その後の裏事情(雅人視点)
彼女を仕事先のホテルで見かけた。
その時の俺は生まれて初めて偶然という幸運に感謝し、そして呪った。
俺の親父が総帥としている藤堂グループにはいくつもの事業から成り立っており、その頃の俺はそのひとつであるエンターテイメント系列の仕事を任されていた。地方で開かれる映画祭に出品される数本の映画に会社が出資していることもあり、その関係上で俺は映画祭から招待を受けていた。
正直、映画祭自体には興味がなく、俺は参加せずに業務内容の確認とこれからの方針を関係者とだけ話すと
俺はそのホテルをあとにしようとロビーを通り過ぎようとした。
最初は目の錯覚かと思った。
けれど見覚えのある背格好に俺は自分でも気がつかないうちに足を止めていた。
あと数メートル先にいる彼女は俺に気づいている様子はない。もしかしたら全く違う人物なのかもしれない。彼女だとしても、
プロポーズを断られた以上彼女に会わないほうがお互いの為なのだろうということもわかっていた。
しかし彼女が何かを不安に思うように身体が震えたのを見て、俺はそのまま足を彼女へ向ける決心をした。
いつかのように俺が背後に立っても彼女は全く俺に気づく様子はない。普段、会社でも世間でも俺の存在感はあるほうだと思っていたが、彼女に関してはそれも意味のないものらしいと少しおかしくなる。
「驚いたな。こんなところで何やってるんだ。」
そう声をかけると、びくりとした後に彼女が背後を振り返る。
ああ。彼女だった。
時間にすればたった数ヶ月程度なのに、ずいぶんと久しぶりなような気がした。懐かしさを覚えたのは以前と全くかわらない彼女の様子のせいだけではないのだろう。
だけれど彼女の顔色が悪いのにすぐに気がついた。
それは身体というよりも内面の、精神面からくるような様子に俺は苦いものが心の中に広がるのを感じた。
気にして尋ねてみても彼女は質問に答えることなく、代わりに映画祭関係者としていることを答えた。気にさせまいと笑顔を作っているあたり、彼女の性格が以前とまったく変わっていないことを俺に確信させる。
このまま彼女を放っておくことができないのは俺の未練なのか、彼女への心配なのか、俺は話をしようと外へと誘うが、意外にも彼女の部屋でいいのかと尋ねてきた。
そして気になる彼女の言う事情。それがきっと今の彼女の表情の原因なのだろう。
俺はそのまま彼女のあとへと続きエレベーターに乗り込む。偶然にも彼女と一緒に乗り合わせたエレベーター内に先ほど仕事で話した
関係者が俺たちに気づき、驚いた顔をしている。
俺が以前に彼女と婚約していたことはマスコミを利用し発表させたために多く知られるようになった。面と向かって俺に尋ねてくる者はいなかったが、婚約破棄の理由を聞きたがっていることは分かってはいた。
そんな俺が元婚約者である彼女とホテルの部屋へ上るエレベーターに乗っていれば驚くのも当然だろう。
しかし俺はその人物を目線で黙らせると、何事もなかったように彼女の泊まる部屋の階でエレベーターを降りた。
彼女は俺を何の抵抗もないように部屋へと招き入れる。自宅へと誘われたときもそうだったが、異性と二人っきりだろうが疑うこともなく
部屋に入れる素直さは彼女の取り柄でもあり、欠点でもあることに彼女は気づいてはいないのだろう。
「雅人さんはコーヒーでいいんですよね?」
まるで俺の好みを知っているような口ぶりに何故だか妙な満足感を覚えるのは、きっと俺がまだ彼女を過去として認めていない
のかもしれない。
彼女は受話器をとって、ルームサービスにコーヒーを二つ頼むと窓側に置いてある椅子にテーブルを挟んで向かい合って座る。
「自宅で会って以来だな。兄弟たちは元気か?」
「・・・雅人さんらしい質問ですね。」
そう尋ねると少しの沈黙のあとに呆れたような口調で答えた。遠慮がちというよりも、まるでそれが俺自身なのだと認識されているような言葉に、柄にもなく嬉しい気分になる俺も相当子供なのかもしれない。
しばらく話をしている内に、さきほど見かけた時よりも彼女の様子は大分ましになったが、それでも先程の青ざめた様子は俺の中で
引っかかる。
俺は言葉を濁すことなく自分の近況と、そして再び彼女に様子を尋ねる。
「・・・雅人さんは自分のせいで人に迷惑をかけてしまったとき、どうしますか。」
返ってきたのは彼女らしい言葉。心理学でかなり優秀な成績を取っていた彼女でも、今の質問の仕方は自分のことだと指し示しているのに気づいてはいないのか。
それをそのまま指摘すると彼女は秘密がばれた子供が素直に謝るかのようにうなずいてみせる。
それを見て、何故に先ほど彼女の暗い表情を見たときに、自分の中に苦いものが胸の中に広がるのかわかった。
俺は嫉妬しているのだ。彼女の兄弟たちに。彼女の心をこれだけ繋ぎ止めておける彼らに。
しかし、それは同時に口に出してはいけないことだともわかる。俺の思いは彼女に対して枷にしかならない。それに俺には彼女以外に
守らなければならないことがある。
それを自分に言い聞かせるように彼女の瞳を見て言葉を続けた。
「兄弟たちは何よりもお前を優先するだろう。自分の命よりも引き換えにだって惜しいとは思わないんじゃないか。」
二者択一を迫られたら俺は彼女だと即答する自信と度胸がない。それは俺の歩んできた藤堂グループを担うものとしての運命だと思うし、同時にあの兄弟たちに適わない俺の思いだ。
あの兄弟たちは本気で彼女を愛している。それに伴う周囲からの目など気にはしないのだろ。
それなのに何故、今目の前の彼女は彼らのことでこうも悩んでいるのだろうか。何よりも彼女を優先に考える彼らが何故、彼女にこんな表情をさせている。
だけれどここで俺がそれを言うわけにはいかない。俺が出来るのは彼女の背中を前に押してあげるくらいだろう。
そして、そこに希望をこめて。
俺の答えに彼女は少し頬をゆるめて笑う。その儚げな笑顔が懐かしくて、同時に切ない。
するとルームサービスだろう、ドアがノックされる。俺は彼女を座らせたまま、入り口に向かうとそのまま確認をせずに扉を開けた。
「・・・なんであんたがいるんだ。」
開けた瞬間に俺の目の前にいた男の表情が怪訝なものへと変化する。それは俺だって同じだ。
そのまま言葉を返すと目の前の男、彼女の2番目の兄である桐生朱里が俺を睨んでいた。