撤退と過去
あの雨の日から数日たった早朝、巡は胸騒ぎがして飛び起きた。直ぐに辺りを見回して異変がないか確かめる。
しかし、皆が寝ているだけで、胸騒ぎの原因は見付けられずに巡は首を傾げた。共振の能力故か、周囲には敏感で自分の感覚に絶対的な信頼があったのだ。
杞憂である可能性は否めないが、巡は確信を得たくて皆が寝ている建物を後にした。
皆が出入りしている壁に擬態した扉の前に行ってみると、門番をしていた揺が不安そうな表情を向けてきた。
彼女はこのグループに属するもう一人の先祖返りだ。尖った耳によって、彼女が森人の先祖返りだと分かる。
彼女は、耳が良く十キロメートル先の声ですら聞き分けることが出来た。
揺は巡の能力の方が使い勝手が良さそうだと嘆くが、その能力を活かして門番を勤める彼女を誰もが尊敬していた。
「巡、誰か来るよ。それも沢山。多分、あと五キロくらいだと思う」
「……どんな?」
「綺麗に揃った足音だよ」
短い問いかけにも、巡と付き合いの長い揺は的確に答えることができた。その返答に巡は胸騒ぎの正体を悟った。
「皆を起こす」
「うん、分かったよ」
巡の言葉を正確にくみ取った揺は皆が眠る建物に向かって駆け出した。
それを見送った巡は、頭の中で安全な避難経路を検索する。元々ここに拠点を構えた時に、他にいくつか候補を見付けていたのだ。その中から比較的移動が容易な場所を選び出す。
そうこうしているうちに、揺が皆を連れて戻ってきた。全員必要最低限の荷物を持っていることを確認して、巡は満足気に頷いた。
「……撤退する」
「了解。揺、距離はあとどれくらい?」
「うーん、二キロないかも。移動が結構早いみたい」
揺が告げた言葉によって、皆の間に動揺がはしる。しかし、巡は慌てずに隠に手招きをした。
不思議そうな表情で近付いてくる隠に、巡は短時間で考えた作戦と避難経路を告げる。それは、彼が囮になっている隙に、隠に皆を導いてもらおうというものだった。足が不自由な代わりに常に様々なことに注意を配っている彼女ならばその役目を果たしてくれるだろうと考えたのだ。
「囮なんて絶対駄目だからね」
当然のように反発してくる隠に、巡は小さく笑ってその頭を撫でた。
「……新居で待っていて?」
ふわりと微笑んで告げられた言葉に、隠は二の句が継げなかった。こんな笑顔は久しぶりに見たのだ。そして、声にこそ出さないが、言葉の裏に隠れた「家族だから」という思いが素直に嬉しかった。
「……無茶だけは絶対にしない。良い? 約束だからね?」
「うん」
「巡が無理だと思ったらすぐに逃げること。その時は皆で戦うから」
「ん、分かった」
巡に約束させると、隠は一つ息を吸い込んでから皆に向かって言った。
「拠点を移すから私についてきて」
巡は拠点から誰も居なくなったことを確認すると、扉の真ん前に移動してから自分の行動のシュミレーションを行っていく。ひとまず納得がいった時、ちょうど扉の向こう側が騒がしくなった。
重厚感のある音が響いたことによって、彼らが壁を何かで攻撃していることが分かった。音の感じから侵入までさほど時間はかからないだろう。
巡の予想通りに、それから直ぐに大きな音を立てて壁が崩れた。向こうに見えた白い制服の集団に彼は「やはり」と思う。
――異端審問官。
どうやってここを突き止めたのかは分からないが、巡たちの暮らしを脅かしに来たのは間違いない。
「ほう? 一人だけなのか」
一番偉そうな男が呟く。そのあとに彼の口が「つまらん」と動いたのが巡には見えた。それから、彼の瞳に残忍な色が宿る瞬間も。
それを視認すると同時に巡は駆け出した。自分の目的は、隠たちとは別の方向に逃げて彼女たちを守ることだ。そのため、早く逃げればいいというものではないのだ。
「逃げるか。面白い」
巡のあとをゆっくりと歩いてくる男に不気味な何かを感じた。確かに巡は全力で走っているわけではない。だが、それでも少しずつ距離は開いていっている筈なのだ。なのに、何故彼は余裕の表情を浮かべている?
何かが水面下で進行しているような嫌な予感を抱きながらも、巡には今更別の作戦に切り替える余裕など存在しない。そのままいくつかの角を曲がったところで、巡は自らの失態を悟った。
その曲がり角の先に大量の騎士が居たのだ。あの審問官を率いていた人物の私兵だろうかと、頭の片隅で考える。
ご丁寧にも、先ほどから巡が好んで利用してきた手摺や屋根の近くにまで騎士は配置されていた。騎士がまだ巡に気付いていないのが不幸中の幸いだっだ。しかし、逆に言えば、ここに来ると確信していたわけではないのにこれだけの人員を配置できるだけの力が相手にあると示しているようなものでもあった。
彼らの目につかない場所を探していた巡は、その騎士の集団の更に向こうに鬱蒼とした森が広がっていることに気付いた。いつの間にか郊外の近くまで来ていたらしい。
見回りの騎士もいるため、ここで迷っていても見つかるのは時間の問題なので、一か八かの賭けに出ることにした。
巡は数回深呼吸をすると、息を止めてから森に駆け出したのだ。「足音は立てずに、尚且つ速く」と意識する。しかし、流石に距離的に誰にも気づかれずに行動することは厳しかったようで、騎士の一人が声を上げたことで再び巡は追われることとなった。
森に入ると、慣れない足場に騎士たちの移動速度が多少下がったが、安全と言えるほどの余裕はなかった。
その時、巡にとって最悪と言っていい事態が起こった。まだ遠くではあったが、彼の進行方向に白い服の集団が見えたのだ。
巡はそれに気付くと同時に決意した。
――共振を使うしかない。
そもそも共振というのは、大まかに二つのことが出来る力だ。
一つは相手の意図を受け取ること。もう一つは自分の気持ちを相手に押し付ける、というもの。巡は生活の糧のために主に後者の力を用いていた。
巡は共振を使うために目元の布に手をかけた。
同時に頭を過る情景。
目の前で弾けた赤。
力が効きすぎて付きまとってきた相手に、『一緒に居たくない』という気持ちを押し付けた結果の悲劇だった。過大解釈された気持ちによって、目の前で誰かが傷ついた光景は、幼い巡の心に大きなトラウマを残した。
それ以降、巡は共振を「人の意思を殺すもの」と考えるようになり、めっきりそれを使わなくなった。そして、その力の発動に必要な「言葉」もあまり発さなくなったのだった。