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祖父の葬儀のため、母の実家を訪れた。
既に業者が入り、忙しく準備に立ち働いている。最近は、こんな特急も停まらない田舎でも葬儀屋任せなのだ。昭和の色濃い一軒家、蝉を捕まえた松の木もスイカを食べた縁側も、記憶のままに古めかしいのに。
いや、変わったのは私もか。
昔は夏休みが来る度、この田舎を訪れるのが楽しみだった。中学へ上がる頃からだったか、部活と勉強のために足が遠ざかり、そのままなんとなく億劫になって、今はその夏休みも三日間。標準的なOLとして、仕事に追われる日々だ。
思えば、この敷居を跨ぐのは小学六年生の夏以来ではないか。
照り付ける陽射しと蝉の鳴き声は、過ぎ去った遠い夏を思い出させて、私は一抹の寂しさを憶えた。
「あら、今着いたの」
エプロンで手を拭きながら、母が台所から現れた。
祖父危篤の一報を受けてから、ずっと詰めていたせいだろう。疲れた顔をしていた。それでも、案じていたよりは元気そうだ。
「ただいま。お爺ちゃんは?」
「仏間よ。お通夜は今夜、お葬式は明日。夏場だから心配だわ」
「今年は特別暑いもんね」
「なんか毎年そんなこと言ってる気がするわね」
母に連れられて、仏間へ入る。
棺の中、大量のドライアイスに埋もれて、祖父が眠っていた。
「……痩せちゃったね」
「うん」
記憶にあるより、祖父はずいぶんと小さくなっていた。
博識で穏やかな好々爺だった。祖母に先立たれたためか、元から子煩悩なのか。私が遊びに来ると、やれ嬉しやと笑って抱き締めてくれたものだ。あんなに可愛がってもらっておいて、死に目にも会えなかったなんて。私も薄情な孫である。
「やっぱり同居すれば良かったんだけどねぇ。お爺ちゃん、どうしてか嫌がってたのよね。亡くなる前にはすっかりボケちゃって、アレは何処へ遣ったアレは何処へ遣ったって、口癖みたいに。アレじゃわかんないわよね」
ぐすっと鼻を啜って、母が目頭を押さえた。
私も涙が込み上げてくる。
ごめんね、と呟いて手を合わせた。
「……さてと。泣いてる場合じゃないわ。ああ忙しい」
沈んだ雰囲気を振り払うように、母が立ち上がる。
「あんたにも手伝ってもらわなきゃ。貴重な労働力よ」
「うん。何すればいい?」
「奥座敷の押し入れに布団が入ってるんだけど、それ出して日に当てといて。十人くらい泊りになるのよ。お布団が足りないの」
「わかった」
なんせ全国に散った親戚が一堂に会するのだ。都会ならセレモニーホールに宿泊する人がほとんどだろうが、この地域では、各々が酒など持ち寄って故人の生家に一泊するのが習わしになっていた。
二階の片隅に荷物を置いて着替えを済ませ、私は奥座敷へ向かった。
奥座敷、と呼んではいるが、実際はそんな大層なものではない。
家の奥まった場所、玄関から見て最も遠い位置というだけで、どの家庭にもあるような、ごくごく普通の六畳間だった。
ただし、窓がない。襖を除いた三方は漆喰壁に囲まれ、照明すらないため、真昼でも薄暗い。ずっと締め切っていたせいか、襖を引いた途端、カビ臭く淀んだ空気が流れ出した。
奇妙といえば奇妙な造りだ。
光の射さない室内を見渡して、軽く咳き込む。
……そういえば、此処へは入るなと言われていたっけ。
小学三年生か四年生の頃、言い付けを破って、この部屋で昼寝をしたことがあった。何か怖い夢を見てワンワン泣いていたら、駆け付けた祖父に見付かって大目玉を食らったものだ。
私に甘い祖父だったが、あのときの剣幕は尋常ではなかった。
祖父に叱られたのは、後にも先にも、あの一度だけ。
どうしてあんなに怒ったのだろう。
理由は聞いたはずだが、忘れてしまった。ヘソクリでも隠してあったのか。高価な置物でもあっただろうか。思い出せない。そんなことで、あの温厚な祖父が激怒するとも思えないのだが。
訊ねたくとも、祖父はもういない。
「…………」
いや、落ち込んでいても仕方がない。さっさと片付けよう。
気を取り直して、押し入れを開けた。
「うわぁ」
しんみりからウンザリへ。
床板から天井まで、みっちり詰め込まれた布団を見て、声が漏れた。これを全部干すのは、ちょっと骨だ。試しに真ん中辺りを引っ張ってみたが、やはりビクともしない。諦めて、上から一枚ずつ引っ張り出すことにした。
ひとまず、その辺に退けておく。抜いては置き、置いては抜きして、無心に繰り返すうち、布団は最後の一枚になった。
やれやれと手を掛ける。
ぐっと、不自然な手応えに、保っていたパターンが止まった。
何かに引っ掛かっている。
両手を掛けて布団を持ち上げ、隙間から床を覗き見た。
「……なにこれ?」
一瞬、わからなかった。
が、よくよく眼を凝らして、ギョッとした。
錆びた手斧だった。
木の枝を落としたり、薪を割るのに使うのだろう。全長五十センチほどの、子供でも振り回せるようなサイズ。それが、ガムテープで床板に貼り付けられていたのだ。これでもかというくらい厳重に。
「?」
幼い頃の記憶に、これで風呂焚きの薪を割っていた祖父の姿がある。唐突に水場がリフォームされてからというもの、目にする機会もなくなった代物だ。どうしてこんなところにあるんだろう。なんでガムテープ?
最後に、この手斧を見たのはいつだったろうか……。
思い出そうとすると、ふと何かドス黒い、憂鬱な重さが胃を上ってきた。
なんだろう。この手斧、凄く……嫌だ。
納屋の方に移動させようかとも考えたが、やめた。触りたくない。
首を振って、私は忘れることにした。
それから、布団を縁側まで運んで干し、一服し、葬儀屋さんにお茶を振る舞い、あちこちの部屋に掃除機を掛けて、時計を見ればもう十六時。確認の意味で奥座敷へ戻ったときには、ほとほと疲れ切っていた。
連日の猛暑とデスマーチに加えて、葬儀前の気忙しさだ。腰を下ろしたら、もう一歩も動く気になれない。夕飯は店屋物だと言っていたから、手伝う必要もない。少しだけ、ゆっくりさせてもらおう。
伸びをして、畳の上に大の字で寝転んだ。
そんなつもりもなく、数分はスマホを弄っていたものの、やはり疲れていたのだろう。奥座敷の、夏らしからぬひんやりとした空気と、遠くから聞こえる蝉の鳴き声。都会の喧噪とは違う、どこか懐かしい感覚。
心地良くなった私は、いつしか眼を閉じ、ウトウトと微睡んでいた。
ずる…………ずる…………。