十六ノ怪
空からポタポタ大粒の雫が降ってきた。
地面を濡らし、わたしの頭も体も冷たさに染めていく。
「如何でした……?」
背後から楽しげな声。
振り返ってみれば銀色に肌を光らせる一本角の鬼がいた。
「……魚さん」
「紅い鬼様のお生まれになった……過去は。まさか元は贄であった人間とは……驚きでしょう?」
「魚さんは鬼さんの、いえ鬼さんが元は人間だと、ここを見て知ったんですか?」
「えぇ……そうです」
じりと後退しながら、魚さんに向き直る。
手元には木で出来た短剣。お爺さんが言うには、これは退魔の剣だと言っていたけれど。
どこまで自分の身を守ってくれるのか、確証はない。
「鬼さんが、人間になった瞬間を見たんですか?」
「そうですね……死装束の少年が瘴気の溢れる穴へ飛び込み……穴が消えたと同時に、鬼になった彼を見たのです。……そう、朔紅童子という紅い鬼様を、ね」
ギュッと短剣を握り締める。
「魚さんはこれからも、他の妖怪を襲うんですか? 鬼さんを殺しますか?」
「鬼に戻れるのなら……貴女様を傍に置くためになら……紅い鬼様を殺す為なら、幾らでも」
「もうそんな事やめて下さい! 何も悪いことをしていない妖怪を襲うだなんて。それに、他に方法があるかもしれないじゃないですか」
「ありませんよ……あちこち放浪した私が……よく知っております。戻る方法など、無いのです」
遠い目をして、魚さんはどこか疲れたような表情を浮かべた。
「魚さんは、もしわたしがずっと一緒に暮らしたら、誰も殺しませんか? 鬼に戻れなくても構いませんか?」
そんな考えは毛頭なかったのだけれども、それで済むなら少しは考えようかと思った。
勿論、鬼さんは怒り狂うだろう。でも少なくとも魚さんに対する策を練る時間を作れるし、他の妖怪も一時的とはいえ安全になる。
「いえ。……私は鬼です。魚などでは……ありません」
ゆるりと頭を振るとまた唇の端を上げて笑い、わたしをじっと見た。
「鬼に戻れたらまず、貪欲の鬼様を討ち……代わりに私が貪欲の鬼なりましょう……きっと楽しいです……貴女様も、退屈しないで済む……」
にこりと柔らかく笑む中に、氷のような冷たさを感じた。そして底なしの暗い水のような恐怖感も。
「わたしは魚さんとはいられません……一緒にいて他の妖怪に危害を加えるのを辞めるのならまだしも、それもやめないだなんて」
「他の妖を心配するのですか……? この状況で?」
小首を傾げた鬼が目に映ったと同時に、大量の雨が降ってきた。
もう豪雨のような激しい雨粒が降って、どちらかといえばバケツをひっくり返したような勢いで降り始めたのだ。
「なんで急に」
空を見上げ、違和感に眉を寄せた。
空は変わらず水面のような模様を広げるだけで変わった様子はない。
なのに嵐のような雨がどんどん降り注ぎ、道は瞬く間に川のような状況になっていた。
「ねぇ鈴音様……私が泳いで、あちらこちらを探し回っていたと申した事、覚えておりますか?」
ずぶ濡れになりながら、突然話し始めた魚さんを見る。
「この赤鼓村も同様なんです……この村は水に沈んだのですよ……大昔の水害によってね……だから魚である私が探し当てることが出来たのです」
「そ、それじゃあ」
この空が水面のように見えるのは、空が実は本物の水面だから?
「さて、もう充分堪能されたでしょう……?」
冷たい笑みを含んだ声に、身構えて短剣を強く握り締める。
目の前の鬼は水嵩が膝まで来ているというのに、物ともしないでわたしの方へ歩いてくる。
「あの時は邪魔が入りましたからね……今度は確実に……足を切り離してみせましょう」
挙げられた手を見て、反射的に短剣を前に突き出して構えた。
「……それは、何です?」
「退魔の剣です」
訝しげに眉を寄せる魚さんに、わたしは震える声で答えた。
「もう魚さん、これ以上誰かを傷つけるのをやめて下さい。そしてこの村の地下で座っていた骸骨の子の足を、返してください!」
「……私に、刃を向けるのですか? ひ弱な貴女が?」
「よ、弱くても、関係ないです! わたしは足を切られたくなんてないし、他の妖怪を襲われるのを見て見ぬふりをするのも嫌です! お、鬼さんの事だって、自業自得ですけれど、魚さんがこれ以上憎しみに駆られて、鬼さんと傷つけ合うのも見たくないです!」
正直鬼さんなんて死んでしまえと思ったこともあるし、今現在そこまでいかなくとも、何度も憎たらしく思うことはあった。
鬼さんが魚さんにした事は最低だし、その事で魚さんに復讐されるのは仕方ないと言える。
でも魚さんは復讐に手段を選んでいない。鬼さんだけでなく、他の妖怪まで巻き添えにした。
「ねぇ魚さん。これ以上もう誰かを襲ったりしないで下さい。せめて鬼さんに対する恨みは、鬼さんに直接訴えるべきなんじゃないですか?」
魚さんは純粋に鬼に戻りたいというより、鬼さんの復讐の為に、まず鬼に戻るという考えで今回の事を引き起こしたんだろう。
だったらまず、鬼さんに対する復讐の気持ちを変えなくては。
「地下にいた子の足も、返してあげて下さい。きっと他にも、鬼に戻る方法はあるはずです。だから、どうか」
剣の先を下げて、わたしは魚さんに訴えた。
もう誰も傷つけず、鬼に戻って平穏に暮らして欲しいと。
「……やはり、分かっていない」
「え?」
「鈴音様……やはり貴女様は……分かってはいないのです……」
底暗い声で、物々しい雰囲気を溢れさせた魚さんは、歩いていた足を止めて俯いた。
「肉を裂き……血を撒き散し……そして闇を纏いながら妖力が戻る様は……何にも変え難き、恍惚さを得られるのです……」
魚さんの銀色の肌が鈍い光となってうねると、ハッキリと鱗が浮かび上がってきた。
「川の主が死んだこの水も……私が纏えば力と変わるのです……」
魚さんの目が鋭く光り、灰色の髪がなびいて伸びていく。
濁流となった道を流れる水が魚さんを包み渦を巻くと、天高く柱となって伸びた。
わたしは言葉が出なかった。
見開いた目の先には竜巻のような水柱が上がり、その中から銀色に輝く二つの目がわたしを見下ろしていたのだ。
「鬼でなくとも……川の主、龍の姿に変わることも出来るのです」
柱が弾け、大量の水が自分の頭に降り注ぐ。
腕で顔にかかった水を払い除けて上を見上げれば、村で見かけたあの龍の姿が目の前にあった。
「あ……あ……」
意味のない声を上げて、水の流れに足を取られそうになりながら後ずさりした。
銀色の目が細められると、こちらへ首を伸ばしてきた。
「こ、来ないで!」
剣を再び構えて叫ぶ。
生憎、剣道も武道もやったことのないわたしが構えている様子はかなり間抜けだろう。
それでも精一杯威嚇のつもりで身構えた。
「地下にいた子の足を返して下さい! それと、もう誰かを襲うのもやめて下さい!」
叫べば、グルルと呻く声が雨の鳴る轟音の中聞こえた。長い尻尾が大きく持ち上がると、勢いよく流れる水を打ち付けた。
「痛っ」
跳ねた水飛沫が小石のように固く、わたしの肌に当たった。剣を持っている腕で顔を庇い、目を上げた先には大きな口が見えた。
鋭い牙が並び、蛇のような舌が見えて、それが顔の前に迫ると急に下へと方向を変えた。
足が!
瞬時に持っていた短剣を目の前の顔に突き立てた。
木製のはずなのに、それは龍の眉間に刺さり、鋭い光を放った。
辺にこだまする雷鳴のような絶叫。
思わず耳を塞いで蹲ると、勢いを増した水に背中を押されて、瞬く間にわたしは流された。
必死で水面から顔を出すと、さっき自分が立っていた場所で、銀の鱗を光らせた龍が手負いの蛇の様にのたうち回っていた。
水の流れが早すぎて、立てない!
深さはそんなに無いはずなのだけれど、物凄い水の勢いでとにかく立てない。
顔を水に付けないようにするのがやっとで、足を掬われては流されていく。
爆発音のような雷鳴が響いた。
魚さんが吠えたのか、閃光は走らずお腹に響く轟音がビリビリと空気を震わせる。
僅かに見えた視界に、濁流の向こうから水の塊が飛んできたのが見えた。
また反射的に短剣を振り上げた。
バシンと腕から肩にかけて衝撃が走った。かなり痛い。
ジンジンと痺れがあるけど短剣を離すまいとして、再度強く握り締める。
この退魔の剣のおかげで魚さんからの攻撃を受けなかったんだろう。でも完全に防げるわけではないみたいで、何度も受けていたら腕が壊れてしまう。
また何か、濁流の動きとは違う流れが、物凄い勢いで足元に向かってきた。
かなりきつい体勢だけれど!
足を引っ込めて短剣をつま先に向けて守る。
水の流れもあり体がくるりと回って、頭が水に突っ込む形になった。
その時、グニャグニャと歪んだ動きをした水の塊が、足元を掠め、短剣によって派手に弾けるのを見た。
途端に体が宙に投げ出されて、空と濁流が交互に映った。
派手な水飛沫を上げて濁流の中に落ちる。
幸いにも深さのある所だったようで、地面にぶつかることなく水中へ沈む。
水の濁りがひどい。
目を薄ら開けても砂や泥のせいで視界が悪い。これじゃあ何も見えない。
水を掻いて足をばたつかせて、なんとか水面上に顔を出した。
泥の匂いが鼻を突く。
空からは相変わらず雨が降っていて、水面が広がる空は揺らめいている。
濡れて光った銀の鱗が見えた。
激しい波間にズルズルと動いているのが見えて、慌てて辺りを見渡す。
とにかく岸に上がらないと!
このままじゃ無駄に体力を消耗するばかりで、身動きだって録に取れない!
短時間でかなり流されたらしく、村の下にあった民家が周りに見えた。
家の角に捕まろうと手を伸ばしたけれど、あまりにも流れが強すぎて、壁を掴む前に押し流されてしまう。
妖しく光る銀の鱗が近づいてくる。
すぐそこまで迫って来ている。
足の下に流れる水の動きが変わった。
真下を見れば、濁った中に光る銀の渦が見え隠れしていた。
とぐろを巻くようにしているその真ん中に、鱗よりも鮮明に鋭く光る銀が二つ、妖しく光った。
急速に体が下へと吸い込まれる。龍の大きな口が開かれたんだろう。
水に浸かっているにも関わらず、冷や汗が全身から出たのが分かった。そして脳裏に足が龍の口に挟まれ、喰いちぎられる自分の姿が浮かんだ。
強く目を瞑ろうとした時、紅い影が目の前を通った。
思わず目でそれを追えば濁流の中、儚げに流れるそれは、紅い小さな花だった。
水に沈んだ村。鬼さんが生まれた村。そして魚さんが鬼に戻った村。……狂った村。
そして、朔紅童子。
鬼さんの真名でもある名前。あの少年の、あの子達に与えられた生贄としての名前。
吸い込まれるに任せて退魔の剣を両手で握る。
足が龍の牙の間を通り、下半身が口の中に収まった。そして口が塞がるその瞬間、わたしは龍の上顎に思い切り剣を突き立てた。
太ももに痛みが走る。ブツリと肌に牙が刺さった生々しい感触があった。
それでも、血で染まった泥水と共に水上へと吐き出された。
「鬼さん!」
ありったけの声で叫ぶ。
口を開けば水が入り込んで泥の味がするけど、構わず空を見上げて叫んだ。
「鬼さん! 朔紅童子……」
ゴボゴボと口から息と水が出る。
降り続ける雨が銀糸のように冷たく光って、穴の空いた屋根や崩れた壁を濡らし、わたしの顔にも降り注ぐ。
「わたしは今、赤鼓村にいるの!」
空の水面が歪む。村を覆う水面が波立った。そこから見えてきたのは、紅い、歪んだ、紅い月。
「だから早くここに来て! わたしの手を取って!」
サクベニドウジオオアナノ――
轟音にかき消されながらわたしが鬼さんの真名を唱えた瞬間、目の前に龍の頭が現れた。
「もう……諦めて下さい……」
眉間には穴があり、血に濡れて、剥き出しにした牙の間からは絶えず血が噴出していた。
もう周りは茶色い濁流ではなく血の川だった。
龍となった魚さんが鱗を動かして、水の中を動くたびに赤黒い水は広がっていく。
銀色の体と瞳は血で染まっているのに、それでも尚、雨に濡れて妖しく光っていた。
「どうか、ご覚悟を……」
開かれた大口に、わたしの目も見開かれる。
身を守ろうと短剣を突き出そうとした瞬間、ズキリと足に激痛が走った。動きが止まり、痛みに顔が歪ませている間に、もう目と鼻の先に牙が迫っていた。
歯を食いしばって体を固くした。もう目の前は暗くて血に濡れて、何も見えない。
体がきつく巻かれ、宙に浮かされる。
わたしは強く目を閉じて、喰われるその時が来るのを待った。




