その後の7
翔里は理子から奪い取った参考書をすでにいくつか持っている本に積み重ねた。
「翔くん!驚いた。翔くんも参考書探し?」
「まあ、そんなとこ。これだけか?買うのは。」
その言葉に理子は翔里の手から再び参考書を取り上げようとするが、その前に翔里がひょい、と持っていた手をあげると理子の動きをなんなくかわす。
「翔くんっ。自分で買うから返して。」
怒ったように理子は手を差し出すが翔里は渡す気もないのか、そのまま動こうとはしない。
「さっき俺のこと無視したろ。」
「え?なんのこと?」
「エスカレーターですれ違ったのに知らない顔してた。」
絵本を買った直後のことだろうか、と理子は考える。
お気に入りの絵本作家の本を購入して袋を覗いてたりはしてたけど、翔くんとすれ違ったなんて気がつかなかった。それで怒ってるの?
翔里は少し不満そうな表情で理子を見ている。もともと翔里が使う駅にある書店ではないので理子と出会う確立もそうないのに、
一瞬のことで翔里に気づけというほうが無理である。
しかし、そんなことを言ったところで翔里の機嫌が良くなるとは思わない理子は大人しく翔里に答える。
「わざとじゃないの。本当に気がつかなかっただけ。ごめんね。」
「じゃあ、これは俺が買ってもいいよな?」
許す行為が理子の参考書を翔里が買うということなのかは分からないが、それで機嫌が直るならばと理子はうなずいてみせる。
翔里はそれに納得したのか、そのままレジへ向かうと翔里の本とともに会計を済ました。
「これは俺が家で渡すから。いいよな?」
「うん。ありがとう。」
参考書が入った袋を軽く持ち上げて見せる翔里に素直に理子はお礼を言う。
「翔くん、このあとは?大学に戻るの?」
今朝確か、翔里は理子に今晩は遅くなるから晩ご飯はいらないと言っていたので、それならば大学か空手の道場に行くのだろうかと確認をする。
「いや、このあと俺は、」
と翔里が言いかけたところでバタバタ、と一人の女の子が翔里のもとへと駆け寄ってきた。
「こんなところにいたのね、どこに行ったのかと思っちゃった。」
茶色い髪をカールし、流行の服に身を包む彼女は理子よりも背が高く、細い身体はモデルのようだ。翔里と対峙していた理子に素早く上から下まで目線を走らせると、少し怪訝そうな声で翔里に尋ねる。
「桐生くん、このひと知り合い?」
何も知らない人が見たら軽く翔里の腕をつかむ彼女と翔里はお似合いのふたりだと思うことだろう。
しかし当の本人の翔里はすっと理子へ向けていた表情を硬くすると、何気なく掴まれていた腕を払いのける。
「俺の大切なひと。」
その言葉に隣りにいた彼女は一瞬、眉間に皺をよせたのに理子は気づいた。理子は瞬時に理解すると、落ち着いた態度で彼女に自己紹介する。
「翔くんの姉の理子です。大学のお友達ですか?」
理子の言葉に今度は翔里が一瞬、眉根に皺をよせたが、逆に隣りにいた彼女は急に笑顔になる。
「お姉さんだったんですね。あ、私は香奈っていいます。桐生くんとは仕事仲間ってことになるのかな。ねえ、桐生くん。」
そう笑顔で言われるが、翔里はまあ、と一言だけ返事をした。
兄弟たちと一緒にいることで比較されてきた理子にとっては、こういう状況は幾度となく経験してきたことなので思わず『姉』として自己紹介してしまったが、翔里にとっては突き放された気分になったのかもしれないと理子は後ろめたさを感じる。
「あ、こっち、こっち!桐生くん、ここに居たよ。」
香奈は理子の後方に向かって声をあげると、それに気づいたように大学生らしき男女が数人、理子たちのもとへとやってきた。
「桐生くんのお姉さんだって。似てないよねー。」
香奈は皆に同意を求めるかのように理子を紹介すると、やってきた彼らも翔里と理子を見比べるように視線をめぐらす。
何度も経験したことがあるとはいえ、いつもこの瞬間が理子にとっては居心地が悪く、理子はこの場をあとにしようと翔里を見る。
「それじゃあ、私はこれで。翔くん、またね。」
そう言って別れようとするのを翔里の隣りにいた香奈が引きとめた。
「これから皆でお茶しようって話してたんですけど、お姉さんもよかったらどうですか?」
「いえ、私は、」
「それにお姉さんに桐生くんのことで相談したいこともあるし。ね、いいですよね?」
理子の言葉を遮るように香奈は強引に理子の背中を押しながら歩みを進める。理子は困ったように翔里を見上げると、さっきのことで怒っているのか視線を逸らされてしまった。
結局、理子たちは書店からさほど遠く離れていないレストラン併設のカフェへと入った。
合計7人と大人数だったため案内されたのはカフェの奥にある半個室のようなテーブル席で理子は一番端っこの席に
翔里と並んで座った。
翔里はその間何も話すことはなく、代わりに香奈が翔里たちとの関係を事細かに理子へと説明する。
「だから今度の企画で私たちがイベント紹介するってなったんですけど、相手役がいたほうがいいって思って。桐生くんだったら絶対に間違いないし、ねえ?」
香奈はそういうと自分の隣りに座っていた女の子に同意を求めながら、視線を目の前に座っている翔里へと移す。
しかし翔里は何も言わずに黙ったままだ。
「翔くん、イベント企画してるって言ってたけど仕事までしてるんだ。知らなかった。」
「仕事っていってもコネみたいなもんだし。それに俺はリサーチ専門だから。」
場の雰囲気を壊さないようにと理子は尋ねると翔里はメニューに視線を落としたまま答える。
香奈の話しを要約すると、翔里と一緒にいる男子学生はどうやらイベント企画を立ち上げた仲間で、香奈ともうひとりの女の子は今度のイベントの仕事でキャンペーンガールとして働くモデルらしい。そして香奈は翔里に表舞台に一緒に立つべきだと説得しているが、翔里はまったく聞く耳もたないので困っていると愚痴る。
「香奈ちゃん、だめだよ。翔里はそういう派手なこと嫌うんだからさ。」
「でもあの朱里の弟なんだから、それを売りにしていけば企画だって上手くいくんじゃない?」
翔里の仲間のひとりがなだめるように香奈に言うが、香奈は納得がいかないと朱里の名前を口にする。
そしてそれは最も翔里が嫌う方法だということに香奈自身は気づいていない。
理子はそっと翔里の横顔を伺うように見ると、翔里の視線がより冷たいものへと変化しているのに理子だけは気づいた。
これが悠里や朱里だったら、いくら相手が失礼なことを言おうが表面上は穏やかさを絶やさず、そのまま平穏に事をはこんでいくことが出来るが翔里は違う。
感情的になりやすい翔里は、そのままストレートに物事をぶつけることも多々あるのを理子は知っていた。
このままだと仕事仲間である彼らとの間に何か歪みができちゃうかも。一緒に仕事をしていくんだから、それはまずいよね。
理子はそう考えると翔里を落ち着かせようと左手でテーブルの下にあった翔里の右手をぎゅっと掴む。
一瞬、翔里の手が驚いたように動いたがそれも一瞬のことで理子の手を握り返してきた。
「お姉さんからも何か言ってくださいよ。桐生くんだったらいい宣伝になるんだし。」
翔里の仲間たちは香奈の強引さに、翔里がどのような反応を示すのかと不安そうな表情で見守っている。
確かに翔里が出れば知名度は上がるだろうが、それでは彼らが企画したイベントの意味は失ってしまうことに気づいている彼らは香奈の強引さに辟易しているようだ。
「いい宣伝って何なのかな?芸能人の弟がイベントに参加することなの?そんなの一時のことだけじゃないのかな。せっかくリサーチまでしてるのに。それとも自分たちだけじゃ自信ない?」
理子のはっきりとした言葉にその場は静まり返る。香奈は思っていた以外のきつい言葉をかけられ、わなわなと震えている。
「なんてね。素人が口だしすぎだね。それじゃあ私は帰ることにします。じゃあ、皆さん。」
理子は笑顔でそう付け加えると握っていた翔里の手を離し、席をたった。
出口をでたところで、走ってきた翔里に呼び止められ、理子は申し訳なさそうな顔を浮かべる。
「場の雰囲気壊しちゃった。ごめん、翔くん。」
「・・・・いや、謝るのは俺だ。ごめん、俺が感情をコントロールできないから。」
カフェの入り口に立っていたふたりはそのまま端にある植木のところまで移動する。
「いつもそうだ。悠兄や朱里はあんなの気にしないで流せるのに、俺だけ感情的になる。」
「そんなのは欠点じゃないよ。ふたりは二人のやり方があるだけ。翔くんは翔くんでしょう?」
理子は気にしていないと翔里を見上げる。
「理子があの女に言ってくれて嬉しかった。俺だったらこの仕事ぶち壊してたかもしれない。」
「まあ私もちょっと怒ってたし。ね?」
そうおどけたように見上げている理子を翔里は引き寄せると、ぎゅっと抱きしめる。
「こんな場所だからキスできないのが残念。」
そう耳元で囁かれて、理子は思わず、ぼんっと両手で翔里の胸を叩き翔里から離れた。その頬は朱に染まっている。
「今日は遅くならないように帰るから。じゃあな。」
そういうと笑顔で翔里は店内へと戻っていく。
その後姿には先ほどまでのピリピリとした緊張感はもう感じられなかった。