四ノ怪
「川男の話によればソイツは水の中から突然現れ、川男の連れを引きずり込んで喰ってしまったそうダ」
「妖怪を、妖怪が襲って食べた?」
鬼さんの他にそんなことをする妖怪がいるっていうの?
自分の体に絡みつく腕を疎ましく思いながら、身を捩って背後の鬼さんへ顔を向ける。
「どうやらソレだけではナイようでナ、その川の主を喰っちまったらしい」
「川の主……を?」
現世での妖怪同士の衝突が激しいとは聞いていたけれども、それってとてつもなく危ない妖怪なんじゃ……。
今まで常闇に来るまでは普通にあっちで生活していたけれど、大丈夫なのかしら。
「マァ、主まで喰っちまうのは珍しいが、驚く程ではナイ。強ち有り得ない話では無いカナ」
「そうなんですか? 人に、人間には危害は加わらないんですか?」
「あまり聞かんナァ。仮にあったとしても、災害として話は終わりダナ」
「そうですか……」
別に人間さえ無事なら良いという訳じゃないけれど、鬼さんの言葉に少しホッとしてしまうのも事実だ。
「ただ一体どいつなんだろうナァ。そんな派手なマネする奴なんざ最近は聞かなかったンだガ」
「鬼さんはあちらの事も見聞きするんですか?」
「常にではナイがしているカナ。因縁つけられることも多いんでナ。ある程度は目を光らせてはいる」
鬼さんの持つ不思議な道具に、現世を映す鏡があった。
きっとそれであちらの世界を見ているんだろう。
わたしがあちらで生活していた時も、あれで常に見ていたのかしら。
四六時中見られていたのなら、気持ちが悪いという他ない。プライバシーも何もあったものじゃないわ。
「さぁて。こんなもンで良いだろ? この話は終わりダ」
「え? 終わりって、その正体不明な妖怪を突き止めたりしないんですか?」
鬼さんの声に我に返り、顔を上げる。
「あのナァ、そういった話も逃げてきた川男同様、珍しくはナイんだ。いちいち気にしていたらキリがないというものダ」
「そんな危険な妖怪野放しになんてしないで下さい! これ以上被害者が出たらどうするんですか!」
「言ったろ? 自己責任ってナ」
「そんな」
「それともナンダ? まだお前が俺に払うカ?」
食い下がるわたしを、紅い鬼はまた不気味に光る紅を向けてきた。
なにかを期待した、妖しさを含んだ眼差しで、鬼さんは挑発するかのような皮肉な笑みを浮かべながら、表情を凍らせたわたしを見下ろしたのだった。
・・・・・・・・・・・・・・
さわさわと揺れる藤棚の紫の滝。
わたしは手頃な小枝の先を池の水面に滑らせ、いくつもの波間を作った。
そうすれば、小魚たちは揺れる透明な天井の下を、機敏な動きで逃げていった。
結局、逃げちゃったな……
わたしは深く息を吐いて片手で頬杖をついた。
鬼に迫られて、恐怖に駆られたわたしは、鬼の脇をすり抜けて籠の外へ飛び出した。
鬼火がなくても見えるようになった廊下の暗闇を駆け抜け、そしてこの箱庭まで逃げてきたのだ。
暫く息を弾ませて庭の隅で小さくなっていたけれど、鬼さんはいつまで経っても追っては来なかった。
現世が関わっているのなら、どうにかしたい。
妖怪が妖怪を襲うだなんて、珍しくもないと鬼さんは言ってたけれど、危ないことには変わりない。
それに川の主が死んだりしたのなら、少なくとも人間にだって影響があるはずだ。
飲み水だとか、洪水だとか、考えられることは沢山あるんだから。実際鬼さんは災害として起こるみたいな事を言っていたし。
……とはいったものの。鬼さんのあの様子だと、わたしがこの件に突っ込めば突っ込むほど、鬼さんはわたしに『支払い』を求めてくる。
恐らく支払う度にその額も高くなっていくのだろう。
くるりと水を掻き混ぜると、小さな渦が出来上がる。
川の中に現れた妖怪、か。どんな妖怪なんだろう。どうして他の妖怪を襲ったり、川の主を食べてしまったのかな。
そこまで思って、あることを思い出す。
鬼さんは昔、赤鬼を食べて貪欲の鬼になった。そしてついこの前も、現世から来た蟒蛇の妖怪も食べてしまった。
鬼さんの他にも妖怪を食べてしまう妖怪がいるだなんて、なんだか直ぐには信じられない。
お腹が減っていたのか、ただの争いのついでで食べてしまったのか。
何にしても穏やかな話ではない。
ふぅと息を吐いて立ち上がる。
もう籠に戻ろう。ここでいつまでも遊んでいても仕方ないもの。鬼さんだって居なくなっているかもしれない。
もし居たとしても、一度戻らないと文句言われそうだし、わたしが大人しくしているのなら、鬼さんも必要以上何も言ってはこないだろう。
腰を上げて、着物の皺を伸ばして枝を地面に置く。そして箱庭から出ようと踵を返した。
振り返った先。目の前には廊下の暗闇が広がっている。
以前は明かりがなければ真っ暗で何も見えなかったのに、灰梅が瞳に浮かんでからは薄らと闇の中が見えるようになった。
その代わりに灯篭のぼんやりとした明かりでさえ、わたしには眩しく感じるようになった。蝋燭一本あれば大広間でも充分なくらい、明るく感じる。
目を細めて薄闇を見つめる。
わたしは本当に人間なのかな。
姿かたちはまだ人間なんだろうけれども、以前とは何かが違う気がする。
よく分からないけれど、自分の何かが以前とは異なっている。
考えても仕方ないか。
沈みかける胸を抱きながら足を廊下へ進めた。
籠に鬼さんはまだいるのかな。どうせなら居なければ良いんだけれど……
その時不意に、ちゃぷん、と背後で水の音が上がった。
何かが跳ねたのか、もしくは落ちたのか。小魚が立てる音にしては大きすぎる水音。
訝しんで振り返ると、先程とは別に何か変わったところはない。花々が咲き乱れて優しく香っているだけ。
さっき聞こえたのが水の音なら、池に何か起こったのかな。
わたしは爪先を池に向かって直すと、水面に近寄ってそろりと小さな池を覗き込んだ。
小魚一匹いなくなっている池。みんな岩陰にでも隠れてしまったのかな。
角度を変えたり、水面すれすれを覗き込むけれど、誰もいない。どこにいったんだろう。
「……ん? あれ?」
いつの間にか浮かぶ一つの蓮の葉っぱ。そこに笹で作られた小さな舟が、ちょこんと乗っかっていたのだ。
あれなんだろう? 葉っぱは向こうの蓮の群れから逸れたのだろうけど、あんなの今まで、というより、さっきまで無かったよね?
流れて来たにしては不自然だし。
警戒心がわたしに煩くその場に留まるよう叫ぶが、もう一方の好奇心が背中を押してくる。
しばらく池を見下ろしながら考え、わたしは頷いた。
見るだけなら……良いよね?
好奇心があっさり勝利し、警戒心を遠く彼方へ投げ飛ばす構図が頭に浮かぶ。
きょろきょろと辺りを見回してから、足元の枝を広いしゃがみ込むと、それから目一杯腕を伸ばして、蓮の葉に枝先を引っ掛けた。
あ……あと少し……もうちょっと。
葉っぱはただ水面に浮いているだけで茎はないようだ。
何度か枝を駆使して蓮の葉を手繰り寄せると、ようやく手前まで持ってくることに成功した。
枝を傍らに置いて、笹舟をそっと手に取って見てみる。
「懐かしいなぁ、可愛い。誰が作ったんだろう?」
もしかして鬼さんがこっそり作っていたのかしら。
でも前に木彫りの熊をもらったけど、あれは憤怒の顔をしていて愛らしさとは程遠い物だった。
ならこれを作ったという可能性は低くなるわね。ここまで細々(こまごま)とした物なら、あの乱暴な鬼さんじゃ作れないだろうから。
だとしたら誰が作ったんだろう。
そもそもこの箱庭に、この池に、どうやって流れて来たというのだろう。
この池の源流から迷ってきた、とか?
でもここには滝なんて見当たらないし、湧水だとするなら水の中を通らないといけないから、途中で壊れてしまうんじゃないかしら。
何にしても不思議な笹舟ね。どこから紛れ込んで来たのかな。
もう一度よく見て眺める。随分と丁寧な作り。
こんなに小さい舟なんだから、きっと小さな笹で作ったのね。手で簡単に作れるっていうけれど、こんなふうに作れるならわたしも挑戦したい。
現世で普通に生活していたなら、笹舟にここまで興味を引かれなかったかもしれない。
閉塞感ですっかり心は凪ぎ、瞳の異変で気持ちも深く沈んでいたわたしに、この小さな迷い舟の訪問は驚きと久しぶりの好奇心を覚えさせてくれた。
しげしげ観察してひっくり返す。すると舟の底に、黒い何かが見えた。
なんだか文字のように見える。
うーん。これだけじゃよく見えないわ。なんて書いてあるんだろう?
眉を寄せてから、ちょっと気が引けたけれど、傷つけないよう気をつけながら舟を解いていき笹の葉へ戻していく。
そうすれば漸く、全ての文字が見えた。
「えっと……鬼ノ雀サマ、元気デスカ」
……え?
これって……どういうこと?
驚いて何度も目を瞬く。そしてたどたどしく書かれた、漢字とカタカナで書かれた文字に目を丸くする。
えっと。恐らく鬼の雀さまって、わたしのことよね?
『元気デスカ』って、どういう意味? いや、そのままの意味だとしても突然すぎる。
戸惑いながら笹の裏や表を見ても差出人らしき名前は無い。……もしかして妖怪の悪戯?
ワクワクとしたものは今やすっかり萎えて、逆に気味の悪さに顔が渋った。
差出人が分らない事と、その正体不明の人物が自分に宛てた文字という事実が、より自分の胸を悪くさせた。
「これ……鬼さんに相談してみようかしら」
気味の悪さに眉を寄せつつ、思わず呟く。
相談ということもあるけれど、今まで黙って行動して痛い目に遭ってきたんだし、この手の話は早めに言ったほうが良さそうだものね。
でも、敢えてわたしに宛ててくるだなんて。なんだか引っ掛かりを覚える。
ここら辺の妖怪はみんな鬼さんを頼りにしている節があるのだから、わたし宛てに何かを送るんなら、まず鬼さんを通すだろうし。
何故こんな回りくどい真似をして、わたしに送ったんだろう。
『元気デスカ』って……
「鬼さんに知られたくない、もしくは聞けない、とか?」
知らずに口にして、その文字をよく見る。
小さな笹に大きな字で書かれていて、幼い子が初めて字を書いたような、とても不安定な墨字。
あれ? でもどうして水に流れてきているのに、字が消えていないんだろう。墨で書かれたのなら、水で流れ落ちてしまうんじゃないの?
あ、でも。
この笹舟は蓮の葉っぱの上に置いてあったんだと思い出す。どこも濡れている様子はなかったし、それなら墨は落ちるわけが無い。
うーん。何にしても色々と怪しい笹舟ね。
本当にこれ、どうしようかしら。せめて誰から送られたのか、分かれば良いのに。
もう一度よく見ようと持つ手を変えた。
「……え?」
見たものに大きく目を見開いて瞬きする。
知らずに文字の上に置いていた親指をずらすと、その重なった部分だけ文字が消えていたのだ。
どうして?
眉を寄せてしばらく文字を睨む。
もしかしたら水に溶けたりはしないけれど、熱には弱い墨なのかしら。それなら水辺にあっても問題はないだろう。濡れても文字が消えないし、水なら熱くないんだから。
試しに池の中へ笹を沈めて何度も回した。それから冷えてしまった指で文字を触るが、今度は文字は消えなかった。文字自体の方も、水に濡らしてもやはり問題はなさそうだ。
さらにもう一度水に浸かっていない指で文字を押さえる。するとその部分だけ、先程と同じように文字は霞んで消えてしまった。
うん。わたしの仮説は当たった。やっぱり思った通りだった。
やっぱりこれも妖怪が使う墨か何かなんだ!
よく分らない達成感に思わずガッツポーズを右手の拳で作るが、箱庭の静けさに我に返り、華やかな花たちが自分を生暖かく見ている気がして顔を赤らめた。
…………。
何やっているんだろう、わたし。推理ゲームしているんじゃないんだから。
気を取り直して息を吐くと、舟だった笹の葉を再度見下ろした。
まぁ、それはそうとして。こんな事して何がしたいの? 結局大事な部分は何も分らないままだ。
これからどうしようかな……
「ナニをしている?」
「ひゃっ」
背後から声をかけられて文字通り飛び上がった。
慌てて振り返れば、鬼さんが難しい顔をして佇んでいた。




