その後の20
化粧室へ入ると誰もいないことに理子はほっとしながらも、ふと洗面台にある鏡に視線を向けた。
朱里に対しての戸惑いや、なれない場所での緊張感、そして先ほどの朱里とMaminoの二人でいるときの姿。
それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って複雑な感情を理子へともたらす。泣けば楽になるのかもしれないが、小さい頃から自分を押さえ込んできた理子にとってはこんな場所で泣くわけにはいかないと、洗面台についていた手にぐっと力をこめて自分の感情を押さえ込む。
深く息を吸い込み、吐く。それを何度か繰り返し、理子は気分を落ち着かせた。しかしまだ胸の奥に残る嫌なしこりのようなものは取れることはなく軽いため息が口をついて出る。
本会場に戻って、ふたたび朱里の近くに座るのは躊躇われたが、理子の仕事がキムの通訳な以上、気は重くても彼の隣にいなくては
ならないだろう。
理子は鏡に映った自分を軽く睨むようにして気合をいれると化粧室をあとにし、本会場へと足を向けた。
ステージ上ではスポンサー紹介を男女の着飾った司会者がしていることもあり、会場内は照明の明かりがさきほどよりも落とされている。理子は自分が座っていたテーブルへと足を進めるが、そのテーブル周辺があわただしく人が取り囲んでいるのをみて思わず歩みを止める。
どうしたのかな。あそこって朱里たちが座っているテーブルだよね?
確かめるように理子はゆっくりと近付いてく。何人かの人がテーブルを取り囲むようにしているため、よくは見えないが人の隙間から見える光景に理子は驚きに目をひらく。
メインキャストが座るテーブルにキムがいた。父親である監督が座っているので、キムがそこにいようと不思議ではないのだが、目にした光景は普通ではなかった。キムは椅子に座る朱里のシャツの首もとを乱暴に掴み上げるのを監督や周りにいる人間が止めようとしている。
一般客から離れているとはいえ、その普通でない雰囲気に周りがそのテーブルに注目している。
理子もあわてて、そこに走り寄ると屈強そうなガードマンの後ろからキムに向かって叫んだ。
『キム!何やってるの!?』
その声にキムが一瞬、動きを止める。その隙をついてガードマンがキムを朱里から引き離すと乱暴にその身体の自由を奪った。それでもキムは目の前にいる朱里を睨み続けており、監督は一体どうしたのかと困惑していた。朱里はといえば、一瞬だけ理子に視線を移すも、すぐに睨み続けているキムの視線を冷たく見返している。
騒然としだした周囲の反応を気にしてかガードマンはトランシーバーで誰かの指示を仰ぐと二人がかりでキムを別の場所へ移動させようと理子を見る。
「彼の言葉がわかるようですから、一緒に来ていただけますか。興奮しているようなので別の場所に移動してもらいます。」
「は、はい。」
理子がキムに話しかけたのを気づいていたのだろう、これ以上周囲の注目は避けるようにキムを連れ出した。
移動された場所は小さい部屋がいくつか並んでいる控え室のような場所で、理子のほかにも父親である監督、そしてその場にはいたくなかったのか朱里もついてきていた。
ガードマンは当事者の問題とばかりに、何かあったら外にいますからとだけ言って出て行ってしまった。
『いったいどうしたんだっ!なんで朱里に掴みかかるんだ!?』
最初に口をひらいたのは監督だった。朱里が席につき、話をしはじめたら戻ってきたキムがいきなり何も言わずに朱里の胸倉をつかんだのだ。ふたりに接点などないはずなのに、自分の息子の考えていることがわからなかった。
しかしキムは何を言うこともなく壁を背にうつむいたままだ。ガードマンに乱暴に掴まれたのか理子が結んであげたネクタイも乱れてしまっていた。何も言おうとしないキムに監督はキムへと近寄り、さきほどキムが朱里を掴んでいたようにぐいっと胸倉を掴み顔をあげさせる。
別れた妻のもとで暮らしている息子が、日本に一緒に来たいと言ってくれたときは嬉しかった。忙しさの為に妻とは別れてしまったが、今でも友人として仲良くしている。息子は妻に似ていて出会うたびにいつか自分の作品に出てほしいと密かに思っていた。
だから日本に来たいと言った時、映画祭のオープニングに出ることを条件に一緒に来日した。
子供の頃から家族以外の他人に興味を持つこともなく無口な性格だったが、理子に思った以上になついているようで父親として嬉しかったのだ。それなのに。何故急に。
知らずにぎゅっと掴んだ手に力が入ったのか、キムが苦しそうな表情をするが何も言おうとはしない。それを理子がとめようと手を伸ばしかけたところで、すっと朱里の手が監督の手をつかんで離した。
離されたキムは反動で壁にぶつかる。しかし、それでも何も言いはしなかった。
『キムも監督の前では言いにくいのかもしれません。僕は大丈夫ですから、先に会場に戻っていてください。理子が通訳としていますから、大丈夫です。』
『・・・わかった。息子のしたことをなんと詫びればいいのか。』
『理由があるんだと思います。ですから、今は僕たちだけにしてください。』
朱里の冷静さに監督は自分も頭を冷やそうと思ったのか、理子によろしく頼むとだけ言うと部屋をあとにした。
部屋に沈黙が訪れる。朱里とキムの接点などほとんどないはずだ。会話だって言葉の問題もあってほとんどしたことのないように思う。
『キム、一体何があったの?』
うつむくキムを覗き込むようにして理子は尋ねるとキムはすっと顔をあげる。しかし視線はまっすぐに朱里を見ていた。
「オマエ、ワルイ。」
たどたどしいが日本語ではっきりと伝えるキムに理子は驚いたようにキムを見つめる。そういえば監督がキムは日本に興味があって
勉強していると言っていたのを思い出した。
「やっぱりね。日本語、理解できてると思ったよ。」
まっすぐに視線をうけた朱里は驚く様子もなく、あっさりとそう口にする。彼にしてみれば、人の表情など演技かそうでなかくらい読み取るのは簡単なのかもしれない。
「それにしてもなんで僕が悪いのかな。何か君にした?」
『なんで理子を苦しめる。お前、理子の恋人なんだろう。』
理解はできても喋ることは難しいらしく、あっさりとデンマーク語に切り替えると朱里を睨んでいる。そしてそのまま側にいた理子の手首を掴むと、そのまま朱里へと見せ付ける。
うっすらと紫色の痣が理子の手首についていた。朱里はそれが自分でつけたものだとわかると眉を寄せたが、うつむいてしまった理子はその表情に気づいてはいない。
『理子が悩んでるのに、なんでこんなことするんだ。さっきだって、あの女に嫌味言われてたのに、お前はただ理子を見てるだけだった。』
年齢差も身長差も気にすることなくキムはまっすぐ朱里を見る。無口なキムはそこにはいない。
はっきりと自分の意思をまっすぐに朱里にぶつけていた。
「残念だけど僕には何を君が言っているかわからないな。それに君には関係のない問題だろ。」
その視線をはぐらかすように朱里はそう口にする。それに理子の問題で雅人のみならず、キムまで絡んでくるのがうざかった。
何故、誰も彼もが理子を気にかけるんだ。僕だけでいいのに。世界中で僕だけで充分なのに。
ホテルでの部屋以来、理子はけして朱里の目を見ようとはしなかった。それなのに気になって理子の後を追うように別会場へ向かうと理子がキムに対して微笑んでいるのを目のあたりにしたのだ。
それが今までになく朱里をイラつかせていた。