二十八ノ怪
少年はわたしの背後を指さした。
『最後の鏡は川の向こうにある』
「川の向こう?」
『川を渡ってさらに大きな川があるから、その三角州に石で出来た社に行くと良い』
「分かった……あ、ううん、分かりました。ありがとうございます」
『普通に話してくれて良い』
ふわりと笑った顔に自然とこちらも驚きが顔に出てしまう。そして『なんだか可愛い』と彼のその屈託のない笑みを見て、思わずそう思ってしまった。だって彼が嬉しそうに笑った顔を見たのが、多分初めてだったから。
「それじゃあ、行ってくるね」
『……気をつけて』
「うん」
『あぁそうだ。待って』
勇んで歩き出そうとしたわたしだが、少年から声をかけられ振り向いた。
「ん? なに?」
『これを持っておくと良い』
そう言って彼は小さな継ぎはぎだらけの茶色の巾着を渡してきた。中にはなにか硬い物が入っているようで、布越しに手でなぞると、表面はツルツルとしているようで指先が滑った。
「これは何?」
『お守り』
「お守り?」
『婆様が下さったものなんだ。きっと役に立つから』
婆様って、もしかしてわたしが一番最初にこの村に来た時に見た小屋で聞いた、あのお婆さんの声の人かな。
「そんな大事な物を貰っても良いの?」
『持っていて欲しい。……一緒に連れて行ってやって』
また優しく微笑みを浮かばせながら、強い意志の籠った目でわたしを見た。
お婆さんは贄として彼を育てていたのに、お守りを渡していたんだ。もしかしたら、お婆さんだけは、少なくとも少年のことを案じていたのかもしれない。
「分かった。しっかり持っていくからね」
失くさないように巾着の紐の部分を帯に縛り付けて、さらに巾着を帯の間に押し込んだ。
「行ってきます」
少年の顔をしかと見つめてから、わたしは振り返って駆けだした。
後ろから『行ってらっしゃい』との声が追いかけてきた直後、忘れていた豪雨の音が耳に戻ってきた。
強い雨風は全てを叩きつけている。でもこれも、あと少しで終わるんだ。
雨や風で足をとられ、身体が左右に揺さぶられながら、わたしは歯を食いしばって少年の指した川をめざして歩き続けた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
草道を抜け、泥道を進み、ようやく砂利道まで辿りつく。
目の前は氾濫して流れの早くなった川が、蛇のようにうねりながら横たわっていた。
深さは分からない。泥水で濁っているせいで底が見えないのだ。
ただ多少の深さだとしても、この早さだ。足を持って行かれる可能性だってある。
どこか渡れそうな所は無いかな。
ぐるりと辺りをめぐらせると、やや上流の方で幅が狭くなっているところがあった。
あそこなら飛び越えていけるかも。
すぐにそこへ向かい、足場を確認する。
助走なしでギリギリ飛んで移れるかもしれないけど、足元が濡れた岩だからちょっと怖い。転ぶかもしれない。
でもここで四の五の考えている余裕は無い。躊躇っている暇は無いんだ。
砂利道を転びながら進んで、平らな岩の傍へ寄る。
やや上向きに傾いているから、下手をしない限りは向こう側へ跳べるだろう。
深く息を吸って吸い込む。岩に足を掛けて、思い切り蹴った。
わたしの身体はよろける事なく、向こう岸へと移る事が出来た。少し足をくじいたが、そんなに酷くはなさそうだ。
この先にまた大きな川があるんだよね。そこの三角州に行けば石のお社がある。
それで最後だ。
足に向けていた顔を上げた。その時に、自分の目の前に影が写り込んだ。
一瞬だった。横へ弾かれ、砂利の上に何度も転がる。全身痛くて、何が起きたのかも分からなくて、わたしは強く目を閉じていた。
「鈴音!」
聞き慣れた声がした。その直後に、飛び越えたばかりの川に、何かが激しく落ちたか弾けたかして、爆音と水飛沫が辺りに広がった。
「痛……っ」
手のひらや膝が痛かった。全身痛いのだけれど、特にその二か所が痛くて堪らなかった。
顔を痛みに歪ませながら目を見開くと、爆音がした所には銀の鱗を血で染められた長い胴体が横たわり、次の瞬間には激しく波打って血を撒き散らした。
雷鳴と一緒に、鳥や獣、人の断末魔の様な声が入り混じった咆哮が鼓膜を揺らした。
胴体の、鱗の流れとは逆の方へと目を上げて行けば、そこには赤黒く染まった、顔の抉れた龍が狂気でぎらついた目でわたしを見ていた。
「ぐ……ぁ……え……さ、ま……」
血を吹きながら銀色の鱗の隙間から赤黒い液体を撒き散らし、こちらへにじり寄ろうと身をよじった。
しかし、それを遮ったのは鬼さんだった。
逞しい足で血まみれの龍の口に踵落としを喰らわすと、牙とも口とも判別のできない白銀から鮮血が散った。
「大丈夫カ?」
大きく飛び退いた鬼さんがわたしの傍らに立つと、雨に濡れた前髪を掻きあげながら訊いてきた。
「はい、なんとか大丈夫です」
痛くて堪らないのが本音だけれども、今の状況ならこの程度の怪我は『無事』の範疇だ。
「ソウカ。それで状況はドウダ?」
「四ヶ所は終わりました。あとは……」
最後はまだ見つけていないけれど、この近くに有るはずだ。この川の向こうにあるもう一つの川の三角州に行ってお社を見つければ全て揃う。
「最後の場所は分かっているのカ?」
「この川の近くの三角州にあります」
「ソウカ」
短く答えた後、鬼さんが珍しく大きく息を吹くと、妖しい紅の光をさらに強め身構えた。
「俺がコイツをここで足止めしておく。お前その間急いで行ってこい」
言ったすぐ後には鬼さんはわたしから姿を消し、龍の咆哮があたりに轟いた。
グズグズしている暇はない。早く行かないと。鬼さんも相当手こずっているのか、声には疲労のようなものが含まれていた。
ドンと振動がして地面が揺れる。魚さんが尾を思い切り叩きつけたんだろう。それに呼応するかのように川や水たまりの水が大きく跳ね上がる。
紅と銀が血や水を撒き散らしながら争う光景に腰が引けつつも、わたしは川の向こうへと走り出した。
鳴り止まない雷鳴や轟音が体の芯から震えさせるが、わたしはそれでも走り続けた。
そうしたらやっと、視界の悪い灰色の景色のむこうに小さな川と石で出来たお社が見えてきたのだ。
良かった! そう遠くなかったんだ!
視界が良ければもっと早く見つけることは出来たんだろうけれど、不幸中の幸いといっていいのか、時間をかけず運良く見つけることが出来たようだ。
小さな川は流れは早いけれど、飛び越えるのにそう苦労はいらず、ヘロヘロなわたしでも飛び越えることが出来た。
あれ? でも確か大きな川って言っていたけれど、これは全く大きくなんてない。小川というのにぴったりな大きさだ。
もしかして場所を間違えた?
不安になり川の様子を見ると、小川は大きな川の水位が極端に少なくなったかのように、大きく地面を抉った底に水を走らせていた。
魚さんが大きな川の水を使って、鬼さんに攻撃を仕掛けていたからこんな水がない川になっているのかな。
しかもこんな大雨が降っているのに水かさが増えないだなんて。
訝しんで川を見ていたら、また大きく地鳴りが起こった。その衝撃に我に返り、急いで石のお社へと寄った。
石で出来ているせいもあってか、小さな作りなのにどこも傷んでいる様子はなかった。
他のお社と違って石造りのせいか扉は蓋のようになっており、取っ手を握り手元へ引けば、ゴリゴリと音を立てて外れた。
中には小さくて丸い、紐と鈴の装飾が付けられた鏡が納められていた。
「これで最後……!」
どうかどうか、お願いです。
これであの狂ってしまった銀色の鬼を、白銀の龍を抑えてください。これ以上この村を苦しめず、悲しんだり傷つく人や妖を増やさないように、お力をお貸し下さい。
朔紅童子たちの無念を、願いを昇華させてください。
鞘から退魔の剣を取り出し、鏡に捧げる。そして彼から受け取ったお守りも一緒に供えた。
彼らの心を汲んで欲しくて鏡に願いを託した。
突然辺りが真っ白になった。いや、真っ白と言っていいのか、眩しい光がわたしの周りの景色や音すらもかき消してしまったかのような、とにかく光しかない光景が瞬時に広がったのだ。
すぐ瞼を閉じてみても、その上から腕で強い光から庇おうとしても、それは意味を成さず、目が文字通り灼けてしまうような感覚だった。
目が、目が熱い! 眩しすぎて痛い……!
このままだと失明してしまう……いや、もしかしてさっきの光でもう目が見えていないんじゃ。
焦りと冷たいものが背筋を撫でたが、少なくとも光は分かっているんだし、失明したら視界はむしろ真っ暗になるだろう。
もう少ししたら状況が見えてくるかもしれない。
だんだんと落ち着きを取り戻していけば、それと比例するかのように光も鳴りを潜めていった。
目はまだチカチカとするが、もう手で庇うほどでもなくなった時、わたしは恐る恐る目を目を開いた。
雨はもう降っていなかった。
川の流れも勢いを無くし、静かに泥の混じった水を流すだけ。空を見上げれ重そうな雲は消え去って湖面のような暗い空が見えるだけだった。
状況は良くなったはずなのに、なんでだろう。気味が悪い。
常闇の空気とは真逆の物なんだろうけれど、いやに緊張するというかピンと空気が張り詰めている。
動けずに固まっていると、お社からコロンと乾いた音がして目を向けた。
退魔の剣が鏡の台座の前から転がり落ちたようだった。
鏡を見てみる。輝き光を放ってはいるが、やはりとても静かだった。
自然とわたしは両手を合わせて深く頭を下げていた。とてつもない大きな、それでいて神聖なものを前にした気がして、畏れを抱いたからだ。
退魔の剣を握り締めて用心して歩いていく。
辺りは水を打ったように、異様に静かだった。
川も穏やかとは言え、水が流れているはずなのに音がしない。わたしが歩き出しても、足音の小石は何も言わない。
耳が痛くなるほど圧迫感のある、深い水底のように静かだった。
「あ……!」
思わず声が出た。
さっきまで鬼さんと魚さんが戦っていた場所。そこには血があちこちに飛び散って、血だまりもいくつか広がっていた。
そしてそこから遠くない場所で、二つの影が見えたのだ。
急いでそこへ駆け寄ると、元の姿に戻り、血でまみれた魚さんが異様な姿でビクビクと痙攣していた。
血で染まりながらも鱗は白銀を煌めかせて、鱗と鱗の間から見える赤い血がより際立って見えた。体の輪郭は鏡が発したものと同じ光が纏っていて、それが魚さんを苦しめているように見えた。
「さ、魚さん……」
魚さんは手足がなかった。ただその代わりに一本の鋭い角が頭から伸びていて、背中や太ももあたりには水掻きのようなヒレがついていた。
そして顔は…………
魚さんの口のようなものが動いた。そこから血が泥のようにゴボリと零れ落ち、赤黒い塊が小石の上に転がった。
思わず目を逸らした。
あまりにも、惨すぎて。正直恐怖と吐き気がお腹の底からせり上がってきそうになるほど。
「上手くやったナァ……」
聞こえた声に顔を上げた。
そこには大きな岩に、背を預けた鬼さんが座り込んでいた。
「ご覧のトオり、俺もこのザマよ」
そう言われて鬼さんをよく見れば、鬼さんの体の輪郭も淡く光っていた。
鬼さんの半身に広がる模様も、苦しんでいるかのようにずっと模様を次から次へと変えて藻掻いているかのように動き続けていた。
鬼さんもタダじゃ済まないというのは、こういうことだったんだ。
鬼さんの方が手負いが少ないせいなのか、はたまた鬼さんがまた何かしらの対策をしたせいかのか、魚さんほど辛くはないようだった。
チラッと魚さんに目だけを向けると、妖しい紅を細い三日月のようにして笑を深めた。
「アレならもうアイツはまさに手も足も出ないって奴だ。マァ……出せる手も足も、もう無いがナァ」
「鬼さんは大丈夫なんですか? 動けないんですか?」
鬼さんの不穏な気配に怯むが、やっぱり心配は心配なので無事を確認する。鬼さんも血まみれなのだけれど、鬼さんの血なのか魚さんの血なのかよく分からない。
ただ見た目的には酷く疲れているのか、痛手を受けているように見える。
「マァ動けなくもナイ」
「でも動いたら危ないんですよね? 安静にしてて下さい」
なにか手当出来るものがあれば良いんだけれど、生憎そんなものは持っていない。
どうしようかと考えていると、不意に鬼さんがわたしの腕を痛いくらい掴んだ。
「鈴音。悠長なことヤってる場合じゃないダロウ」
「え?」
「今が絶好の好機カナ」
グッと妖しい紅が鋭利な刃物のようにキツく細められた。
「魚を――殺セ」




