ノスタルジアをもう一度
購入したばかりの数学の青い参考書を壁に思い切り叩きつけたくらいではこの気持ちはどうにも収まる気配がしない。
一カ月前、私の人生設計は狂った。第一志望の高校の合格発表の日、雨が降ったあの日、私の世界は色と音を失った。泣きながら友達や両親と抱き合ったり、ガッツポーズをしたり、その場に崩れる所謂ライバル達の姿など目に入らない。注がれるのはたった一つの木のボードに刻まれた番号。あるはずの「それ」は確かに存在しなかった。
気がつけば、第二志望の高校の教室の中で息をしている自分がいた。いや、志望なんてものじゃない。行く気がなくて適当に選んだのだから。昔から、周囲より少し頭がいいだけで、周りの人間は私を持て囃した。理子ちゃんは頭がいいから、なんて微塵も思っていない癖に、世間話のように持ちかけてくる友人には甚だ怒りを覚えたものだ。しかし、心の奥底で自分は周りとは違う、選ばれた頭のいい人間なのだと自負をしている部分もあった。神様がいるのなら、私の慢心を見抜いていたのかもしれない。私は敗者となった。確実と言われた進学校に「あなたは必要ありませんよ」と思いっきり頭を殴られたのだから。それでようやく目を覚ますなんて、本当に馬鹿げている。
課題をしなければ、そう思って真新しい参考書を開く。目標があれば何だってできた受験前の自分はどこにいったのか。二年愛用し続けたシャープペンシルは全く動かない。芯がぽきりと折れたところで私は参考書を閉じて、薄汚れた天井を眺めた。蛍光灯の光が目を刺して、じわりと涙が滲む。
なにもかもやめてしまおうか
私の現在通う高校は自称進学校と一部では嘲笑われる高校で、当然生徒の勉強への意識は低いものだった。クラス全体が、校生という地位を得た事に喜びを隠せず、毛を染めてみたり、ピアスを開けてみたり。と誰が付き合っているだとか下世話な話に花を咲かせていた。授業が妨害されるというわけではないが、どう考えても勉学をするという目的を失った人たちと接することには抵抗を覚える。つまらない、何もかもつまらなかった。高校入って初めてのテストではほとんど無気力だったのに関わらず、全教科トップの成績表が手渡された。途方もない無力感が私を襲い、即座に破り捨てた。
そんなある日の放課後、職員室に遅れた提出物を出しに行ったときのことだった。
「あ、おーい、階条」
「……なんですか?」
我ながら無愛想な受け答えだ。名簿を抱えた担任に声をかけられた。おおよそ三十代前半のさわやかな(とクラスの女子が称していた)担任はにこりと笑いながら気さくに話しかけてきた。正直この担任は苦手だ。
「いやー、お前にお願いがあってな」
「お願い…?」
「ああ、柏木に、数学を教えてやってほしいんだ」
「……はぁ?」
想像外のお願いに素っ頓狂な声を出して思い切り怪訝な顔をした。そんな私の態度にも顔色を変えずに担任は続けた。
「あいつ、少し成績が心配でな……学校も結構休んでるから、ノートの類も不十分なんだ。それも含めて面倒を見てやってくれないか」
「それをどうして私が」
「それはお前が一番優秀だからだよ、やっぱり良く理解している人に教わった方がいいからな。それに同級生なら聞きやすいし」
勉強を教えるのが教師の仕事だろう。そう罵声を吐きたくなる。しかしこの担任の事だから、自分が自暴自棄になって屈折していることを見抜いて、クラスメイトと打ち解けさせようとしているのかもしれない。
「いや……私は役に立ちませんから」
所詮失敗作なんだから。頭の中の自分がそうつぶやいた。あの日からずっと鳴りやまないノイズだ。
「そう言わずに、頼むよ」
きっと私を思って言ってくれているのだろう。けれどその優しさでさえ今の自分は歪めて受け止めてしまう。好意がありがた迷惑に変換されて伝わるのだ。
「……分かりました」
無駄に気を回してくる担任も、ここで拒否できない押しに弱い自分も大嫌いだった。
「柏木」、クラスメイトの名前も顔も覚えていない私にとって、どんな人物なのかは少しも分らなかった。しかし、その柏木くんとやらもかわいそうだ。担任の計らいによってこんな偏屈な人間の相手をしなければならないのだから。そう考えながら職員室を後にし、廊下をずかずかと歩いた。
ガラリと教室の扉を開ける。初夏の風がカーテンを揺らし、暖かい初夏の風が私を包みこんだ。音を失った世界に彼はいた。
「あ、あの…」
「……」
「柏木くん?」
「……えっ?ええっと、階条さん?」
癖のあるもさっとした毛玉が動く。長く伸びた前髪の下に太縁の黒い眼鏡が覗いていた。分厚い本をパタリと閉じた彼はこちらをじっと見つめた。
「……なにしてるの」
「あ、ああ、今日僕が日直だから鍵閉めて帰らなきゃいけなくて。階条さんを待っていたんだよ」
そういえば教室に鞄を置きっぱなしだった。待っていないで外に放りだして閉めちゃえばいいのに。生真面目な人だ。
「あ……ごめん」
「あ、え、気にしないで、僕が勝手にやったことだから」
そう言うと彼はまた分厚い本に視線を向けた。これは勝手に帰って下さいということだろうか。黙々と本を読みふける彼に向けて、とんでもなく意地の悪い言葉を投げかけた。
「……成績悪いんだってね」
「えっ」
「新谷先生から聞いた」
「……ははは、参ったなぁ」
「先生に私があなたに教えるように頼まれたから。」
「えっ?ご、ごめんね!」
何故か挙動不審だった。人と話すのが苦手なのかもしれない。
「……ていうか、そんなひどい成績とる前に誰かにノート借りるとかしなよ」
「あはは……返す言葉がありません…」
笑顔を崩さない。にこにこにこにこ。正直腹立たしい。笑っていればいいと思ってるのか。私の疑心の目にも気づかずに彼は私の目の前に今まさに愛読していた分厚い茶色い表紙の本を向けた。
「ねぇ、階条さん、このシリーズ知ってる?」
「本…?私、本読まないから」
そっか、と残念そうに彼はにへら、と笑った。愛想笑いが上手な奴だ。何をしても仏頂面と言われる私には決して習得できなかった愛想笑い。
「これはあの三河孝一郎先生の最新作でね、上中下の三巻出ててね、とても面白いんだ。あ、三河先生って知ってる?すごく繊細で不思議なお話を書く作家なんだ!この話を読んでたら…」
彼はもう一人で喋っていた。空気を読めないタイプかもしれない。その三河なんちゃらの本を勉強はもちろん食事をとることすら放棄して貪り読んでいたという。おっとりした喋り方、彼の周りを取り巻くふわふわとしたオーラが相まって私の苛立ちを加速させる。我慢が出来なくなる前に帰らなきゃ。
「……はい、とにかく使ってよ」
「え?いいの?」
会話を遮り、授業ノート数冊を押しつけた。彼は困惑したようにこちらを見つめた。そしてまたあの愛想笑いを浮かべ、ありがとう。と受け取る。親しくない人からノートを受け取ったって、気を使うだけだろうに。少し不憫にも思った。
「じゃあ私は帰るから」
「あ、うんごめんね。ありがとう」
どうせ授業ノートなんて、私には必要ないのだから。彼を置き去りにし、私は教室を後にした。
彼の席は窓際の最後列にあった。今まで気づかなかったが、……彼は休み時間、全ての時間に、ただひたすらに本を読んでいた。まるで何かに取りつかれたように。クラスの人物も全く彼に興味がないようだ。いや、そう言えば斜め前の女子生徒(名前なんて知らない)が「幽霊くん」なんてからかってたっけ。……その会話すら聞こえてないくらい没頭していたけれど。
空気のように、息を潜めてこの狭い箱の中で、世界一の文学好き幽霊は生きていた。
「……あれ?」
某有名なファミレスのウインドウ越しに見覚えのある顔があった。柏木くんだ。向かいにはスーツを着込んだ女性の姿。恋人とか、姉という雰囲気ではなさそうだった。
気になる。そう思ったときにはすでにファミレスに入店していた。いらっしゃいませ、と少し愛想のいい中年の女性が近づいてくる。例の彼の斜め後ろの席に案内され、とりあえずドリンクバーを頼み、そっと聞き耳を立てた。
「……そろそろ決断をしてもらわないと困るわよ。あの方もそれを望んでいらっしゃるわ」
「分かっています。それでも……」
「高校生のあなたにこんな決断を強いるのは気が引けるけど、あなたの将来にとって決して悪い話じゃないのよ。あなたの才能には、あの方はもちろんのこと、色んな方が期待しているのよ」
「はい」
「分かった?期限はこの日まで。絶対に返事を頂戴ね?お母様はどうおっしゃっているの?」
「……母は自分のやりたいようにやれ、と言ってくれています」
「……たしかに今の時期は勉学に励んだ方がいいかもしれない。けれどね、あなたにはそれを捨ててもいいくらいに素晴らしいものを持っているのよ。それは絶対に保障するわ。あなたはすごい作家になれる」
作家……? 耳を疑うような単語が飛び込んできた。しかし女子高生がぼっちでファミレス。メロンソーダを飲みながら盗み聞きとは泣けてくる。
「はい……ありがとうございます」
「じゃあね、あっ、お代はいらないわ。高校生に払わせたら怒られちゃう。それじゃあね」
スーツの女性が立ち去ると、彼は俯いてぐったりとした様子でソファにもたれかかった。溶けだした氷がカランと音を立てる。
「階条さん、いるんでしょ?」
心臓が飛び上がるかと思った。彼がこちらを見て笑った。……バレた?
「せっかくだし一緒にどうかな …話聞いてたよね」
彼が自分の座席の正面に私を誘った。これは逃げるしかない!私はダッシュでレジに向かい、ドリンクバー代をレジに置き颯爽と店を出て行った。……ただの変質者である。
「待って!」
目を疑った。彼が追いかけてくる。街中を高校生二人が全力で鬼ごっこ。周囲の目が痛い。それも気にしていられないくらい全力でダッシュ。そして気がついた。運動部でもない、しかも超鈍足の私がかなうはずもない。あっけなく追いつかれてしまった。
彼は息絶え絶えに(恐らく彼も運動が得意ではないらしい)近くの公園のベンチに誘った。私は抵抗することを諦めて大人しく盗み聞きしたことを謝った。彼の苦笑いは止まらない。
「あ、あの……」
「ごめんね、話聞いてくれる?……あの人は、僕の担当さん」
「担当?じゃあ、その……」
「僕は大宮文太と名乗って、本を書いているんだ」
「作家……」
公園では親子連れが何人かいる程度で、比較的静かで、ブランコのキーキーと揺れる音だけが妙に響いていた。
「うん、中二のときに、ほんの気まぐれでとある小説大賞に応募して、賞を頂いたんだ。それがとある有名な作家さんの目に留まって、それがきっかけで作家として書かせてもらってるんだ」
あまりにも現実味のない話にくらくらしてきた。高校生作家。なんだこのハイスペック人間。勉強する時間がないというのもこのせいなのかもしれない。
「は、はぁ……」
「お願い、このこと黙っておいてくれないかな……一応誰にも言っていないことなんだ」
彼の必死な表情を見て、後悔した。どうやら私はとんでもない秘密を握ってしまったらしい。罪悪感に苛まれる。私のちょっとした好奇心で人を傷つけてしまったかもしれない、ろくな事をしないなぁ自分は。
「……本当ごめんなさい、絶対秘密する」
そう言って去ることしかできなかった。
同級生が実は作家の注目株だった!
……とんでもない才能、そんな言葉に心が打ち砕かれそうになる。なんでそんな人がこんな高校で学生生活を送っているのだろうか
「階条さん、ありがとう」
翌日彼は私の席までふらりとやってきて、ノートを手渡した。気配がなかったため相当驚いて危うく握っていたシャーペンを放り投げるところだった。
「あ、ああうん」
「ありがとう、とても分かりやすかったよ。これで欠点は回避できるかもしれない。昨日は驚かせちゃってごめんね」
会話がしづらいくらい、クラスは騒がしかった。授業中は先生が質問してもぼそぼそとしか答えないくせにね。夏休みが近づいているため浮かれているのかもしれない。
「……私が全部悪いよ、本当にごめん、またノートでもなんでも貸すから……」
「あ、ああ!黙ってもらえれば僕は気にしてないよ。ありがとうね」
そういうと彼はまた自分の席に座り黙々と本を読み始めた。彼の世界は古びた木の机と椅子と、あの分厚い本で構成されているのだ。彼にはこの教室が、屈折した自分がどう映っているのだろうか。
夏休み目前、暑さも本格的となり始めた放課後のことだった。図書室に本を借りに行った帰り、ふと教室を覗いてみる。そして目を疑った。彼が席から崩れ落ちて倒れていたのだ。単に眠っているわけではないらしい。私は悲鳴をあげて彼の傍に駆け寄り、額に手を当てた。熱い、とりあえず保健室の先生を呼びつけ、運び出し、保健室のベッドに寝かせた。
「軽い熱中症ね、とりあえず安静にしておかないと。……本当に階条さんが見つけてくれてよかったわ」
保健医は氷嚢を彼の頭に当てた。顔が真っ白で、生きているのかと心配になるくらいだった。一体何があったのか、根を詰め過ぎたのだろうか。
保健医が彼の家に電話をかけようとしたとき、弱弱しい声が言った
「……すみません、大丈夫です。家に母はおりません」
「……だ、大丈夫?」
依然顔色が悪いながらも意識ははっきりしているようだ。
「ごめんね。僕、あまり体が強くなくて、しょっちゅうこんな風になるんだ。慣れっこだけどね」
「そうは言ってもね……あなた倒れてたのよ、階条さんが見つけてくれなかったらどうなってたか……あなたあまり寝てないでしょう?体調管理をしなさい」
「すみません」
「とりあえず、何か飲める?そうだ、ポカリでも買ってくるわ。ちょっと待ってね。……階条さん、悪いけどちょっと見ててくれるかしら」
保健医がいなくなった後、彼は話し始めた。その声に力はない。
「ごめん、迷惑かけちゃったね」
「びっくりしたよ、どうしてあんなことに……?」
「原稿。担当さんにこっぴどく怒られちゃった。なかなかうまく書けなくて」
「……そっか」
学校に通いながら小説を書くなんて、どれだけハードか私には想像もつかなかった。けれど彼の姿を見れば嫌でも想像してしまう。寝ないで原稿と勉強に板挟みになっている彼の姿が思い浮かんだ。
「しんどかったね……」
「でも今回の期末は欠点とらなかったんだ。階条さんのおかげだね」
「そんな、ことないよ」
「ほんとうごめんね」
「そんなこと言わないで。またノートでもなんでも、勉強だって教えるから。家帰ったら原稿に没頭できるように、なんとか教えるからさ」
「でも……」
「教えるって勉強になるんだよ。私にとってもプラス。だから頑張ろう」
プラス。自分からこんなに前向きな言葉が出るなんて思わなかった。恐らく病人を目の前にしているからだとこじつけて自分を納得させた。頑張ろう、頑張れば大丈夫。受験の時に自分にかけていた呪いの言葉で、人を励ましているなんて。
それからというもの、私たちは授業が終わったら下校時間になるまで必死に勉強することにした。必要であれば彼に勉強を教えていた。そんなある日。蝉の声が特にうるさい日だった。
「ねぇ、階条さん、夢とかある?」
「……夢?」
「いや、少し気になって」
夢、か。そういえば小さい時にお菓子屋さん!と答えた以来全く考えたこともないことだった。アイドルだのスポーツ選手なんていえば現実を見ろと言われ、公務員と言えば現実的すぎると言われる。どうしろっていうんだ。
「うーん……ないかな、将来の夢とか考えたことないし」
「そっか……じゃあ、将来やりたいこととか、学問とかは?」
「決めてないかな」
将来のビジョン。数年後の自分は何をしているだろうか。大学生になって、社会人になって……全く希望が持てない。
「うーん、あのね。私、行きたかった高校落ちてさ、それ以来気づいたんだ。今まではその高校に入ればいいとだけ思ってたんだけど、それが潰えたらもう何も残ってなかったんだよね……笑っちゃうよね」
そういえば、このことを誰かに話すのは初めてだ。暗い奴だと、過去のことをいつまでも引きずる奴だと思われただろうか。夢を持ち、またそれを叶えようとしている彼にこんなことを言うのは気が引けるけれど、伝えてみたくなった。
「そっか、辛かったよね。僕なんかの同情心なんていらないだろうけど、本当に」
「……うん」
しばらくの沈黙の後、彼は思いついたように言う。
「それなら、また新しい夢を持てばいいんじゃないかな、具体的な職種じゃなくていい。例えば、大学に行ってこの研究がしたいとか、欲しいものを買うためにお金を貯めるとか。簡単な事でもいい、未来について考えてみて!そうすればきっと過去のことを忘れることができるよ」
「未来……」
思えば私はあの日以来、後ろを振り向いてきた。背中に張られた「敗者」というレッテルを振り払うことができず、いつまでも縛られて。負けることが怖くて、自分に失望するのが嫌で。夢なんて、そんなもの。
「そうだ……階条さん、お願いがあるんだ」「なに?」
「夏休み、少し会えないかな?」
本当に唐突なお誘いに私は戸惑った。
最寄駅で待ち合わせて、そこへ向かう。ゲートでは可愛いのか可愛くないのかよくわからないうさぎの着ぐるみが迎えてくれた。某所のミ●キーのような、マスコットキャラクターなのかもしれない。
「僕、遊園地行くの、初めてなんだ」
「えっ?」
「というより、こういうところ全般。父が早くに他界して、母が一人で僕を育ててくれて。その為かあまり母と出かけた記憶もなくて……」
「そ、そっか、まぁ今日は折角なんだし楽しもうよ」
学校から二駅程離れたところにある、大分廃れた遊園地に向かう。小説のネタ探し兼夏休みだし、高校生らしいことがしたいというよくわからない彼の希望だった。ぼっち充の私に夏休みの予定なんてあるはずもなく、断る理由もなかったので同行することにした。
流石は夏休み。人は結構多かった。最初はメリーゴーラウンド。男子高校生が喜ぶものとは到底思えないが、それでも彼は楽しそうに馬にしがみついていた。ポップコーンを食しながらジェットコースターに乗りこむ。大人しそうに見えて彼は興奮した様子だった。もう一度乗ろうと言われたけれど、絶叫系がさほど得意でないのでお断りした。水族館コーナーでペンギンやよく分からない海にいる色とりどりの魚を見て、さか●クンもびっくりの歓声を上げた。高校生の男女が遊園地。通常ならばリア充の極みだろう。けれどどう考えても私には、小さい子供手を引いて遊んでいるという感覚しかなかった。
「うわぁー高い!」
もうすぐ5時。夏とはいえ少し日が落ちてくる。最後に乗るのは観覧車と決めていた。彼の強い希望で、緑色のゴンドラに乗りこむ。
「楽しかったなぁ……本当、お付き合いありがとう。いいもの書けそうだよ」
「よかったね」
ほとんど彼が勝手に楽しんでいたのだけれど。子守りはなかなかに大変だったけれど、自分も楽しんでいたから言わないでおく。
「……うん、僕、高校に入って良かった」
「え?」
「実は今日誘ったのは、もうひとつ理由があって、階条さんに言わなきゃならないことがあるからなんだ
……僕、来月から東京に行くよ」
「え……?」
「僕の作品を買ってくれている人……師匠と呼んでいる人の元で作家活動に専念させてもらうことにしたんだ」
ふと彼が嬉しそうに話していた三河孝一郎という作家の名前が頭に浮かんだ。恐らくその人が彼の師匠なのだろう。
「えっ、そんな急に?どうして」
「急じゃないんだ。実は高校に入る前に誘われていたんだけれど、どうしても高校生になるということを捨ててまで作品を書くという勇気がなかったんだ」
「普通の人はみんな高校生になる。周りから外れたことをすることに戸惑ってしまった、でもいざ高校に入学したらしたでとてもしんどかった。勉強も作品も中途半端になって、師匠に怒られたよ。やっぱり東京に来い、と何度も強く言われて……」
「僕は昔から体も強くなかったし、学校に毎日通えるような人じゃなかった。友達もいなかったし、それでも高校に入ったら、なにか変わるかもしれない、そんな期待を胸に進学の道を選んでしまった」
「けれど僕はやっぱ書くことが好きで、作家として名を馳せる夢も捨てきれなかった。それで、当初は進学したことを悔いたけれど、今は後悔していない。階条さんと過ごした数ヶ月間がそう言ってくれる」
「私……?」
「先生の指示とはいえ、僕に話しかけてくれた。そして気にかけてくれた。ノートを貸してくれた。なんだか気持ち悪く思われるかもしれませんが、すごくうれしかった。今まで気にかけてくれた人はいなかったし、僕の中で、今までで一番「学生」として生きた数ヶ月だったんだ」
「そんな私はただ……」
観覧車がてっぺんまで昇る。西日が彼の顔を、迷いのないその目をキラキラと輝かす。いつだって眩しかった。幽霊なんて思わない。才能を持ち、夢を追いかけ、好きな事に没頭する彼がいつも眩しかったのだ。
「階条さん、ありがとう。決心したよ。僕は書くことを諦められない。階条さんと
別れるのは残念だけれど、東京に行くよ。そして有名になります。いつか階条さんが本屋に行けばすぐに目につくところに本が並べられるくらい有名な作家に!」
「そ、そんな……」
「それに、会おうと思えばすぐに会えるよ、死別するわけじゃないんだから」
冗談交じりに彼が笑う。けれど、それは私には永遠に会えない別れの言葉のような気がしてならなかった。
東京に行くよ―――たった一瞬だったけれど、せっかく心を開いたのに。せっかく仲良くなれたと思ったのに。また色んなところに行きたかったのに。彼は夢に向かって前進していくのだ。止める術も権利もない私はただ降りていくしかない観覧車のなかで黙り込んだ。時が止まることはなく、残酷に過ぎていく。
遊園地を後にし、駅に向かう。彼と私の家の方向は正反対だから、どちらかが電車に乗ってしまえばそこでさよならだ。電光掲示板を見ると、彼の方の電車があと数分で到着する。ふと、彼が私の手を握って言った。ただ真剣に、私の目を見つめた。
「頑張って、階条さん。夢を持たなくてもいい、今がしんどくても、前に進むことを諦めないで。そうすればまた会える気がするから」
私はただ頷くことしかできなかった。彼の手が震えているのが分かる。不安もあるだろう。学校を辞めて、見知らぬ土地へ一人で足を運ぶ。母親も、知り合いもほとんどいない。信じるのは師匠の存在と、自分の心だけだ。
「さようなら」
電車が到着する。彼は乗り込むと悲しそうに手を振った。嫌だ、このまま何も言えずに見送るのは。
「柏木君!」
もうすぐ電車が発車する。もうきっと会えない。伝えなきゃ、後ろを振り向かず、前を見る決心を。あなたに励まされたことを、たくさんの感謝を。いつかあなたに誇れるような夢を持てるように頑張ることを。伝えたいことはたくさんあるのに、口が開かない。言葉が出てこない。やっと、やっと、飛び出したのはたった一言だけだった。
「がんばれ!」
夜風が冷たい。彼を乗せた電車はゆっくりと離れて行った。最後に見たのは笑顔だった。がんばるよ、そう言っているように見えてしかたがなかった。顔を上げられないまま、唇をかみしめても零れ落ちた涙は冷たいプラットホームの床に小さなシミを作った。夏休みが明けたら、あの席に彼の姿はもうないのだ。私の短い夏は終わってしまった。
重たい鞄を引っ提げて、電車に乗り込む。あれから私は貴重な青春時代を犠牲にし、狂ったのかと言われるほど猛勉強をして第一志望の国公立大学に合格した。それなりにうまくやっている。はずだ。
「理子―!絶対この髪型理子に似合うって!やってみなよ」
「やだよ、似合わないし」
書店でファッション誌を立ち読みする友人を余所に、私は論文に使えそうな本を無心に探していた。
「ねぇねぇ、これみてー!田中真也だよ!超カッコいいー!」
ミーハーな友人がカッコいいと主張しているのは今流行りの俳優だ。今放送されてる某ドラマで犯人役をしてたっけな。興味無いけど。その俳優は、眼鏡をかけ、本を片手に微笑んでいる。
「それ本の雑誌でしょ、優香本読まないじゃん」
「うん、つまんないもん」
全く、とため息をついたその時、私の目はある文字を捕えた。ばっと、友人からその雑誌を奪い取り、震える手でぱらぱらとめくる。
ドクン、心臓の音が聞こえるくらい早く、大きく脈打つ。そしてそのページに辿り着いた。
―――それでは本日は「ノスタルジア」で100万部突破!今最も注目されている作家ナンバーワン、大宮文太さんにお越しいただきました。
山下「本日はお忙しい中ありがとうございます」
大宮「いえ、こちらこそ。大したことはお答えできませんがよろしくお願いします」
―――大宮さんは中学二年生の時に賞を
受賞されたそうですが、そのときから明確に作家を目指されていたんですか?
大宮「そうですねー。実はそんなに真剣に考えていなくて(笑)作家になるのは夢でしたけれど、中学生の自分は進学することが一番と考えまして、普通に高校生になりました」
山下「そこで三河孝一郎さんから強烈なラブコールがあったのは有名な話ですよね」
大宮「ラブコールかは分かりませんけれど上京して創作活動に専念するよう強く勧められましたね。(笑)それが今の僕を作っているので師匠には感謝してもしきれませんよ」
山下「高校を中退されるのには勇気がいったでしょう?」
大宮「そうですね、普通の高校生活を夢見て進学を選んだので、決断にはかなり時間がかかりました。しかし、書くことを中途半端なものにしたくないと思い、上京を決心しました」
――――今回の作品について
山下「今回のこの『ノスタルジア』は大宮さんの中でどのような作品なんでしょうか?」
大宮「実はこれ、今までで一番思い入れのある作品なんです」
山下「なるほど。いつもミステリーを書かれている大宮さんのイメージとは少し違う作品だと言われていますね」
大宮「はい。実はこれ、とある人の為に書いたお話なんですよ」
山下「詳しくお聞かせ願いますか?」
大宮「はい。これは僕が高校生だったときからずっと考えていた作品なんです。こうやって世に出すのにかなりの時間を有して何度も書き直しました。僕至上最高の出来じゃないかな。……高校生だったとき、一度だけ女の子と遊園地に出かけたことがありましてね」
山下「おお、青春の記憶ですね」
大宮「そんな甘いものじゃないです(笑)その女の子がとあることで落ち込んでいて、元気を出してもらおうと思いきって誘ったんです。ところが僕にとって初めての遊園地にはしゃぎまくって彼女を振り回した記憶しかありません。その時の体験が元になったお話なんですね。その彼女だけには僕の夢を話していたんです。そして約束しました。有名な作家になってやる!と。今思えば恥ずかしいですね。彼女はがんばれ、と応援してくれました」
山下「それを叶えられたわけですね。すごいです。その方にこの本が渡るといいですね」
大宮「はい、それを願っています」
――――大宮さんありがとうございました。これからも素敵な作品を書いてください。以上、注目の作家インタビューのコーナーでした。
足が震え、涙がじわりと滲んだ。それを強引に拭い、文庫のコーナーに急ぐ。メリーゴーラウンドのかわいらしい絵が描かれた表紙の本を手に取り、あとがきを読んだ。
「……この本を製作するにあたり、担当の清水さん、三河孝一郎師匠、そしてたくさんの方に支えていただきました。ありがとうございます。そして、親愛なる某方へ。夢をかなえることができました。あなたのあの日のがんばれの声が、今でも耳に残っています。お元気でしょうか。いつかまた会える日を、あなたの夢をお聞きできる機会を待ちながら、小説を書き続けています。
大宮文太」
私はその場に崩れ落ちて泣いた。あの日言えなかった別れの辛さ、夢を叶えたことへの祝福の気持ち、そして私を忘れないでいたことへの感謝の気持ちが全て涙になって零れ落ちた。
こっちはそれなりにやってます、夢とか、やっぱりまだ分からないけど、とにかく今は前を向いて頑張って生きています。けれど、本当に伝えたいことは彼に届かないままだ。だって、東京はあまりにも遠すぎるのだから。
2013年に、高校の時に所属していた文芸部の部誌に載せたものです。
一番大好きな、思い出深い作品です。