その後の24
『私は、この家を出て行きます。』
いわれた言葉の意味はわかる。けれど頭が、いや、感情がその意味を捉えることができずに理子はゆっくりともう一度質問を重ねる。
「家を出て行くって、それは私のせいなのね・・・?」
「・・・ドイツに出張に行った際に、向こうの病院で働いてみないかと誘いを受けたんです。もとから興味のある施設の整った病院でしたし。翔里も無事に大学に入学した今、私がこの家にいる必要性もそうないですし。」
理子の質問には答えず、代わりに前から考えていたような説明が淀みなく悠里の口から出てくるのを理子は黙って聞いている。
「今すぐというわけではありません。引継ぎもありますし。院長にも話してはいるんですが、なかなか承諾してくれなくて。独身なのが理由なのかと、それで姪御さんを紹介されたくらいなんです。」
以前から、何度も院長の奥方から悠里にお見合いの話は何度も寄せられていたのは事実だ。けれど当の本人が全く興味を示さなかったために、院長もそれ以上は言えなかったのだが、突然に悠里がしばらくドイツに研究生としていきたい旨を告げると、引き止めるための強硬手段なのか、院長室に呼び出されると突然に院長の姪を紹介されたのだ。
それでも普段の悠里だったら、やんわりと本人を目の前にしても断っていただろう。けれどそうしなかったのは頭の中に残る理子の言葉で。気がつけば悠里は病院近くのレストランで彼女と一緒に食事をとることになっていたのだ。
悠里はすでに心の中で決めているのだろう。はっきりとした口調は、理子に口を挟む隙を与えるまでもなく、悠里はふたたびパソコン画面に視線を戻す。
拒絶したような悠里の態度に理子は何も言うことができずに、そのまま悠里の部屋をあとにした。
自分の部屋へと戻る途中にリビングを通ると、そこには自部屋に戻っているはずの翔里が理子を待っていたかのように腕組をしながら壁にもたれて立っていた。
「翔くん・・・。」
「その顔じゃ、俺同様に相手にされなかったみたいだな。」
そう言って壁から身を起すと、そのまま理子のもとへと歩いてくる。
「悠ちゃん、この家を出て行くって。ドイツの病院から誘いを受けてるって言ってた。翔くん、知ってた?」
「悠兄が俺になんか言うはずないだろ。顔だってそう最近合わせてたわけじゃないんだから。」
翔里も悠里同様に忙しいのだろう、自宅にいたとしても顔を合わせてゆっくり話す時間などないのかもしれない。
「でも翔くんは悠ちゃんが女の人と食事に行ったって知ってたよね。」
「たまたま用事があって近くを通ったら見かけただけだ。俺も驚いたけどな、悠兄が仕事でもないのに二人っきりで食事だなんて。」
両手をカーゴパンツのポケットに入れたまま、翔里はそのときの様子を思い出しているようだ。
「悠ちゃん、本当に行っちゃうのかな。」
ぽつりと理子は呟くように翔里を見上げて尋ねる。誰よりも桐生の家のことを考えて、すべての管理をしてきた悠里がこの家を出て行くだなんて想像もつかない。
「さあな。悠兄が決めることだから俺には関係ないな。悠兄はドイツ語も問題ないみたいだし、いいんじゃないか。」
「いいんじゃないかって。翔くんはそれでも構わないの?」
あまりにもあっさりとした翔里の言いように理子は見上げた視線をきつくする。翔里はその視線をまっすぐに受け止め、そして逆にまっすぐ見下ろしながら理子へと尋ねる。
「理子はどうなんだよ。さっきから俺の意見ばっかりで理子はどうなんだ。どうしたいんだよ。」
翔里の言葉に理子は何を言ったらいいのかと、視線を気まずそうに逸らす。翔里はそんな理子を見て、短くため息をつくと再び口を開いた。
「悠兄が何を思って、そういう考えに至ったのかなんて俺にはわからない。でも、理子が関係してるのは間違いないだろ。」
「映画祭行く前に、少し喧嘩しちゃって・・・。でもそれが原因ならちゃんと謝るし、」
「違う、理子が優しすぎるんだ。だから悠兄は自分から距離を置こうとしてる。」
理子が思いつく原因を述べている途中で、翔里はそれを否定する。翔里も、さきほど悠里が言ったように理子の『優しさ』を理由にあげるが、理子には理解できない。
「どういうことなの?」
「それは自分で考えろ。そうじゃなきゃ、いつまでも前には進めない。」
翔里はきっぱりとそれだけ言うと、いまだ不可解な表情をしている理子を通り過ぎると自分の部屋へと戻っていった。残された理子は立ちすくんだまま、暫くその場から動けなかった。
翌日。
翔里に言われた言葉を何度も繰り返しているうちに結局朝になってしまい、理子は早朝からベッドを抜け出すと朝食の支度を済ませ、気分転換のために裏山へと散歩に出掛けた。
昨晩遅くに雨が降ったためか、所々にぬかるんではいるものの朝露を含んだ木々は清々しい空気を放っていた。
理子はゆっくりとした歩調で歩きなれた道を進んでいく。気がつけば着いた先には、小さい頃によく遊んでいた栗の木の下までやってきていた。栗の木の下には小さな穴があり、子供の頃には中にはいって遊んだりもしていたが、大人になった今では理子でさえも入ることは出来ないくらい小さな穴だ。
「もう入れなくなっちゃったんだ。」
そう一人呟くと代わりに乾いていた木の根へと腰を下ろす。ひんやりとはしたが、今の気分にはちょうどいいくらいで理子はそのまま太い幹に背を預け、上を見上げる。
樹齢何年かはわからないが、立派に育った木の枝からいくつもの緑色をした栗の実がたわわに実っていた。
秋には毎年のように大量に栗が木の回りに落ち、それを目当てに鳥やリスたちもやってくるのだろう。子供の頃はこの食用でない栗の実を大量に朱里と家に持ち帰っては、母親に調理してほしいと駄々をこねていたのを理子も覚えている。
全ては懐かしい思い出。
入れなくなってしまった小さな穴も、森で遊んでは体中にかすり傷を作っていたことも、家に帰れば皆そろっていたことも。全ては過去の戻りはしない時間の思い出だ。
「懐かしいなあ。」
3歳以前のはっきりとした記憶は理子にはない。それは桐生家に引き取られる以前のことであり、デンマークにいた頃の話だ。実の両親のはっきりとした記憶もなければ、虐待されていたということすらも覚えてはいない。
けれど理子は3歳以前の記憶など、ほとんどの人間が覚えていないのだからと大して気にもとめなかった。
日本のこの場所が理子の現在の生きる場所なのだ。
理子はじっと頭上にある栗の実を見上げる。この栗の木の実が落ちる頃には悠里もドイツへと飛び立っているのかもしれない。そしてそれは遠くない『今』になるのだろう。
私はどうしたいの?自分のそばに居てほしいだけの我侭で悠ちゃんを引き止めるの?
悠里が見合いらしきものをしたということもショックだった。でも、それを口に出すには自分の立場はずるいような気がしていた。結婚の約束をしているわけでもなく、かといって普通の恋人同士のように一対一の関係でもない。
自分のもとにずっといてほしい、だなんて言えはしない。
言ったら、きっと悠里は困った笑顔を浮かべても側にいてくれるのかもしれない。けれど、それは理子が望む悠里の将来ではない。多くの人に必要とされ、すばらしい才能を持った悠里を理子の我侭だけで引き止めるわけにはいかないのだ。
理子はぎゅっと目をつむる。そうして自分の感情を抑えるかのように。