その後の18
それでも理子はこのまま流されるわけにはいかなかった。
朱里が思うままの行動を成し遂げれば、理子が傷つくのは当然だろう。だけれどそれは朱里も一緒だ。
あとで必ず朱里は理子にした行為のことを悔やんで後悔するだろう。
そしてそれは兄弟であり、同じひとりの女性を思う悠里と翔里たちとの間にも影響を及ぼす。
それだけは起こってはならないことだった。
3人の手をとった瞬間から理子は3人を同時に同じだけ愛そうと決めた。それはけして簡単なことではない。けれど3人が誰も選ばなくてもいいから、それでも側にいてほしいといわれた時点で理子はこの均整を崩してはいけないと自分に誓ったのだ。
朱里はスリットの間にいれた手をゆっくりと感触を確かめながらも身体の中心へと移動させていく。首筋に這わせていた唇はそのまま
ゆっくりと耳朶をくすぐるように食みながら理子へと囁きかけた。
「もう抵抗しないの?まあ、しても前みたいに止めてはあげないけどね。」
くくっ、と喉で笑うとそのまま理子の唇に自分のそれを重ねる。その時だ。
「・・・っ!」
両手がふさがれていた理子は重なった瞬間に朱里の唇を噛んだのだ。まるで予測していなかった朱里はその痛みに思わず押さえていた手を離す。その瞬間を理子は見逃さずに、できるだけの力で全身で朱里を突き放すと、扉をあけ、そのまま部屋を飛び出した。
後ろを振り返ることもせずに理子は非常階段へと向かう。エレベーターに乗る前に朱里に追いつかれるのを防ぐのと、待機している警備員に今の自分の顔を見られたくなかったからだ。
鉄製の非常ドアは重かったが、幸いにも鍵がかかっておらず、理子はそのままドアを開けるとその隙間に身体をすべりこませる。
ガチャン、という重い音がしてドアが閉まると理子はほっとため息をついた。
思わずの行動で朱里から逃れることに成功はしたが、それでもまだ心臓はどきどきと早鐘のように鳴っている。
一度深く深呼吸をしてから、理子はとりあえず自分の部屋に戻ろうと非常階段を下り始めた。
高級ホテルでも、裏の非常階段はコンクリートのみがひたすら続く長い階段で理子はゆっくりと降りていく。自分の部屋の階まで降りると、ふたたび鉄製のドアを開けようとするが、鍵がかかっているのか理子はドアノブをガチャガチャと動かした。
ふいに軽くなったかと思うと目の前のドアが引かれる。その先には驚いたような顔をしているキムが立っていた。
驚いたのは理子も一緒だった。
陽子が様子を見に行ってくると言っていたのでキムが自分の部屋の階にいるとは思わなかったからだ。
『キム、どうしたの?』
それはキムも突然非常階段から出てきた理子に対して思いはしたが、口には出さず、代わりに自分の首もとにあったネクタイを掴んで見せる。
黒い半袖のシャツの首もとに細く真っ白なネクタイがぐるぐるに巻かれているのを理子は少し驚いたように見るが、それが理子を訪ねてきた理由なのだろうと一旦、非常ドアを閉じるとふたりは毛足の長い絨毯が敷かれた廊下の端へと立つ。
大人びた外見の彼でもまだ13歳のキムだ。ネクタイを結べないのも慣れていないせいだろうと一度、そのでたらめに巻かれたネクタイを取り外す。
『服は監督が用意してくれたの?』
『・・・シャツとネクタイだけは絶対だって言うから。』
そう不満そうに言うキムはどうやらきちんとした格好が苦手らしい。今の格好も上はシャツを着ているが、穴は開いていないものの下に履いているのはジーンズだった。
それはそれでキムの雰囲気をよく際立たせていると思うのは、きっと彼自身が上手に着こなしているからなのだろう。
そんなことを思いながらも理子は首に通したネクタイを綺麗に結んでいく。最後に襟元を直していると、急にのびてきたキムの両手に理子の手首が掴まれた。
先ほどの朱里のこともあり、びくり、と思わず身体が思っていた以上の反応をしてしまうが、キムは細い手首を掴んだまま、そこに視線を落としている。
『・・・・これ、あいつがやったの?』
『え?・・あ・・・。』
そのまま理子も自分の手首に視線を移せば、そこにはうっすらと赤い痣ができているのが見える。
掴まれていた両手を慌てて引っ込めると、キムは眉間に皺を寄せ、いまだ手首に視線を向けている。
どうやって説明したらいいのかと目の前で自分をじっと見つめるキムを見上げる。あいつ、と言っている以上、それが朱里のことだとも分かっているのか、理子も適当な理由を言うこともできず困ってしまった。
「ふたりとも、もう準備はできたの?」
その声に理子がエレベーターのほうへと目を向けると、陽子が艶やかな雰囲気のまま二人のもとへと歩いてきた。
「ああ、ちゃんとネクタイ結んでもらったみたいね。私がしてあげるって言っても触らせてくれなかったのに。ずいぶんと理子ちゃんに甘えてるみたいね。」
キムから甘えられているなどと思ったことはなかったが、彼の性格上、一番気軽に接することができる自分に言ってきただけだろうと、曖昧に納得する。
「あの、他の皆さんは?」
「朱里と監督たちなら、メインキャストだからすでに会場のほうへ行ってもらったわ。私たちもそろそろ行きましょう。」
陽子の言葉に朱里と顔を合わせなくてすむことに心を撫で下ろす。あんな状態で別れた今、とてもじゃないけど普通に接する自信は理子にはなかった。
キムの厳しい視線はいまだ続いてはいたが、理子は行こう、とキムを促す。キムのあとに続いて理子が陽子を通り過ぎようとすると、
陽子が何かに気づいたように目線を理子の首もとへと向ける。
「それ、キスマークよね。さっきにはなかったと思うけど。」
いきなりの言葉に理子は驚いて陽子を見る。陽子は少し考えてからキムに視線をちらりと向ける。
キムは壁に寄りかかったまま理子と陽子の会話を聞いているようだ。
わずかな短時間で理子につけられたキスマークはさきほどの朱里の不機嫌さを表しているのかと陽子は疑う。朱里のプライベートにまで口を出す気はなかったが、もうすぐ世界が注目する映画祭が始まろうとしているのに、いつもと違う朱里の雰囲気に、陽子はふたりの間に何かあったのかと理子を見つめる。
陽子に言われて、初めて理子はさきほど首筋に感じた痛みは朱里が理子に与えたキスマークのせいだと気づいた。思わずその部分を指先で隠そうとすると、陽子は理子の手首につけられた跡に目を見張る。
「理子ちゃん、それ、朱里がやったの?」
キムと同じ質問を再びされ、理子は思わず手首を隠す。その理子の行動が逆に陽子に確信となって伝わる。
「そうなのね?朱里が無理にしたのね?」
もともと迫力のある美人の陽子が、理子に確認しようと詰め寄る。怒りを含んでいるような表情に理子は困ったように眉尻を下げる。
『オープニング、始まる。』
すっと二人の間にキムが入りこむと、陽子は我に帰ったようにはっとする。
いくら恋愛感情があろうと朱里のしたことは許されることではない。陽子はいままでマネージャーとしてずっと支えてきたはずの朱里に大きな失望と怒りを覚える。
「あの、朱里には何も言わないでください。ちょっとケンカしただけなんです。だから。」
なのに目の前の少女は朱里を責めないでくれと頼んでくる。その心使いが、痛かった。
「わかったわ。でも何かあってからでは遅いということだけは覚えておいてね。」
「・・・はい。わかりました。」
ふう、と短くため息をつくと陽子は持っていた小さなバッグからスカーフを取り出して理子の首もとへと結んだ。
「少し派手かもしれないけど、首もとは隠れるから。」
それくらいしか出来ないのに、目の前の少女はありがとうございます、と微笑んでいる。
もどかしさと不甲斐なさが陽子の心を揺さぶっていた。