十八ノ怪
坂を登り切って額から流れる汗と雨水を拭う。
上った先は高台になっており、すぐ真下は崖になっていた。
少し向こうの方では、荒れ狂う空には紅い閃光と、銀の稲妻が絡み激しくぶつかり、木々や泥の川を薙ぎっては弾け飛ばしていた。
魚さんは龍の姿を淀んだ空へ浮かばせ、銀に瞬く瞳と鱗を煌めかせ咆哮を上げた。
川から幾つもの水柱が上がり、激流となって鬼さんに向かっていく。
太い大木の上に立っていた鬼さんは、大きく跳躍するとそれをかわし、魚さんめがけて紅く光った爪を振り下ろした。
つんざくような絶叫が上がった。
頭が割れそうな悲鳴に、鼓膜がビリビリと震える。
魚さんの額にはわたしがつけた傷があったが、鬼さんはそこへ重ねるように鋭い爪を突きたてたようだ。
真っ赤な鮮血が吹き出して鬼さんを濡らし、泥川に血が流れ落ちた。
「随分深手を負わされたようダナァ。どうせ川の主達の祟りでも受けたんダロウ? 今更ツケを支払わされるなんざ、間抜けな事ダ」
言いながら大きく突き出した岩場に鬼さんが着地した。
「闇を孕んだ奴を喰らえばドウなるカ。身を持って知るにはちと遅すぎたようダナ」
魚さんのものか、それとも鬼さん自身のものか。
肌の色とは違った赤い液体が鬼さんの肌や衣服を濡らし、髪からも滴っていた。
それでも不敵に笑い、濡れた前髪を手で掻き上げて魚さんを嗤った。
「朔紅童子ぃ……元は人間の癖にぃ……生意気なっ!」
銀の尻尾が水面を激しく叩きつけ、鋭い無数の水の針が鬼さん目掛けて走った。
その直前わたしは見たのだった。
魚さんの放った罵声に、鬼さんはにぃっと口端を吊り上げて笑ったのを。
針は鬼さんを掠めて空を切り、岩に幾つもの細かい穴を開けた。
鬼さんは鮮血を撒き散らしながら宙に飛び、また別の岩や木々の上を伝って跳躍する。
「随分お粗末ダナァ。馬鹿は死んでも治らンとは、まさにこの事カナ」
鬼さんが立っていたガッシリとした太い枝は弾け飛び、次の瞬間には龍の首元に細い、紅い線が走った。
飛び散る鮮血。龍の首から腹にかけて滝の様な血が迸った。
さすがの魚さんもこれには耐えられなかったようだ。
浮いていた銀の身体は頭からだらりと落ちて、茶色の水面へ激しく落ちた。
血と泥の飛沫が盛大に上がり、離れているわたしの所にまで飛んできた。
魚さんは、どうなったの?
水飛沫から庇っていた腕を下ろして、龍が落ちた場所を見た。
泥で汚れた川の中に、その部分だけ赤黒く水が染み渡り、魚さんが底に沈んでいるのだと分かった。
わたしは一瞬どうすれば良いのか、何をしなければいけないのか分からなかった。
少しの間固まった後、結局悩みながらも、取り敢えずは魚さんの所へ行こうと辺りを見回す。
崖の下には、鬼さんが大きな木やらかなり太い枝を、水へ倒すなり落としてくれたおかげで、それを飛び移っていけば近くまで寄れそうな道が出来ている。
崖近くにある太い木に寄って強度を確認する。
この木なら大丈夫そう。わたしはその木にしがみ付き、なだらかな曲線を描いた幹に足を掛けた。
この木が無事で良かった。降りやすいし、しっかりしているからそんなに強く掴まなくても平気そう。おまけに丁度良い具合に松の木みたいに横に伸びてくれているから降りるのが楽だ。
正直今泳いだら、途中で疲れて溺れてしまうかもしれない。
今でさえ、筋肉も少し使っただけでブルブルと震えて限界を訴えている。
慎重に下まで降りると、直ぐに何本も泥水に倒れている木々に乗った。水面に浮いている訳では無い様で、わたしが乗っても動いたり回転はしなかった。
鬼さんと魚さん、今どうしているんだろう。
息を切らして向こう側を見ても、崩れた木や枝で良く見えない。さっきまでの騒音が嘘のように静まり返っている。
急く気持ちを抑えて、とは正にこんな状態の事をいうのだろう。
わたしは動かないとはいえ、丸く水で濡れて滑りやすくなった倒木の上を、時には手を着きながら渡って進んでいった。
「オイオイ。あの時の威勢はドウした?」
視界の先を塞いでいた枝を払ってくぐり抜けると、鬼さんの声が聞こえてきた。
そしてまたグシャリと、何かを潰すような鈍い音も聞こえてきた。
頭にかかり掴んでいた枝を離し、よろけながら木の上を渡る。そして水気が引いた土砂と砂利が広がる場所に出ると、そこには紅く染まった二人の鬼が居た。
まだ流れ早い泥水の小川から引き摺ってきたのか、血と水の跡が砂利に広がり、その先には灰色の髪をした鬼が河川敷の上で倒れていた。
傍らには赤銅色をした鬼が立ち、二人の足元には血溜まりが広がっている。
「まさかマダ死んだりしていないよナァ?」
鬼さんが吐き捨てると同時に、足を魚さんの手の上に思い切り落とした。グシャリとさっき聞こえた音が、また耳に届いた。
「大人しく下働きしてりゃ~良かったもンを。オマケに俺の懐を探ろうとはナァッ!」
またあの音に加えて、何かが折れる様な音も響く。
お、鬼さん……。もしかして、魚さんの手を、ふ、踏みつぶしているの?
とても楽しそうに血濡れになっている紅い鬼が、足元に転がる瀕死の相手を弄っている様子に、わたしは戦慄し、血の気が引いた。
鬼さんも無事では無いのか、雨に降られているのに顎からポタポタと止めどなく血が滴っていて、けれどもそれを気にも留めず、更に足をぐりぐりと魚さんの上に押しつけていた。
「あ、や、やめて、ください!」
乾いて上擦った声が自分の口から出た。ひどいガラガラ声が辺りに響き渡った。
ちらりと妖しい紅が自分向けられる。
血の滲んだ姿とよく似た危険なそれは、わたしの心臓をギュッと握り締めた。
「お願い、です。待って、下さい」
おぼつかない足で自分も河川敷へと足を下ろす。
膝はガクガクになって震えている。本当に、立つのがやっとだ。
「鬼さん、魚さんをそんなふうに、痛めつけないで下さい……」
半分朦朧とした頭で、必死に言葉を口から吐き出す。
鬼さんがゆっくりとわたしに体を向けた。
「お前も俺の真名を知ったンだろう?」
「はい、知ってます」
「俺もお前の真名を知っている……しかもタダ知っているワケじゃ無い。俺が持っているンだ」
これは脅しというわけか。
鬼さんの今の姿が恐ろしいとは思っても、意識が半分吹っ飛んでいるせいか、幸いにも鬼さんのこの脅しはあまり今のわたしにはピンと来ない。
「……わたし、色々考えたんです」
ゆっくりと二人の所へ歩き、崩れそうになる体を叱咤して砂利の上を歩いた。
「魚さんが改心してくれれば良いなって……それで鬼に戻れて、罪を償ってくれたら良いって。けど、それじゃあもう済まない段階にまで来てしまっている。もう魚さんは、他者を襲う事に抵抗も無く、何より、闇に魅入ってしまった」
魚さんと対峙した時、魚さんはわたしといるだけではもう足りないと、あの時ハッキリ言った。
恐らく魚さんはあの時になって、初めて自分の欲求に気づいたのだろう。
「これからも妖怪なり人間なり、容赦なく襲うと。……それはわたしが居ても居なくても、関係なんてない」
はぁと深く息を吐いた。
雨に濡れ続けたせいなのか、それともこれから自分が行おうとしている事に恐怖を感じているのか。吐息は震えていた。
「ソレでなんだ? 何が言いたい?」
刃の切っ先のような紅に、わたしは灰梅が浮かんでいるであろう瞳を向けた。
「魚さんが食べた、地下の子の足を返して貰います」
「足ぃ?」
鬼さんが不可解だと眉間に皺を寄せて声を上げた。
「はい。この村の人達に頼まれたんです。朔紅童子となる予定だった子の足を、魚さんが食べてしまったから返して欲しいと。……魚さんはその贄になる筈だった子の足を食べたことによって、今の姿にまで戻れたんです」
ギョロリと紅が足元の血染めの鬼を見下ろした。
その眼差しは怒っているというよりも、複雑そうなものだった。
「あの生贄の子が穴に入る日。別の子が、贄として育てられた子の代わりに、自分から生贄になって穴へ飛び込んだんです……鬼さんは地下にいたあの子の事を、知らなかったんですね」
だからきっと、あの子はあの姿のまま、地下で座り続ける事が出来たのだろう。
誰に荒らされることもなく、静かに座って。
鬼さんはむっつり黙った。
何をどう思ったのかは分からなかった。ただ表情は複雑そうに渋く、眉を寄せていた。
「魚さんがした事は取り返しのつかない事です。それから今後も、魚さんは様々な人達を苦しめる」
わたしは背後に隠し持っていた退魔の剣を取り出し、魚さんへ向き直った。
「だから……だから、足を……返してもらいます」
強く握り締めたまま、魚さんへ一歩一歩ゆっくり歩んでいく。でも近くに寄れば寄る程、魚さんの酷い有様が目に入ってきた。
既に両足は潰されて、あまり見ないようにしてはいても血や肉片らしき物が砂利に沈み込んでいるのが目の端に映る。
体は血と泥で汚れ、衣服の元の色は見当たらない。
わたしが退魔の剣を持ち魚さんの傍らまで行くと、珍しく鬼さんが息を呑んだような気配がした。
「……え様……お、待ちに……」
「魚さん。どうか……足を返して」
短剣を強く握り締めてそっと魚さんの体に添わせた。
誰かに教わったわけでもないし、どうやって返して貰えるのか分からなかった。
でもきっと、この退魔の剣なら、知っているのだろう。
わたしはこの剣に願ってその場に跪くと、痛々しく上下する魚さんの体に触れた。
退魔の剣は最初弱々しく発光したが、次の瞬間には陽射しのような眩しさをもって辺りを照らした。
わたしの口から以外にも、二人の鬼の呻く声が聞こえた。そして魚さんの絶叫する声が響き、光が剣の刃の部分へと収まっていく。
温かい光に、こんな場面だというのに。心が癒されていく。
懐かしい心地よさに、意識の重さが少し軽くなった。
しばらくして、光が弱まり視界から光が消えた頃。
わたしの膝の上には細い二本の足の骨が置かれ、目の前にはいつか見た魚人の姿が倒れていた。
「魚さん……」
頭では分かっているけれど、こうも無残な姿を目にするとどうしても同情せずにはいられなかった。
でもきっと、河童や川男や沼の主達を慕っていた者からしたら、当然の報いだと思うんだろう。
わたしだって、友達や家族を酷い目に遭わせた犯人がいたのなら、同情なんて微塵もしない。例え犯人にどんな辛い過去があっても、許さないだろう。
わたしは立ち上がった。
これ以上魚さんを見ていると、どうにかしてしまいそうで、傍にいられなかった。
「鬼さん。わたしは足を返しに行きます。……魚さんの処遇は鬼さんに任せます」
「だったら、さっき何故止めたンダ?」
「……罰と快楽は別物だと思ったんです。鬼さんがしているのは腹いせで、罰しているのとは違います。それに川男さん達も、魚さんを責める権利はあります。ここで鬼さん一人が魚さんをどうこうするだけじゃ、駄目なんじゃないですか?」
川男さん達が鬼さんに文句は言わないとは思うけど、実際友達を殺された彼らが、魚さんに一言二言何か言いたい事はある筈だ。
考えたくないけれど、他にもたくさん、そういう人達は居るのだろうし……。
雨がやまないせいで、わたしの立っている場所まで血が流れてくる。
魚さんの方を向きたくなるのを必死に我慢して、わたしは歩き出した。
「……待っ……え、様」
くぐもった声が聞こえる。
懇願する、悲痛な声が。
わたしはギュッと唇を噛むと、疲れも何もかも忘れて足を速めた。
激しい雨の音だけが聞こえる。
俯いた顔に、冷たい雫とは別の熱い雫が、頬を伝って落ちた。
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細い両足の骨はわたしを迷うことなくあの地下へと誘った。
水は完全に引いてはいないのに、カタカタと骨が鳴れば水はわたしを避けて道を開けてくれる。
座敷牢を通り過ぎ、地下への階段を進んでいく。
すっかり湿気に覆われた洞窟は手に持つ退魔の剣でほんのり照らされている。
「……持ってきたよ」
ようやく鎮座する彼の下まで辿り着いた。
両足のない彼の傍に寄り、わたしは骨を差し出した。
「あなたの足を食べた妖怪は、鬼となった朔紅童子がどうにかするみたい。だからこれからは……ゆっくり眠って……」
彼の近くに両足の骨を置き、両手を合わせて彼の安らかな眠りを祈った。
背後に紅い鬼が居ることにも気づかずに、わたしは両手を合わせ、唯々両目を閉じて祈っていた。




