバスルームへと消えていった。
風呂上りの悠里は部屋着に着替えており、リラックスした状態で理子とふたりきりの夕食を楽しんでいた。
最近までドイツ出張していた悠里にとっては自宅ですごす時間は貴重だった。仕事に関して不満はないが、あまりにも家に帰れる時間が限られてくると職場を変えたほうがいいのかと思うこともある。
悠里が医者になったのは、幼い頃に理子が自宅の裏の山の崖から落ちたことがきっかけだということは悠里以外知るものはいない。
幸い、悠里は現役で合格して、両親が亡くなっているという逆境をものともせずに大学病院勤務の医師として活躍している。
「そういえば間宮先生は元気?」
理子は悠里におかわりのカレーライスを渡しながら席に座る。
「なんであの男の名前が出てくるんですか。」
「あの男って。間宮先生は悠ちゃんの同僚なんでしょう?それにこの間の電話でも悠ちゃんの身体のこと心配していたし。」
どことなく不機嫌そうに問う悠里は呆れたような声で答える。
間宮先生、と親しげに呼ぶ理子は以前、悠里が入院したときに世話になった医師で、桐生家の顧問弁護士である間宮瞳子の息子でもある。
自宅は携帯電話を使用できない圏外なため、間宮はときおり仕事の関係で桐生家に電話をしてくることもあり、そのたびに少しだけだが会話を理子とすることもあった。
「ほかにも何か話したんですか?」
「んー?大学は楽しいかとか。食事しようとか。世間話かなあ。」
理子は自分の小皿にサラダを取り分けながら、この間あった電話の内容を思い出しながら答える。
「食事しようって何でそうなるんです。まさか承諾したんじゃないですよね。」
責めるような口ぶりに理子は思わずむっとしてしまう。
「皆で一緒にっていう意味でしょ。それに社交辞令みたいなものだし。」
「社交辞令でも、そうでなくても簡単に返事をするなと言っているんです。」
「おかしいよ、悠ちゃん。なんでそんなこと言うの?」
いつも優しい口調の悠里は幾分強い口調で理子に言うと、理子は困惑したような表情を浮かべた。
「理子が私たち兄弟以外の誰かと出掛けるということが嫌なだけです。理子は私たちの気持ちを知っているんですから。それに、」
と悠里が何か付け加えようとしたところで理子は持っていたフォークをバンッ、とテーブルに置いた。
「私は誰のものでもないよ!確かに悠ちゃんたちの気持ちだって知ってるけど、私はそんな風に言われたくない。」
ごちそうさまでした、と理子は一言だけ言うと悠里を見ることはせずに、そのまま自分の自室へと駆け上がった。
部屋に入り、鍵を閉めると理子はそのまま部屋に置かれたベッドへうつぶせになり、枕に顔を沈める。
どうしてあんな言い方するんだろう。悠ちゃんの考えてることがわからないよ。
悠里は両親が亡くなった後も桐生家の長男として一家を守ってきた。
理子に対する態度は他の兄弟に比べて女の子ということもあり、少し厳しい態度ではあったが
それでも理子はそれを不公平だと感じたことはなかった。
しかし、悠里のさっきの態度はまるで個人的思いから理子を束縛しようとしているとしか思えず
反抗と同時に困惑という気持ちが理子の頭の中で渦巻く。
そのままベッドに突っ伏していると部屋に置かれた電話の子機が鳴り出した。
しかし理子はそれを取る気にはならず、そのままにしているとすぐに電話は鳴り止んだ。
きっと悠里が取ったのだろうと理子は思い、再び顔を枕にうずめる。
少しすると部屋のドアがノックされ、悠里の気遣うよう声がした。
「・・・・理子、さっきはすみませんでした。私が言いたかったのは・・・。いえ・・・今はやめておきます。連絡があって急に病院に行かなくてはいけなくなりました。だから、その。・・・・行ってきます。」
悠里にしては歯切れの悪い物言いで、それだけ伝えると理子の反応も待たずに再び階段を下りていった。
自宅に帰ったあと、再び大学からの電話で悠里が呼び出されるのは珍しいことではない。だから夕食時でも悠里はいつでも出られるようにとアルコールを口にすることはないのだ。
理子は悠里が言おうとしたことを頭の中でぼんやりと考えようとするが、なんだか考えること事態が億劫で、もうそのまま寝てしまおうかと目を閉じる。
「理子、ちょっといいか?」
ドアの向こうから聞こえてきた翔里の声に理子は枕から顔をあげて、のろのろと上半身を起すと部屋のドアを開けた。
「翔くん、帰ってたの?」
「さっき帰ってきたばっかだ。それより悠兄となにかあったのか?」
翔里が自宅に戻る途中に悠里の姿を見かけたのだろう。いつもと違う雰囲気に翔里は家で何かあったのだと想像していた。
「・・・・何もないよ。それより翔くん、ご飯は?温めなおそうか?」
さっきの出来事を翔里に話す気にはならず、理子は話題を変えようと翔里に尋ねる。
翔里も明らかに悠里の間に何かあったのだと確信できるような理子の態度に何も言うことはせず、
代わりに持っていた袋を理子へと渡す。
「自分でやるからいい。あと、これ。昼間の参考書。」
「ありがと。翔くん、私もう寝ていい?」
理子はお礼を言いながら袋を受け取ると、翔里にこのままベッドにつくことを告げる。
「ああ。後片付けは俺がしとくから。あと留守電に陽子さんからメッセージがあった。折り返し連絡してくれだってさ。」
「陽子さんから?なんだろ、朱里に関してかな。」
「さあな。あんまり安請け合いするなよ。」
翔里にとっては何気ない一言だったのかもしれないが、今の理子にとっては先ほどの悠里の会話を思い出させるような言い方に思わず眉間に皺を寄せてしまう。
だが翔里はそんなことにも気づかずに理子の部屋を去っていった。