二十ノ怪
一回二回と続けざまに鬼さんの放つ斬撃が飛んできた。
最初の攻撃は耐えられた。でも次の攻撃には踏ん張れず、わたしはその場で尻餅をついた。
まずい。
慌てて立ち上がろうと短剣を構えて振り返る。でも鬼さんは先程からその場に立つばかりで近寄っては来ない。
思えば攻撃も遠距離なものばかりで、直接的な攻撃は先程からまったく無い。
また鬼さんが腕を振り下ろした。
紅い閃光か真っ直ぐに自分へ向かってくるが、これも退魔の剣を掲げて踏ん張り防いだ。
腕はやっぱり痛い。けどこの退魔の剣、思っていたよりずっと強力な代物なのかも。
結界や除霊的な力以外にも、妖怪達に大きなダメージを与える事が出来るのかもしれない。
だからそれを知っている鬼さんは、わたしに安易に近寄ってこない、ううん近寄って来ることが出来ないんだ。
しっかり短剣を握り直して、次の攻撃に備えた。
腕を着いてなんとか体勢を立て直す。
どうする? こちらからも攻撃して、みる?
鬼さんの冷たく光る爪や角を見てそんな考えが一瞬頭を過る。
……いや、駄目だ。そんな事はしちゃいけない。
わたしはあくまでも話がしたいだけだ。
それなのに一度でも攻撃した日には、わたしが何を言っても鬼さんが聞いてくれなくなってしまう。
それでは駄目なのだ。
ギリと歯を食いしばり頭に浮かんだ物を払拭する。
わたしは鬼さんと争うのでは無く、話をしたい。話がしたいんだ。
「ドウあっても俺を殺したいらしいナァ」
獣が唸るような声に、肩がビクッと跳ねて顔を上げる。
わたしの決意がどう鬼さんに映ったのか、鋭い気配と視線に胸が痛み、わたしはすぐに顔を横へ何度も振った。
「ち、違います! 鬼さん話を聞いてください! わたしは鬼さんに危害を加える気はありません。あくまで護身用として持っていたいんです」
「ドウダカナ……」
湖面のような光り方だった。
鬼さんらしくもない、どこか哀愁のある眼差しだった。
それでも怒気や殺気は収まらず、ずっと蜃気楼のような歪みで輪郭をぼやかしながら、爪に力を込めていた。
「どうしたら信じてくれるんです!?」
鋭い爪が宙を薙ぎ払う。突風が生まれて空気を裂いてわたしへ向かった。
体を縮こませて身構えれば、自分の周囲に大きな爪痕が刻まれ、派手に小石が飛び跳ねた。
「お、鬼さん……」
わたしは鬼さんを脅す気なんてなかった。ただ乱暴な事はもうやめて欲しかった。
それだけだったのに……
「誤解を生むような事を言ってしまったなら、ごめんなさい。謝ります」
訴えるが冷たい眼差しを向けられるだけで、わたしの気持ちが伝わった様子はない。
再度筋肉質な腕に力を込めたのを見て、わたしは乾いた喉で唾を飲み込んだ。
「わたしは本当に、鬼さんや他の妖怪を傷つけようと思っていません」
誤解を解こうと必死に言い募る。
勿論また鬼さんが誰かに酷い事をしようとしたら止めに入るつもりではいるけど。
でもそうで無いのであるのだったら、わたしはいつものように鬼さんの傍でお酌をしていくつもりだ。
「鬼さん。お願いです……これを持ってお屋敷に戻らせて下さい。これを持ってお屋敷に入るなと言うのなら、別の場所で大人しくしていますから」
「別の場所、ネェ……」
今の言葉選びはまずかったかな。鬼さんの皮肉そうな笑みに背筋を冷たくさせた。
「あのわた……っ!?」
突然ガクッと膝が崩れた。な、なに?
立ち上がろうと足に力を込めるも、過度な疲労からか、驚く程足が震えて立てなかったのだ。
嘘でしょ。
足の震えだけじゃない。
立ち上がる際に体を支えようとして地面に着いていた腕すらも震え、わたしはその場から動けなくなってしまった。
「そんな」
こんな時に限って、なんてタイミングが悪いんだろう。
その場で座ってしまったせいだからか。
疲労困憊という言葉では足りないくらい疲れ果てた体は、わたしの意思と反して動いてくれない。
「立てないのカ?」
ジャリっと地面を踏む音が聞こえた。
焦る気持ちにさらに追い打ちをかけられ、わたしはその場でみっともなく這いつくばる姿勢で、四肢を震わせながら後退した。
「ソイツがあるからといって、俺を負かせると思うホド鈴音は阿呆では無いダロ?」
体が動かない。立てない。
じりじりと後ろへ体を引きずれば、つま先が水に触れた。
後ろを振り向く。これ以上後ろに行けば暗くて見通しの悪い水しかない。
退魔の剣を握り締め、また距離を詰めてきた鬼さんを見る。
鬼さんが一歩前に足を進めただけなのに、それがとても自分にとっては大きな前進に見えて、戦慄した。
「オイ」
「来ないで下さい!」
迫る姿に裏返った声で叫ぶ。
心臓がうるさいぐらいに鳴って気持ちが悪い。
どうして? 鬼さんはさっきまで近寄ってこなかったのに。
もしかして剣の威力が弱まった? それとも当てが外れて、そこまで強い威力はなかったって事?
「朔紅童子大穴ノ口」
完全にパニック状態になりながらもう一度口にして、痛いくらい再度剣を握り締めた。それでも鬼さんが退く気配も無く、不機嫌そうな眉間の皺が増えたくらいで状況は変わらない。
「朔紅童子、大穴ノ口」
頭がくらくらする。血の気が引いていく。
後ろは暗い水が広がるだけ。最悪水の中に浸かって鬼さんを説得するしかない。
ただその前に自分の体力が持つかどうか分からない。
「朔紅童子……大穴ノ……」
全身が震え始めた。
疲れとかじゃなくて、だんだん現実味を帯びてきた恐怖からだ。
どうしよう。鬼さんが来る。剣を取り上げられる。それだけじゃなく、もう自由も何も失ってしまうかもしれない。
何より……何より、また籠だけの生活になんて戻りたくない!
自然と一粒、自分の目から涙が零れた。
ブルブル震える体は止まらず、わたしは鳴り始めた歯を食いしばって俯いた。
「鈴音」
静かに、名前を呼ばれた。
それはあまりにも急で、そして驚く程優しい声音だった。
「鈴音。俺のコノ姿が恐ろしいカ?」
今度はわたしが静かに顔を上げた。
鬼さんが無表情に立ち、わたしをその妖しい紅でジッと見ていた。
「俺がお前の前デ人間の真似事をすれば、ソノ剣を捨てるカ?」
「え……あ……い、いいえ」
絞り出した小さな声で呟いた。
違う、そうじゃないのだ。言いたい事はそこじゃない。
でも続きの声が出なかった。
妖しい紅が一層薄暗い闇の中で浮かび上がり、自分を見つめている。
その紅に恐怖感は不思議と無い。
疲労感からくる意識の朦朧とは別に、恍惚感に似た感覚が鬼の瞳から自分の頭に忍び滲んでくる。
紅い鬼がまた一歩近寄ってくる。けどわたしの体は動かない。
まるで魅入られてしまったかの様に、わたしはその場で二つの紅に縫い止められていた。
「鈴音、立て」
言われるが、頭がはっきりしないのだが。わたしはゆるりと頭を横へ振っていた。
頭がぼんやりする。どうして突然、こんなふうになるんだろう。
いいや、でも。剣を放してはいけない。手放してはいけないんだ。それだけは、絶対に守らないとダメだ。
ふらつく頭を理性でねじ曲げて強制的に戻す。
そのせいなのか、どこか気分の悪さも覚えて具合が悪い。酷い眠気を無理やり押さえ込むような、そんな感じだ。
「俺の瞳をよぉく見ろ」
わたしが頑なに剣を握ったままでいる様子に、鬼さんが紅と細めた。
鬼さんの目を見て来ると身構え、ぼやけた頭でありながら危険な予感に体が強ばった。
「……紗枝」
「……――え?」
意識が曇ったまま、掛けられた名前に反射的に目が見開いた。震えは止まり、体から疲労や恐怖感も無くなっていく。
今、なんて……?
「俺が傍にいれば、そんな物なんぞ必要無いカナ」
呆然として、瞬きも忘れて目が零れそうになるくらいに見開き続ける。
「籠の中も悪くない。快楽も恍惚も覚えれば、ワザワザ籠の外へ出たいと思わンさ」
頭が真っ白になる。
握り締めていた木の柄が緩んだ両手の内側から僅かに離れ、コトンと地面に剣先が落ちた音がした。
「ナァ紗枝」
「さ、え……?」
なんだろう。これは名前なの? これは何の名前?
どうしてこんなにも、とても懐かしくて強く惹かれるんだろう。
そしてどうして、聞いた端から頭から抜け落ちていくんだろう。
「剣を、傍らに、置ケ」
ゆっくりと、一言一言を言い含めるように向けられる。
力が満足に入らない片手が、木の柄を掴んで足の横へ持っていく。
あぁ……駄目だ……放しちゃいけない……
「紗枝」
甘い声が耳元で聞こえた。
鬼はまだ向こうの方にいるのに、何故だか甘い囁き声は耳元で聞こえるようだ。
「良い子ダ。そのまま手を、放せ」
指先が震える。視界も揺れる。
放してはいけない。でも紅い声は放せと言っている。この手を放さなければ。
でも、だけど……
ピクピクとわたしの葛藤を表すかのように、剣を握る指が動く。
「放セ」
何度も反芻される零れる名前。頭に残らないのに、必死にわたしの心にしがみつこうとして訴えてくる。
「わたし……」
全身から力が抜けた。
呆然として、目を見開いて、放心状態になったわたしの口だけが尚もおもむろに動く。
「わたし……帰りたい……」
不意に出た言葉。特に考えていたわけでもなく、なぜ唐突にそんなセリフが出てきたのかも、わたし自身分からなかった。
「家に帰りたい……」
視界が歪み、次にポロポロと汚れた青いワンピースの生地を通して膝に温かい雫が垂れる。
「魚さんの所でもなく、鬼さんの所でもなく……誰の所でもなくて、自分の家に帰りたい……」
瞬きを忘れた目が目蓋をそっと閉じた。
そうすれば止めど無く涙が溢れて膝だけでなく頬も濡らした。
「わたしは……鈴音なんかじゃない……」
そうだ。わたしは鈴音じゃない。そんな名前じゃない。
誰かが言っていた通り、わたしは本来の名前を聞いても気づかないのだとしても。
「鈴音なんかじゃない……」
落としそうになった剣を右手で強く握った。
退魔の剣は変わらず光を纏って柔らかく薄暗い空間を照らしている。
「帰りたいけれど、鈴音じゃないけれど、わたしは常闇にいて、鈴音でいなくちゃいけなくて」
肩が震えた。嗚咽をする度に消えかかっていた感情が戻ってくる。朦朧とした意識はそのままだけれど、恍惚さは波を引くように去っていく。
「鬼さん……鬼さんはずっと永い間外に出たいと願って、外の世界を夢見てきたんでしょう?」
じんわりと思い出す、何度か見てきたあの光景。あの感覚。
「外へ出たいと渇望して、人間の子供と約束してまで、あそこから出て行きたかったんでしょう?」
生まれたての子鹿のような足で、ガクガクしながら立ち上がり、わたしはグシャグシャになった顔を鬼へと向けた。
「だったら、ねぇ鬼さん。わたしの気持ちが分かる筈です。わたしの今の気持ちは、あの頃の鬼さんと同じです」
穴そのものでありながら自由を求めて、外へ出たいと願い続けて。ずっとずっと大きな口を開けるだけの日々から抜け出したかった大穴。
「自由の無い生活がどれだけ辛いか。鬼さんは嫌というほど知っているんでしょう? それなら、わたしの訴えもほんの少しで良いから、どうか聞いて下さい。お願いです」
祈るような気持ちで、わたしは妖しい紅に歪んだ瞳で訴えた。
鬼さんは静かにわたしを見下ろしていた。
さっきまで甘く囁いていた口は閉じて、無表情な顔をわたしに向けている。
「言いたい事はソレだけカ?」
低い声だった。
怒りも優しさもない、何の感情もない声音。
突き放された態度にわたしは絶望のような気持ちを抱かずにはいられなかった。
やっぱり……鬼さんに、鬼に願うだなんて無理だったのだろうか。
分かり合う事なんて不可能だったというのか。
肩を落とす間もなく鬼さんが腕を振り上げた。その瞬間、わたしの目は紅い閃光を捉えた。
疲れきった体はその直後に迫った斬撃に動くことが出来ず、胸に向かってきたその一撃はわたしの中へと押し入ってきた。
体が宙に浮く。
そして息が詰まるほどの衝撃と、見えた凹凸のある暗い天井。
そして次の瞬間には、わたしは泡立つ水の中へと落ちていたのだ。




