とある雨の日
鳥の囀りが聞こえ始める早朝、巡は一人布団から抜け出していた。朝の気配に包まれて、のんびりと日光浴をするのが彼の日課だった。
しかし、外に出て然程しない内に辺りが暗くなり出したので、巡は大人しく皆の所へ戻ることにした。
巡が建物の中に入ると同時に雨が降り始めた。大粒の雫が屋根に当たり、一帯は雨の音に支配された。
床に寝ている皆を踏まないように気を付けながら奥に向かう。巡は隠の側にたどり着くと、その肩を優しく叩いた。
「……んぅ? めぐり、なに?」
「今日、雨」
寝惚け眼を擦る隠に告げると、彼女は目をぱっちりと開いた。
隠は、雨が好きではないのだ。いや、寧ろ嫌いだった。
彼女が親に置き去りにされた日が雨だったからだ。異端は基本的に自我の芽生えが早いので、大半は自分の親のことを覚えている。
ついでに言うと、彼女は羊が混ざった亜人種なので、体質的にも湿気が苦手だ。
今は苦手意識くらいで済んでいるが、昔はもっと酷かった。雨の日には布団の塊になって視界を閉ざすのが、彼女にとって唯一の対処法だった。そんな彼女を巡の一言が変えた。
『虹はね、雨が降らないと見られないんだよ?』
そう言ってから巡は、毛布に埋もれた隠の耳元らしきところに顔を寄せて付け加える。
「隠、知っている? 虹はね、内側が紫のものと赤のものの二種類あるんだよ。ボクは、内側が紫のやつしか見たことはないんだけどね。……もし、赤い方のやつを見られたらボクに教えてほしいな。何か良いことがありそうな気がしない?」
そして、毛布ごと隠の頭を撫でながら囁いた。
「だから、雨の時も少しだけ頑張ってみない? そんなところに居たらもし虹が出ても分からないよ?」
もちろん今の隠には、それが巡の励ましであって虹を見ることに意味がないことくらい分かっている。それでも、雨の日は虹を探すために巡に起こしてもらうことにしている。
この幼い日の記憶は、隠にとっては大切な宝物なのだ。
隠を起こして役目を終えた巡は、何かすることがないかと辺りを見回す。ちょうどその時、扉を開く音が響いた。
「ただいまー!」
「……微、おかえり」
巡が人差し指を口元に立てながら声をかけると、微は「えへへ」と笑ってから「お口にチャック」の動作をした。
「パン買ってきたよ!」
「ん、おつかれ」
巡はそのままは部屋の中に入ってきそうな勢いの微の頭にタオルを被せて、雨で濡れた頭を拭いてやった。
潜が来た時に隠に食料の不足を告げられたが、何とか危機は脱していた。最近は、微をはじめとした年中組がどこからか食料を仕入れてくるようになったのだ。一度危ないことをしていないか心配になり、どうやっているのか聞いてみたが、「ヒミツ」と言われるだけだった。
巡としては、彼らが危険なことに手を出したりして傷つくことだけは避けたかった。一番与えて欲しかったはずの愛情を得られなかった彼らが、さらに傷つくのが巡には耐えられなかったのだ。
「ご飯にしよう。皆起こして」
巡の言葉に、微は頷いて一番近くに寝ていた少年の肩を揺すった。
「……包さん、調べてみたら本当っぽいですよぉ」
調は書類をファイリングしながら、背後に立った包に声をかけた。彼らに舞い込んできた情報により、丁度一緒にいた二人はこの件に協力して当たるようにとの指令があったのだ。確かに、地位があり動き安い包と、戦闘能力の高い調の組み合わせは的確だと言える。
「おっ、お疲れさん! で、ナチュラルに俺の隠密行動を見破るのは止めてくんねぇか?」
「だって、包さん気配分かりやすいですしねぇ」
「ちぇっ、つまんねぇの」
そう言いながらも、包は調の近くで気配を絶つことを止めないので、何だかんだと楽しんでいるのだろう。
「それで、いつ頃決行するんですかぁ?」
調が尋ねると、包は盛大に顔をしかめた。
「それがよぉ、丁度さっき連絡があったんだが、お偉いさんの息子が替わって欲しいって言ったんだと」
「そうですかぁ。……つまり、私たちにはお膳立てをしろってことですねぇ」
調は目をいつも以上に細くして呟いた。
「……そのやり口、気に食わないですねぇ」
そもそも、他人の努力をかっさらっていく時点で腹立たしいが、調が怒った理由は別にある。
基本的にこの国は、身分が高いほど選民意識が強いのだ。そのため、渦中の人物に処理を任せれば、どんな悲惨な事態になるか分かったものではない。
更に言うと、異端の拠点を暴くことすら、調には無意味なことに思われていた。
確かに、普通に生活をする上で、市井に全く頼らないで暮らしていくなんてほぼ不可能だ。だから、異端審問官としての職務に相反するということはない。だからといって、隠れ暮らしているものまで引き摺り出して裁くというのは些か傲慢が過ぎるのではないだろうか。
流石に、この国に暮らす以上、受け入れなければならないことなので反発こそしないが、常日頃から不満はあった。
その溜めていた数々の不満が調の中で小さな爆発を起こした。しかし、それに気が付いた者は居らず、包が微かに違和感を覚えただけだった。
「では、日程が決まったら教えて下さい。……その日、休暇とるので」
「お、おう」
目を開いて語尾を延ばさない調の言葉には妙な威圧感があり、包はただ頷くことしか出来なかった。