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妖しい銀  作者: 月猫百歩
波紋ノ輪
53/63

二十一ノ怪


 小さな真珠のような泡が幾つも自分を取り囲んでは消えていく。

 体を刺す水の冷たさは鬼から受けた斬撃も忘れる位に自分の意識を持って行かれた。


 それでもジワジワと胸に受けた衝撃が体に染み入って、紅い閃光が目蓋の裏で瞬く度にわたしに訴える。


 空虚なこの穴から出ていきたい。此処には二度と戻りたくない。自由になりたい。

 己が強く願ったこの思い。だからこそ手放せば、籠の雀は永遠に帰ってこない事は容易に思い至る。


 そんな苦く紅い思いがわたしの胸に痛みを与えながら、訴えるのだ。


  

 小石が広がる水底に、背中が静かに沈み込んで行き着いた。

 痛みは寒さの方が勝るせいか、衝撃はあったものの痛みはあまり感じない。

 

 口から僅かな酸素が零れ出る。

 体は重いし、意識は今にも途切れそうで目眩までしてくる。


 それでも退魔の剣だけは手放していなかった。


 右手だけ別の意思が働いているみたいに、力強く木で出来た柄を握り締めてしっかりと手の内に収めていたのだ。



 早く……水面に上がらないと……



 体を回転させて重い足を水底へつき、なけなしの力を振り絞って蹴りつけた。

 それでも少ししか体は上がらず、また体は沈み始めた。

 

 息が苦しい……


 両手で口を塞いでも酸素はもう無い。意識も途切れそうだ。

 苦しさに一瞬目の前が真っ暗になりかけた時、急に首を掴まれ、物凄い勢いで水面に打ち上げられた。


「うっ、げぇっほ…っ、けほっ……はぁっ」


 衣服から豪快に水が垂れる音を耳にしながら盛大に咽せ、それから大きく何度も息を吸い込んだ。


「マッタク。お前は本っ当に頑固雀ダナ」


 呆れた声が聞こえ、地面の上に投げ出された。

 痛いには痛いけれど、それよりも肺に酸素を送る方に忙しくて、既に痛みはもうどうでも良かった。


「俺の一撃を受けても尚ソイツを手放さんカァ。余程俺に楯突きたいようだナ」


 パキッと拳の鳴る音がした。


「今度は加減しないゾ。さっさとソイツを捨てンなら、お前の右手を切り落とすマデだ」


 不穏な物言いに反応したかったけれど、視界がグニャグニャして動けない。

 しかも鬼さんの声が変に反響するように聞こえてきて、より思考もぼやけてくる。


 もう今回ばかりは動けない……ダメかも。

 だってもう、足も指も、頭を上げる力すら残っていない。


 うつ伏せになってジッと動けないでいると、歪んだ視界に鬼さんの鋭い爪先が見えた。

 わたしは大股に近づいてくるのそれをただ見つめ、目の前で止まった時には、横を向いていた顎を掴まれていた。


「……鈴音」


 呼ばれ、口を動かそうとしても声が出てこなかった。目蓋もなんだか重い。


「ソイツを、退魔の剣を放せ」


 右手を動かそうとした。けれど、石像のように固まった手は剣を手放さなかった。

 口を動かして鬼さんに伝えようとしても、金魚のように口がパクパクとするだけで意味を成さなかった。


 力強い大きな手がわたしの右腕をがしりと掴んだ。それはもう、骨が軋み肌に食い込むくらいに。


「五体満足で飼ってヤリたかったガナ」


 呟いて、鬼さんの片手が上がった。

 わたしは静かに目を閉じた。鬼さんのその腕が振り下ろされるのを、漠然とした意識の中で受け止めようとしていた。


 なんとしても譲れないと自己主張した結果がこれか。

 虚しさにも似た気持ちに諦めも混じり、体から力が抜けた。


 空気が動いた気配がした。

 でもそれと同時に、突如わたしの右腕が自分の力とは思えないような動きで鬼さんの手からするりと逃れ、そして――


「……え?」


 一瞬のことだった。

 木で出来た退魔の剣は、うつ伏せの格好でいたわたしの背中を、器用にも刺したのだ。 

 

 勿論木で出来ているのだから、わたしの背が切りつけられる事はなかった。でもわたしの背中には、もう一つある物があったのだ。


「ぐっ」


 ボタボタとわたしの頭や背中に生暖かい大量の液体が降り注がれた。

 頭の皮膚から額に伝わり、頬を横切ったところで、それが血なのだとようやく分かった。


「……お前っ、なんでソレを!」


 わたしの背中に無理に押し込んでいたもの。

 それは足場の悪い坂道を上っていた時に見つけた、藁人形だった。


 中身は鋭い爪に呪符のようなものが書かれた御札が入っていた。ただその爪に見覚えがあり、直感的にこれは鬼さんのものだと分かってしまったのだ。

 そう思えばわたしは無意識のうちにそれを拾い上げ、ワンピースの背中へと無理やり押し込めていた。


 そして退魔の剣はわたしの背中にあったその藁人形を、まるで狙いすましたかのように一直線に貫いたのだ。


「お、鬼さん……」


 歪む視界でなんとか顔を上げると、鬼さんはこれ以上ないくらいに顔を歪ませて、口から鼻から血を流していた。


「鬼さん、どうして」 


「は!? バカが! お前がヤったんだろうガ!」


「そんな……」


 確かにこの剣を放さなかったのはわたしではあるけれど、先程からわたしの意思とは関係なく退魔の剣を握る手が勝手に動いてしまうだけで、刺そうと思って刺したんじゃない。


 一体どうして……



『大穴様』


 ひやりとした気配と共に、何人もの幼い声が重なる声が暗い空間に響く。

 霞む目で声が聞こえたほうを向くと、鎮座する骸骨の子の横にあの死装束の子がぼんやりと立っていたのだ。  


「朔紅童子……?」


 鬼さんに体を捧げた子?

 でもなんだろう。見えてる姿は一人なのに、彼の纏う気配は幾人もの存在が見え隠れする。


『大穴様。我ら一族の願いを果たして下さいまして、これ以上にない感謝の意を申し上げます。……ですが』


 カシャンと骸骨の骨が軋んだ。


『契は果たされた村はかつての過去を繰り返し、その時から抜け出せず我ら一族の無念は残されたまま。最後に死を迎えども、あの畜生にも劣る外道供もあの頃と同様快楽を貪り、また死した後も繰り返すのです』


 動かない体の代わりに目を必死で彼らに向ける。

 仄暗く冷たい視線と表情は鬼さんを見据え、淡々とした口調で告げていく。


「お前ガ何故ここに……未練たらしくこの村に留まっていたのカ」


『先ほど申したように、縛られているのです大穴様。我々は一族郎党死を覚悟し、貴方様に願いを託したのです。しかし彼らの傲慢と貪欲さに、死して尚、逃げられなかったのです』


 少年の、朔紅童子の話を聞いてわたしが村で見てきたあの光景を思い出す。

 女性たちや子供たちが悲惨な目に遭い、上の村人たちは彼らを人として扱わなかった。


 目の前の少年達は一族みんなが死を代償として、村人達に復讐する事を鬼さんにお願いした。

 でもそれにも関わらず、結局死後も苦しめられていたんだ。 



『これ以上闇を深くする訳には参りません。再びあの魚の妖のような者が来る前に、大穴様共々、村は再び滅んで然るべきなのです』


 ついと、わたしに彼の虚ろな目が向けられた。


『幸いにも、日向溢れる人間がこの場にいる。闇に染まった者や怨霊しか迷い込まぬこの村に、日向の者がいるのです』


 右手がまた自分の意志とは関係なく、おもむろに背中から外れて地面の上に置かれた。

 目の前に現れた木の剣は、藁人形を突き刺しただけの筈なのに、血で真っ赤に染まっていた。


『畏れ多くも終わりにして頂きたく思います。最早この地は穢れから耐えられぬのです。ほんの刹那とは言え、退魔の剣があるにも関わらず、妖をこの場に踏み込ませてしまったのですから』


 あぁ、そっか。言われてみれば確かに。

 魚さんがどうやってこの洞窟にまで辿り着いたのかずっと謎だった。


 あのお爺さんの妖怪も、この退魔の剣があるせいでここには入れないと言っていたのに、魚さんは水が汚れていたとは言え、退魔の剣に守られていたこの場所へ入ってこられたんだから。


『ネェ鬼に囚われた貴女。どうかこの鬼を葬り、日の下へ帰ると良い』


「……え?」


 急に水を向けられ半開きになっていた目が、少しだけ持ち上がった。

 口調は鬼さんと話していたものとは変わり、ずっとわたしに語りかけてきたものになっていた。


『退魔の剣を以てして鬼を滅し、この集落を浄化すれば我ら一族の魂は解放される。死しても黄泉へと逝けず、嬲り続けられる我らを救って欲しい』


「な、なに、何を言って……」


『大穴様を、この紅い鬼を殺して欲しい』


 小さく掠れた悲鳴が喉から僅かに零れた。

 鬼さんを殺す? そんな事、出来っこない!


「鈴音ぇ……」


 獣が唸るような声がすぐ真上で聞こえてきた。

 目をやれば、あの時と同じに、いやそれ以上に苦しげに血を流す紅い鬼がわたしを鋭く見下ろしていた。


「お前ぇ、コイツと、そんな話をしていたのカッ」


 ち、違う!

 わたしは必死に力を振り絞って顔を左右に振った。 


『哀れなお人。さぞ大穴様に苦しめられ、虐げられてきたんでしょう。我々が、あの血の通った人間とも思えぬあいつ等から受けてきた仕打ちを、この紅い鬼からきっと日々与えられてきたのだと想像できる。でも、今この場でその鬼を退治すれば、あなたは解放される』


 限界を超えたはずの意識は驚きと思わぬ展開に、じりじりと戻ってきた。

 

 鬼さんを殺す? 鬼さんを殺して自由になる?

 揺れる瞳で鬼さんのほうを見れば、痛々しげで今もなお止めど無く血を鼻と口から垂れ流している。


「鈴音ぇ……お前、俺がお前の真名持っているのを忘れちゃイナイだろうナァ……」


 立っているのが辛くなったのか、鬼さんがすぐ傍らで膝をついた。その分鬼さんの怒りを含んだ声が耳のすぐ傍で聴こえてくる。


『心配いらない。大穴様の真名を知っているのであれば、奪い返す方法はある。鬼の真名を教えたように、それも教え――』


 彼の声は、突然、湧き上がった大波の音でかき消された。

 浄化した水は大きく乱れ、瞬く間に赤茶色の濁流に呑まれて変色し、瞬く間にわたしの所まで一気に押し寄せてきた。


 何が……


 状況を理解している暇もなく、ずっと鎮座していた骸骨が目の前で崩れていくのを目にし、汚泥と化した渦の中へと飲み込まれていく。


 うねる波間に見えた銀色の影。

 まさか。そんなはずは無いのに。どうしてここに?


 青褪めているとガシャンと骨が折れる音がした。

 何度も何度も、バキバキと音を立てて何者かが鎮座していた彼を食い荒らしている音が聞こえてきた。


 ここはもう澄んだ水だと知っている筈なのに。

 彼はもう正気すら失って、痛みや恐れも分からなくなっているというのだろうか。

 そこまでして力を得たいというのだろうか。


 妖しい銀の鱗が煌くのを見て、わたしは背筋が凍った。

 なんだろう。どこまでも、どこまでも。あの銀色の鬼は追いかけてくる。

 その身が削れて崩れかけているというのに、あの痛手を負った体を引きずってここまで追ってきたんだ。



「クソが! 鈴音っ!」


 罵声と共に担ぎ上げられる。

 何も反応する事も出来ず、わたしはされるがまま大きな肩に乗せられ、忙しない動きで走る紅い足を目の下に捉えた。


 筋肉質な脚が動くたびに、ポツポツと肌の色と違う紅い雫が垂れて落ちていく。


 右手に未だに強く握り込んでいる木製の剣。

 刃もなく丸みがあるのに、今しがた切れ味の良いその刃で、獲物を切ったばかりの雰囲気を漂わせている。



『大穴様を、鬼を殺して欲しい』


 生贄として生きてきた朔紅童子だった少年の声が頭の中で何度も反芻する。


 わたしが鬼さんを殺す?

 さっきのあれは……わたしが鬼さんを刺した? わたしが鬼さんを、殺そうとした?



 あれだけ嫌って怨みまで抱いたことのある相手だというのに。わたしは朦朧とした意識であるにも関わらず、何故だかひどく狼狽し、言いようのない感覚に襲われていた。


 今もなお、怒り心頭な気持ちを抱いているのであろうに、必死にわたしを担いで走る大きな背中と熱い体温に、わたしは自然と胸の内が苦しく締め付けられていた。



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