十七ノ怪
自分の胴体を締め上げる物が、ぐんぐんと上へ引き上げていく。
足の先に硬い物が当たって思わず足を引っこめると、直ぐ下でバシンと牙が鳴る音がした。
「おーっと。空振りだったナァ」
え?
頭の上から聞こえた軽い口調に思わず目を見開いた。
真下には忌々しげに、妖しい銀をぎらつかせた龍が血まみれになってこちらを睨みつけている。
そして自分に巻きついている物を見ると、それは龍の物ではなく、赤銅色をした鬼の腕だった。
「お、鬼さん……?」
「よぉ。久しいナァ」
皮肉気に笑う紅い鬼を見て、不覚にもホッとした自分が居た。
崩れそうな民家の上を次々と飛び越え、後から追ってくる水の塊を避けて行く。
「もう体は大丈夫なんですか?」
「ま、本調子ではないがナ。問題は無いダロウ」
高い大きな岩場に着地すると、わたしをその場に下ろした。
村の方を見れば濁流に呑まれて屋根が辛うじて見えるぐらいだ。流されてもおかしくは無い勢いなのに、流されないのはやっぱりこの村全体がおかしいからだろうか。
「鈴音」
呼ばれて顔を見上げる。
さっき過去で見た時より逞しく、それでいて、より鬼の顔になった鬼さんの顔。
「お前さっき、俺を呼んだナ?」
「あ、はい」
ジロリと横目で睨むようにわたしに目を向ける。
妖しい紅が鋭く光り、とても手負いの状態には見えない。
「どこマデ見た」
「え?」
「ココで見たんダロウ? 何を見タ?」
そっか。さっき死にもの狂いで鬼さんを呼んだんだった。
鬼さんの真名を唱えて。だとしたら、鬼さんがわたしを警戒するのも分かる。
「朔紅童子と名付けられた子が、瘴気の穴へ捧げられる準備をしていたのを見ました」
「準備?」
一瞬だけ、わたしが『朔紅童子』と言ったからか、鬼さんが引きつったような表情を見せた。
それでもわたしの答えに、鬼さんは続きを促した。
「はい。魚さんは、鬼さんが穴に自分から入って、出てきたのを見たって言っていましたけれど。わたしが見たのは、あくまで準備をしていた時と、その後に……」
口にしようとして、やめた。
よく見えなかったとは言え、あの浮かび上がった影達を思い起こせば、何が起きたのか想像つく。
「……その後に、起きたのを見ただけです」
遠まわしに告げて、目を伏せた。
鬼さんは約束通りこの村のみんなを殺した。それが幼い子だろうが、年老いた男女だろうが。
でもそれ以上に、彼らは生贄の子達が住んでいた村人たちに長い間酷いことをした。もう許す事なんて到底できないぐらいに。
「ソウカ」
何とも言えない口調に鬼さんの顔を伺う。
眉間に皺を寄せてはいるものの、わたしを敵視するような気配は薄らいでいた。
「鬼さんはもう……大丈夫なんですか?」
様子を見る限り動けるみたいだし、普通に話せるようだ。実際はどうかは分からないけれど、思ったより元気そうだ。
「俺のことはイイ。それよりアイツを始末しないとナ」
ぶっきらぼうに言って遠くを睨みつける。
視線を向ける先をわたしも見やれば、民家の上に蛇のように這い上がって妖しい銀を煌めかせる龍の姿があった。
相手もこちらを睨みつけ、血を撒き散らしながら雷鳴の様な咆哮を轟かせた。
「ったく。煩い奴カナ」
「でも鬼さん。また魚さんに真名を使われたら、鬼さん動けなくなるんじゃ――」
そこまで言ってはたと気づく。
今更だけれど鬼さんを呼び出したって、鬼さんを危険に晒すだけで事態が悪くなっただけなんじゃないの?
だって魚さんは鬼さんの真名を使えるんだから。
あぁもう! あの時まさに無我夢中になっていたから、こんな簡単に予想出来る事が頭に浮かばなかった! 最悪だ!
いやでも、言い訳するわけじゃないけれど。まさか鬼さんが急に現れるなんて思わなかったから。
せめて誰かお供をつけるとか無かったのかな。
「あの鬼さん、他に誰か連れてきたりしてますか?」
「俺一人カナ」
淡々と告げられて愕然とする。
もしかして、わたしが安易に真名なんて唱えてしまったから、鬼さん一人強制的にここへ喚んでしまったのかも!
他の場所ならいざ知らず、ここでなら何かしらの作用が働いてしまったのかもしれないのに!
「ご、ごめんなさい! 鬼さんわたし」
「黙っテろ」
静かな声に遮られ、わたしがびくびくと顔を上げると、鬼さんは笑っていた。ニヤリと口端を裂くぐらい笑みを深くして、不気味に紅を光らせている。
「俺がナニも策を練らンで、ノコノコ出て来たと思ったカ?」
不安がるわたしに、鬼さんはポンポンと頭を軽く叩いてきた。大雨が降りしきる中立ち上がり、小馬鹿にするように顎を上げた。
「オイ魚。お前ヒトの因縁の場に泥塗るとは、イイ度胸じゃナイカ。大体ソノ姿はなんダ? 鬼と龍の姿も分からなくなったのカ?」
挑発した物言いで鬼さんが言えば、あちらから唸る声が響いてきた。
「……これは朔紅童子様。わざわざお越しになるとは。この身も偉くなったものです」
「お前にその名を呼ばれると吐き気がするナァ」
鬼さんが話せば話すほど、赤銅色の横顔に広がる幾何学模様がうねり形を変える。そして妖しい紅が、より一層煌めきを増して鋭くなっていく。
あちらからも冷たく光る妖しい銀を鋭利な刃のように煌めかせ、血に濡れた一本角も同様に、鋭さを増してこちらへと殺気を向けている。
魚さんは鬼さんの真名を知っていて、そしてそれを使って鬼さんを苦しめることが出来る。
鬼さんは何か対策を持っているみたいだけれど、上手くいくんだろうか。
「鈴音」
「は、はい!」
「お前暫くの間自分の身を守れるカ?」
「え?」
鬼さんがこんなこと言うなんて。珍しい。
驚いて目を見開くけれど、その先に鬼さんはいなかった。
すぐ目の前で大きな水柱が上がり、何も見えなくなる。そして視界が開けた時には、屋根を飛び回っている紅い影と、それに食らいつこうとしている龍の姿だった。
「鬼さん……」
動きは相変わらず俊敏だ。
けれど、鬼さんがああ言ったってことは、やっぱり本調子じゃないんだ。まだ具合が悪いんだ。
咆哮が鳴り響く。
粗末な作りの屋根が吹き飛び、鬼さんも大きく飛び上がる。
「何故だ! 何故効かぬ!」
魚さんが怒鳴り、大きく尻尾を乱れた水面に叩きつけた。
跳ねた水滴が一瞬宙で止まり、そして弾丸のように鬼さんへ向かう。
「朔紅童子!」
怒鳴り声が響く。鬼さんを見れば、それに動じることもなく跳躍する。
なんで?
魚さんの怒り狂う罵声を聞きながら、わたしも同じように眉を寄せた。
あれだけ苦しがっていたのに、今は真名を唱えられても苦しむ様子がない。
鬼さんは一体どうやって真名を使われても平気でいられるんだろう。真名を知られても大丈夫な方法があるんだろうか。
この驚きに、じわりと嫌な汗が浮かんだ。
でもすぐに頭を振って、余計な考えを振り払う。
次第に遠ざかっていく二人に、わたしは辺りを見回した。
今いる高い岩場の周りは濁流だらけ。とても泳げそうにない。
このまま鬼さんが戦っているのを黙って見ていて良いのかな。勿論わたしが加勢出来る程の力がないのは承知だけれど。
手に持っている退魔の剣を見つめる。
ぼんやりと優しげに光る木製の短剣は、太陽の日差しに似た温かさが感じられる。
そういえばあの地下で出来たように、この濁流を綺麗な水に変える事は出来ないかな。
そうすれば少なくとも視界だけは見えるようになるかもしれない。
慎重に岩場の端へ寄って、うねる激流に腕を伸ばす。
手には届かないけれど、短剣の刃の部分にはなんとか届いた。
流されないように強く柄を握って、刃を沈める。
水を清めて!
この濁流を止めて!
祈るように念じて退魔の剣に願う。
少し間があった後、短剣が次第に強く光り、まるで水の流れに伝わるように、光が水面を走った。
あっという間だった。
光が届く端から水流が止まり、濁りも消えていく。
わたしは顔が雨粒に強く打ち付けられるのを感じながら、ただひたすらその様を見続けた。
光が落ち着き、激しい雨音だけが聞こえてきた頃。村は澄んだ水の中に辛うじて建っていた。
「え……!?」
ギョッとして思わず声が漏れる。
よく見えるようになった水の中で、人が立っている。それも一人や二人なんかじゃない。何人も。
「村の、人達?」
よく見ると朧げに揺れるその影たちは、両手を合わせて頭を下げている。
幼い女の子から腰の曲がった女性まで。みんな一様にわたしを向いて、拝んでいたのだ。
「なんで……?」
もしかして何か訴えかけているの? どうして欲しいの?
目で問いかけると彼女たちは顔を上げ、虚ろげな目である方向を指さす。
「……鬼さん?」
あの二人が戦っている方を見る。
向こう側はまだ轟音が鳴り響き、上がる水柱や飛沫は濁っていて、心なしか血が混じっていた。
「鬼さんを助けて欲しいの?」
口にして訊いてみるが、彼女達は動かない。表情は固く冷たい。
「違う……? そ、それじゃあ一体」
冷たいものが自分の足を掴んだ。
驚いて体を支えていた手が滑ると、わたしは盛大に水の中へ落ちた。
ゴボゴボと泡が起こる音が耳に届く。
目を開ければ光る短剣。それと水中に佇む影達。彼女達の視線はわたしの足元に集中している。
足? ……足。
そう、そうなんだ。みんなこれを……。
結局最初から願いは一つだったんだ。
水を掻いて水面に顔を出す。同時に大きく息を吸って肺に呼吸を送り込んだ。
「魚さんの所へ行かなきゃ。じゃないと……あの子の約束が、果たせない……」
屋根と屋根の間を泳いでいくと、下で影達が見上げてくるのが見えた。両手を合わせながら、ジッとわたしを目で追いかけてくる。
こうして見るとまるで自分が空を泳いでいるみたいだ。
水も不思議なくらい抵抗が少なく、そんなに必死に泳いでいる訳では無いのに、どんどん先へと体が進んでいく。
二人の真名を知っているわたしだからこそ、村の人達はわたしに両手を合わせるのだろう。
願いというのには、暗さが含まれている物ではあるけれど。もう方法はこれしか残っていない。
再三魚さんに願っても、それは叶うものなんて無かった。
それよりも一層悪くなっている。
魚さんもこの村の事も、わたしが感じる以上に、または見てきた以上に、闇が深すぎる。
唯一頼れるのはこの退魔の剣だけだ。
疲れている体に鞭打って泳ぐ。
どうにも短剣を持っている方は水を掻きにくくて、上手く泳げない。
何度か沈みそうになりながら進んでいくと、次第に水が濁り始めた。
斬撃や咆哮などの、争っている音も大きくなっていく。
このまま泳いでいる状態では流石に危ない。
どこか岸に上がるところを探さないと。
一度泳ぐのをやめて辺りを見回してみる。
上がれるところは……どこかに……。あ、あった! あそこなら上がれそう。
崩れた崖を見つけてそこへ泳ぐ。
土砂崩れがあったのか、小石がそこかしこに散らばっているものの、滑らかな坂になっていてわたしでも上れそうだ。
坂へ近寄り、水で重たくなった体を引きずって這い上がる。
もうこの服もボロボロね。
せっかく現代の服を着れたのに。
魚さんからの服というのには皮肉だけれど、それでも久しぶりの現代服は動きやすさと可愛らしさがあって、そこはどうしても良いと思ってしまった。
足に力を込めて坂を上り始める。緩やかとは言え、地面は脆い。おまけに砂利や小石だらけでかなり歩きにくい。
途中、爆発音がして地面が揺れた。コロコロと上から小石が降ってきて、足元を転がった。
息が上がる。さすがに苦しい。
膝に手を当てて、深呼吸を繰り返す。
目眩がする。意識も朦朧としてきた。体力もとっくに限界を超えているんだから仕方ない。心なしか足もフラフラする。
ふと、ふらつく足の裏に違和感を覚えて、足をどけた。
なんだろう。何か砂利に埋まっている。
無意識にわたしは手で砂利を掘って払い除け、その何かを掘り出して取り上げた。
「これは……」
手にしたそれは、藁で作られた、いわゆる藁人形だった。 古いものではないようで、汚れてはいるけれどしっかりとしている。
気味の悪いそれを見て、それでもわたしは何故だか割れ目を作り、中を覗いた。
すると藁の中には、小さく折りたたまれた血のついた紙と、鋭い爪が入っていたのだ。




