その後の23
理子はその晩のうちに自宅へと戻ってきていた。
本当ならば翌日の朝にホテルを出発する予定だったのだが、新城のこともあり、朱里が監督に頼んで一緒に東京まで
車に乗せてもらったのだ。
車中ではキムよりも監督のほうが理子と喋り、最後も結局、身体が折れるかと思うくらいの別れの抱擁を受けた。
朱里とはまた一緒に仕事をすると約束はしたらしいが、関係のない理子はきっと監督と会うのもこれが最後なのだろう、と少し淋しい気持ちを理子は感じていた。
友達のような、弟のようなキムと少しの間だけだが過ごした非日常的な時間は、理子は一生忘れることのない出会いなのだと
理子は思う。
『また日本に来ることがあったら連絡してね。今度こそ美味しい和菓子を食べさせてあげるから。』
『・・・フランス・・・来たらケーキ屋に連れてくから。』
『うん、楽しみにしてる。・・・じゃあ、またね。』
監督のスケジュールはあと数年先まで埋まっていると聞いた。それにまだ未成年であるキムがひとりで日本に来ることなどはないだろう。そして理子がキムを尋ねて行くことも。
お互いの中ですでにわかっている事実。けれど、将来への希望を残してふたりは約束を交わし、別れの抱擁を交わした。
そうして交わした最後の別れを理子は心に留めながら家路に着いたのだった。
家を出ていた時間はそう長いことではなかったのに、どこか懐かしく感じながらも玄関を開けた。
玄関には綺麗に並べられた悠里の靴と、無造作に置かれた翔里のスニーカーがあるのを目にして理子は少し緊張する。
映画祭に参加する前から二人との関係は微妙なままだった。それは一方的に理子が彼らとの間に一拍の間を置いていたこともあり
ホテルに滞在している間は電話もメールも一切こなかったし、しなかった。
けれど同じ屋根の下で暮らす二人なのだから、いずれかは会わなければいけないと、理子はひとつ深呼吸をしてからふたりがいるであろうリビングへと向かった。
しかし、そこにふたりの姿はなく、理子は少し考えてから悠里の部屋へと歩いていく。部屋へと近付いていくと中からふたりと思われる
話し声が開けられたドアの隙間から聞こえてきた。
「だから翔里には関係のない話です。」
「関係のないって、理子のことはどうするんだよ。このままその女と結婚するっていうのか?」
結婚?悠ちゃんが?
思わぬ二人の会話に理子は思わず足を止めてしまう。二人は理子の存在に気づくこともなく、そのまま会話を続けている。
「まだ結婚すると決めたわけではありませんよ。一度会っただけですし。」
「そうはいっても相手は悠兄のこと気に入ってるんだろ?それに院長の姪だっていうのなら断りにくいんじゃないのかよ。」
「それこそ翔里には関係のないことです。」
詰め寄る翔里の言葉に悠里は淡々と答えている。その言葉に翔里はこれ以上会話しても意味のないものだと判断したのか
そのまま悠里の部屋を出て行こうとする。
「理子・・・。今、帰ったのか?」
「うん・・・。ただいま。」
扉を開けたところで翔里は理子の存在に気づき、驚いた顔をした。今の会話を聞かなかったことにしたほうが良いのだろうかと理子は
思ったが、そのまま遠慮がちに口をひらく。
「今の、悠ちゃんが結婚するって。」
「ああ・・・聞いてたのか。そうみたいだな、俺には関係のないことらしいから相手にはされないど。・・・俺は部屋に戻ってるから。」
悠里に聞こえるように嫌味をこめて言うと、翔里はそのまま自分の部屋へと戻っていった。
理子はその後姿を見送ると、開いていたドアの間から悠里の部屋へと入る。
「悠ちゃん、ただいま。」
「おかえりなさい。映画祭、楽しかったですか?」
「うん。色々とあったけど、行ってよかった。」
「そうですか。それはよかったですね。」
仕事中だったのか、悠里は書斎机の上に置かれたパソコンのキーボードに手を置いたまま、上半身だけ理子に向けている。翔里との会話を聞かれていたと知っているはずなのに、悠里は気にする素振りをみせることもなく、いつもどおりに理子に話しかけていた。
「悠ちゃん、さっきの話、お見合いしたの・・・?」
翔里の話から察するに、悠里は病院長の姪と会ったのだということは理子にもわかる。以前にも、悠里は院長から見合い話を何度か持ちかけられて断るのに苦労しているようだと、悠里の同僚でもある間宮医師から聞いていたことを理子は思い出したのだ。
「そんな大げさなものではありませんよ。ただ院長の紹介で、院長の奥様の姪御さんと二人で食事をしただけです。」
それを世間一般ではお見合いというのだろうが、目の前の悠里はなんてことのないように答える。
「珍しいね、悠ちゃんが女の人と食事に行くだなんて。」
理子が記憶する限り、悠里は仕事の話でもなければ女性と二人っきりで食事になどは行っていなかったように思う。
「院長に話があると言われて行ったら、彼女がいたんです。無理に断るわけにも行かないでしょう。」
そうだけど、と理子は思う。どことなく冷めた感じの悠里との会話に理子は違和感を覚えるも、はっきりとした確信があるわけでもなく
理子は仕事の途中だったのだろうと部屋をあとにしようとする。
「それじゃあ、私は部屋に戻るね。仕事の邪魔してごめんなさい。」
「・・・・理子は言ってくれないんですね。」
「え?」
声をかけてから部屋を出て行こうとドアノブに手をかけると、悠里が独り言のように呟くのを理子は振り返って不思議そうに見つめる。
「私がほかの女性と結婚することになっても、理子は気にかける様子も見せてはくれないんですね。」
先ほどまで理子のほうを向いていた悠里はすでにパソコンに向き直っており、その表情をうかがい知ることは出来ない。
けれど悠里の言葉に理子は普通でないものを感じ、そのまま悠里の側へと歩み寄る。
「悠ちゃん・・・?どうかしたの?」
「自分は誰のものでもない、そう理子が言ったのを覚えてますか?」
そう唐突に言われて、理子は一瞬の間をおくものの、それが映画祭前に最後に悠里と会話したときのことだと思い出すと、理子はうなずいてみせる。
悠里の理子を束縛しようとした言葉に思わず、感情のままに悠里に怒鳴り、それが気まずい溝を二人の間に残したのだ。
「あの時思ったんです。相思相愛なはずなのに何故、こんなに苦しいのかと。」
「悠ちゃん・・・?」
パソコンの画面をじっと見つめている悠里の考えていることがわからず、理子はその横顔を見つめる。
「私は理子に受け入れられて本当に嬉しかったんです。朱里と翔里と一緒でも私は、嬉しかった。けれど思いはどんどん増していくばかりで、辛いんです。」
「私が言ったのは私自身のことは自分で決めたいっていう意味で、悠ちゃんに干渉されたくないっていう意味じゃないんだよ?」
あの時、悠里に対して怒りはしたが、冷静に考えれば理子にももう少し落ち着いた言動ができたはずだと理子は今更ながら思う。だから悠里がそのことで悩んでいるのならば、誤解なのだと伝えたいのだ。
「ええ、わかってます。理子は優しいですから。」
違う、そういうことじゃない。
そう理子は思うも、何をどうやって伝えたらいいのかと深呼吸する。目の前の悠里は冷静に、だけれど普通でない様子に理子は気持ちが知らずと焦る。
「でも私はその優しさを利用しようとする狡さがある。今の状態では足りないと、理子をがんじがらめにしようとしているんです。」
「悠ちゃんはそんなことしないよ。それは私がよく知ってる。」
そんなことがあるはずはない、と理子は言葉にする。けれどそれは悠里には伝わらなかった。
「いえ、私のことは私が一番よくわかっています。それにもう限界なのだということも。」
「限界・・・?」
すっと理子に悠里は視線を向ける。そのまっすぐな視線に理子は思わず息をのむ。
「私は、この家を出て行きます。」
悠里のはっきりとした言葉を理子はどこかぼんやりとした頭で聞いていた。