それぞれの一日
――桜丘時代元年、異端取締条例が改正された。
それまでも名目だけは存在しており、正に有名無実という状態であったが、この度の改正によりこの条例の意味が全く異なったものに変わった。
改正前は「危険な思考を持つ異端は要観察対象であり、改善の余地が見られない場合は相応の罰を与える」というものだったのに対し、「異端とは人に非ざるものである」という前文から始まり「以上はこれを排除することを目的とし、我らと同じ地を生きる権利を永久に認めず」と締め括られている。更に、この結論に至るまでの過程には、いかに異端が危険な存在であるかが事細かに記されていた。
そこで当然疑問視されるのは、何故突然このような大幅な改正が行われたのか、だ。
しかし、その理由はくだらない程に単純だ。
――政権交代をむかえたばかりの国のトップが異端をよしとしない……、いや、端的に言うと自分より優れた部分を持つ者のことが大嫌いだったからなのである。
異端。又の名を亜人種という。
彼らは歴史書にも残らないほどの昔、人類と共存してきた多種多様な種族の末裔であるらしい。
つまり生粋の人間と思われていた二人の間に異端が産まれることも、別段珍しくもない。
しかし、それは少なくともどちらかには異端の血が流れているということと同義である。そこから揉め事に発展し、子供は何処か遠くへと連れて行かれる。
ここで、異端の特徴を一つ挙げよう。
それは、彼らが早熟であるという点。
一般的な子供が言葉を発し始める時期の、実に半分程で彼らは喋り始める。そのためか、産まれた時から歯を持つ、所謂鬼子が多かった。
そんな彼らが社会に出てくることは極端に少ない。
先に挙げたように、一人立ちまで置いてくれる家の方が稀なのだ。
知性的な彼らは自らを捨てていく親の行動を理解しながらも、何もせず、ただただその大きな瞳に親だったものたちの姿を映し出す。大抵の親はその視線に耐えられずに逃げ出すので、彼らの末路を知る者は居ない。
薄暗い路地を一人の少年が進んでいく。年中光が差さず不法投棄や怪しい運び屋が蔓延るそこは子供には些か危ない場所だったが、彼の歩みを止める者は存在しない。
……いや、止められる者は、の方が正しいか。彼は屋根や手摺などの道ならぬ道を駆け抜けていたのだから。
やたらアクロバティックな動きをする少年の名前は、巡といった。彼は小さな体躯にみあわぬ大きな瞳で路地を隙の無い目付きで見ていた。いや、最早「睨んでいる」と表現する方が正しいかもしれない。
そんな彼の見た目は、彼の動きと同様に少々奇抜だった。
適当に布を合わせただけのような雑な造りのフードマント。口元には口が見えないほど厳重にマフラーが巻き付けられている。そして、何よりも異色な目元を覆い隠す布。
額から巻かれ左目に垂れた布は、巡の存在をより近付き難いものにしていた。よく見ると、その布は額の位置で微かに盛り上がっており下にある何かの存在を暗示していた。
「……」
止まることなど無いと思われた巡だが、その瞳が路地のとある場所を滑ると同時にぴたりと動きを止めた。
それを見た巡は、無表情で「それ」を抱き上げると歩みを再開した。しかし、今度はゆっくりと道のど真ん中を通って。
腕の中の存在が、間違っても怪我などしないように。
もし、先程の巡の表情を、彼をよく知る者が見たら口を揃えてこう言っただろう。
――巡が激怒している、と。
同時刻。表通りにて、一人の青年がぼんやりとした表情で道の端に立っていた。
まるで笑みを浮かべているかのような細い目の彼の名は、調といった。彼の着ている服は軍服のようなデザインであった。しかし、彼の存在に気を留める者はいない。何故なら、その服装から彼の所属は明らかであり、市民を害することはないと誰もが知っていたからだ。
彼は、異端審問官と呼ばれる職業に就いていた。当然この職がまともに機能し始めたのは、この度の改正以降である。
異端審問官とは、その名の通り異端を取り締まる職である。少ないとはいえ、市井に紛れる異端は後を絶たない。それを見つけ、時には裁判にかけることが異端審問官の主な仕事なのだ。
しかし、彼は異端を見付けることに然程興味を示さなかった。彼の中では異端も一般市民も同じ人間だったのだ。勿論、そのようなことを言えば彼自身も異端審問にかけられるのでその考えを口にすることはないのだが。
現在の調は勤務時間外であった。先程も述べたように異端を見付けることに興味を持たない彼は、勤務時間とそれ以外の時間を完全に区別していた。万一、勤務時間外の調の眼前を異端が通過しても、彼は追いかけようとはしないのだ。
唯一の例外は、その異端が危険思考の持ち主……、つまり、改正前の刑罰対象にあたる場合のみという徹底ぶりだ。
「……鳥たちがざわめいていますねぇ」
調は空を仰いで呟いた。彼の視線の先には、清々しいまでの青と小鳥たちの姿があった。
調は視線を正面に戻すと、何気ない風を装って右腕を横に広げた。
「まったく……、折角の休日を邪魔しないでいただきたいものです」
「……ぐっ」
調の真横を駆け抜けていったのは、現在対策チームを組織するに至ったほどの凶悪な異端。詳細は省くが、様々な家に潜り込んでは窃盗と暴力を繰り返していた人物である。
「あーあ、休日返上ですかねぇ……」
そうぼやいた調の右の拳は、寸分違わず彼の人物の鳩尾に決まっていた。