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2.
何かが擦れる音が聞こえる。
ゆっくりと、畳の上を這うように。小さなものが、近付いてきている。
……なんだ、夢か。
そうだ。あのときも、私は此処で眠って、怖い夢を見た。
ひっそりと陽の射さぬ、いつも締め切られた襖の向こうが、私は気になって仕方がなかった。禁じられた開かずの間。そんな肩書きも、くすんだ陰湿な雰囲気も。子供の私にとっては、逆に抗いがたい魅力だったのだ。
あの日、忍び込んだ私は、家具のひとつもない呆気なさに拍子抜けして。
此処でうたた寝を始めてしまった。
そして、この音を聞いた。
ずる……ずる。
なんだろうと身を起こそうとして、身体が動かなかった。寝違えたのでも、痺れたのでもない。空気でグルグル巻きにされているみたいに、足の爪先から頭の天辺まで、言うことを聞かない。
音が近付いてくる。
ずる……ずる……。
息遣いが荒い。額を、首筋を、伝う冷や汗が畳を濡らした。
音は、まっすぐ私を目指していた。見えずとも、わかる。それが明らかな悪意を抱いていることも、確かな質量を持っていることも。
ずる……ずる……ずる……ずる……。
嫌だ。嫌だ嫌だ。
なんとかしなくては。私は焦った。だが、どんなに力を込めても、指先すら動かせない。辛うじて自由になる眼だけが、意志とは無関係に、キョロキョロと早回しで辺りを探る。
見たくない。見てはいけないと、わかっているのに。
ずる、ずる。
それが視界の端に侵入したとき、私は今度こそ凍り付いた。
人形だった。
赤い着物。額のところで切り揃えられた長い黒髪。ちょうど古い家などで、茶の間のプラケースに収まっているような。古ぼけた日本人形が、摺り足で此方へ歩いてきていた。
ずるずると聞こえたのは、彼女の足袋と畳が擦れ合う音だったのだ。
恐怖で頭が真っ白になった。
直感だった。理由も何もない。このままでは殺される。そう悟った。一刻も早く逃げなくてはならない。しかし依然、身体は動かない。ひゅうひゅうと喉の奥から息が漏れる。固まったまま、汗が滝のように噴き出した。蝉の鳴き声が聞こえる。ひどく遠いところから。人形は近付いてくる。ずる、ずる。
ずる……ずる…………。
「わりゃ、何しよるか!」
そのとき、突然ガバッと襖が開いて、血相を変えた祖父が飛び込んできた。
「婆さんも獲っていきよった! まだ足りんか強突く張りが!」
そして、私が聞いたことのないような怒声を浴びせながら、手にした何かを人形に向かって投げ付けた。
あぁ、そうだ。あの手斧だ。
手斧は人形の片足を直撃し、バランスを失った小さな身体は、ぱたりと糸の切れるように倒れた。その瞬間、私は見たのだ。切れ長の黒い瞳が確かに、憎々しげに祖父を睨み付けたのを。
途端、身体が動くようになった私は、跳ね起きて祖父に齧り付いた。
「此処で寝たらあかんのや。此処は祭壇やったんや。御供物になるんや」
泣きじゃくる私を固く抱き締めて、祖父は頭を撫でてくれた。禁を破ったことへの叱責はなかった。良かった、間に合った。ただそう繰り返していた。
幼い私に、祖父の言葉の意味はわからなかった。
けれど、何か胃の底からドス黒い、憂鬱な塊が迫り上がってきて、嫌というほどの後悔と恐怖に、いよいよ私は泣いたのだった。それは、罪悪感というにはあまりにも切実な。もっと身体の芯を抉る、深刻な本能だった。
まったく、なんて怖い夢を見たのだろう。
夢…………。
何処まで?
目が覚めて……祖父が……そこからも? 夢?
いや違う。怖い夢を見て泣いたから、祖父が来て……?
じゃあ、あの手斧は…………?
ず、ずる……っず、ずるっ…………。
音が、聞こえた。
あのときとは少し違う。
リズムが変だ。一歩の歩幅が、微妙に遅い。長さが均一ではない。怪我でもしたのか、片方の足を庇うような歩き方をしている。だから違和感があるのだ。それに何か……身長にそぐわぬ、重い物を無理に引き摺っているような。
ず、ずる……っず、ずるっ…………。
足?
身長?
どうしてわかった?
ハッと眼が開いた。
見上げる天井は、あの日と同じに煤けていた。じわり汗を掻いた背中。シャツが畳に貼り付いて不愉快だ。遠くから蝉の声がする。湿った項に纏わり付く髪が鬱陶しい。払い除けようとして、気付いた。
身体が動かない。
どうして?
私。私は、夢を見ているのか。あの日の夢。これは夢の続き? まだ夢の中? では祖父は? 助けに来てくれるはずの祖父は何処?
ず、ずる……っず、ずるっ…………。
音が近付く。
やはり身体は動かない。
視線だけを、其方へ向けた。
薄暗い室内に、小さな影が伸びていた。
真っ白な足袋。梅の花の咲き乱れる、赤い晴れ着。額のところで切り揃えられた長い黒髪。ゆっくりと歩いてくるそれは、間違いない。
あの日の人形だった。
ただし、不自然に傾いている。
片足が折れていた。
その手に握っているのは――
「…………っ!」
反射的に、押し入れの方を見た。見ようとした。身体は動かない。視線のみが、外れたガムテープの山を捉えた。一枚一枚に、深く刻まれた爪痕があった。誰かが何度も、執拗に掻き毟ったみたいに。
ず、ずる……っず、ずるっ…………。
そうだ。
どうして忘れていたんだろう。
夢じゃない。
あの日の出来事も、今この瞬間も!
ソウダヨ。とでも言いたげに、人形の唇が吊り上がった。笑ったのだ。そこはかとない憎悪を秘めた、凄まじい笑顔だった。作り物のはずの、筆で描かれただけのはずの眼が、ギリギリと音が聞こえそうなくらいに歪んで、私を凝視していた。
ず、ずる……っず、ずるっ…………。
一歩、また一歩。近付くたびに、人形の黒髪が揺れる。重たげに手斧を引き摺る姿はいっそ健気ですらあったが、そのあどけない無邪気な殺意が、却って私の背筋を凍り付かせた。
「……、…………っ」
助けを呼びたいのに、声が出ない。身体が動かない。震えることすらできない。全身の毛穴から汗が噴き出して、けれど体温が下がってゆく。心臓が痛い。恐怖と焦燥で、胃の底が絞られる。耳に響く蝉の声。酷く遠い。
どうしよう。夢じゃないよ。殺される。やっぱり殺される。
誰か助けて。
お母さん。助けて。
おじいちゃん。
ず、ずる……っず、ずるっ…………。
おじいちゃんは? そうだもういない。いないんだ。
助けて怖いよ。おじいちゃん!
ずっ。
足音が止む。
人形が私を覗き込んだ。
雛人形にそっくりの、奥ゆかしく整った顔立ち。元は穏やかに微笑んでいただろう切れ長の眼も、おちょぼ口も。つるりとした頬も。わなわなと小刻みに震えて、物言わぬ怒りを滾らせていた。
何故そんなにも怒っているのか、理由など知る由もない。
ないが、私に対する明確な殺意だけは、痛いくらいに伝わってきた。
億劫な仕草で、人形は凶器に両手を掛ける。
振り上げられた手斧が鈍く、光ったような気がした。
「おじいちゃん!」
叫んだ弾みに、踵が畳を蹴った。
身体が動く。
理解するのと同時だった。私は人形を突き飛ばしていた。何が起こったのかなんて、考える暇もなかった。意味もなかった。やることは決まっていた。
私は転がった人形から手斧を奪い、渾身の力で振り下ろした。
ぐぎっ。
悲鳴のような音と共に、重い刃が人形の肩から胸にかけて食い込んだ。
今までにそんな経験はないし、これからも一生ないことを願うが、それはまるで人間の肉を切ったみたい。生々しい嫌な手応えに、思わず嘔吐く。でもここで止めてはいけない。
ぐっと息を止めて、人形の胴体を蹴り付ける。勢いを使って、手斧を引き抜く。すかさず横へ薙ぎ払う。べぎん。首が飛んだ。
返す力で、もう一度。ばき。片腕が落ちる。もう一度。ごき。両腕がなくなる。べき、ごき、がきん。あとはもう夢中で斧を振るった。何度も何度も。腰を砕き、両脚をヘシ折り、それぞれのパーツがバラバラになっても、まだ。
ぐしゃ、ぱきん、ぼきん。
「……ちょっと! 何やってんのあんた!」
母の声で我に返ったとき、私は手斧を握ったまま、呆然と人形の残骸を見下ろしていた。
艶やかな黒髪も綺麗な晴れ着も、既に見る影もない。人形は、元が何だったのかわからないほど粉々に砕け、滅茶苦茶になって畳の上に散らばっていた。
私は台所へ走り、ゴミ袋とライターを引っ掴んで奥の間へ戻った。そして人形の破片を掻き集めて詰め込み、靴も履かずに庭へ飛び出して、火を付けた。後ろで母が狼狽していたが、構ってはいられない。少しでも休んだら、そのまま動けなくなる気がした。一秒でも早く、この忌まわしいモノを焼き払ってしまいたかった。
夕間暮れの気怠い暑さ。やかましい蝉の声。前髪を炙る炎。焦げた臭い。
憶えているのは、それくらいだ。
いつしか私は、母に寄り添われて、縁側でぼんやりと、夜空を眺めていた。
祖父の葬儀は、滞りなく終わった。
あれから十年が経つ。私は結婚し、子供も生まれた。
法事で何度かあの田舎を訪れているが、特に変わったこともない。
先日も法事があった。もちろん奥座敷へは足を踏み入れていない。夫にも絶対に近寄らせない。ましてや三歳の娘に万一があってはと、用心して夫の実家へ預けていた。
何もない。私には。
だから、夢だったのだ。あれもこれも。すべて夢。そう思い込みたいのに。
最近、娘が妙なことを言い出した。
「ほいくえんで、おひるねしてるとね。くろいおにんぎょうさんがくるよ。おててもあしもばらばらで、あるけなくてこまってるの。あついようっていってる。かわいそうだけど、すごくおこってて、こわいの。ちかづいてくるの」
それは悪い夢よ、と言い聞かせている。だって私の見たものは、夢に違いないのだから。娘が見ているのも夢だろう。そうに決まっている。きっと。
けれど、どうしても気掛かりなのだ。
あぁ、思い出せない。
あの手斧は、何処へ遣っただろうか……。
了