十四ノ怪
暗い森の中を、小さな丸い背中が見え隠れしている。
枝や茂みを払いのけながら、わたしは顔を上げた。
「あ、あの! 待って……」
大きな木の根を超えて必死に後を追うのだけれど、ずっと先にいる老人は杖をついているのにも関わらず、その歩みは止まらず先を進んでいた。
「お爺さん待って下さい!」
大きめに声をかけると、お爺さんが僅かに振り返るような気配がした。そしてわたしがある程度先に進むと、またゆっくりと歩き始めた。
「どこに行くんですか?」
「良いとこじゃ」
お爺さんの声には疲れを感じる物は無く、木の根も軽々飛び越えて進んでしまう。
こんなやり取りを繰り返し、お爺さんに反してハァハァ息を吐きながらわたしがまた木の根を超えると、ようやく森を抜けた。
「ここって……」
森に囲まれたその場所は、小さなお社と地面に空いた人一人通れるくらいの穴が一つ。。
そう、わたしが元いた場所だ。
目の前に広がる景色を見て落胆の息を吐いた。
戻ってきたんじゃ、意味がないよ。せっかく頑張って森を進んできたのに。
「こっちじゃ」
思わず膝をついたわたしに、お爺さんが穴の傍で手招きした。
「お前さんが退魔の剣を持ち出してくれたからのお。儂もこの通りこちらへ来れるようになったんじゃ。褒めて遣わそうかの」
「は、はぁ……」
なんとも間の抜けた声を出してわたしは立ち上がった。
もう疲れすぎて頭が回らない。
きっと気になることや、詳しく聞かなきゃならない事もあるんだろうけれど。もうとにかく疲れてしまってダメだ。
体のあちこちがガタガタだ。
「この穴の下はの、人間どもは御神水等といって崇めておる場所のようじゃが、神が死んだ今では意味などない」
「御神水?」
穴を覗き込みながらしゃがれた声で淡々と話す様子に、わたしは疲労の目を向けつつ首を傾げた。
「昔は確かに神が住んでおった。しかし今はもう、川の神は死んだんでの、ただの濁った水じゃ」
そうだったんだ。
さっき見ていた時は骸骨ばかり気になって水は見ていなかったから覚えていないけれど、あの地下に広がる水は濁っていたんだ。
「どれ儂の後に参れ。良い事を教えてやろうかの」
お爺さんはそう言うと、スっと穴を覗き込むと、そのまま足元から飛び降りた。
「え!? ちょっとお爺さん!」
慌てて穴へ駆け寄ると、お爺さんは真下でわたしを見上げて手招きしていた。
「構わんよ。降りて来なさい」
けろりとして笑う姿にハァ~と息を吐く。
お、御爺さんってば。意外とアクティブなんだから。びっくりした。
気が緩むと同時に穴の暗闇に目が行くと、あの惨状の出来事が空耳となって戻ってくる。
穴の中へ鼻を近づけてみても血の匂いはしない。
どうやらさっきの惨状は消えてしまったのか、血生臭さも呻き声も聞こえてこないようだ。
「怯えなくとも良い良い。死霊の戯れはもう此処にはおらんよ」
降りるのを躊躇していたからか、お爺さんはカッカと快活に笑って歩いて行った。
ここで穴にしがみついていても仕方ないよね。
お爺さんの言うように、とにかくここは降りてみよう。
登ってきた時と同じように縄梯子を駆使してなんとか下りる。体は疲労困憊で、何度か力が抜けて落ちそうになるけれども、そこは踏ん張って無事地面の上に降りた。
恐る恐る周りを見渡す。
暗いけれど静かで、やっぱり血の匂いはしない。たまに小さく波の音が聞こえてくるくらいだ。
「ちょいとお前さんには、暗すぎるかのぉ」
声の直後に、穴の真下にあった数本の蝋燭が灯った。薄暗くはあるけれど、穴の中に明かりが広がる。
「ほれ見てみ」
お爺さんが水辺に近寄り、杖で骸骨の方を指した。
骸骨は変わらず水の中で鎮座して、ボロボロの死装束を身に纏っている。
水辺に近寄り、水面を眺める。
灰色に濁った水は奥の方まで広がり、時折小さく波を立てては消えていった。
「川の神も人間が永きに生み出す穢には勝てぬようじゃの。鬼一匹、魚に変えてまで人間を守ったのに、この様じゃ」
「え?」
「この村より遠く上流に人里があったんじゃが、時代と共に姿形を変え、人々が集まり、汚水や黒煙を撒き散らすようになっての。川の神を蝕んでいったんじゃ」
この話って、魚さんが言っていた川の主の話と似ている。
いや、鬼を魚に変えたってことは、紛れもなく魚さんが言っていた川の主のことなんじゃ。
「この御神水と崇められた水もこの通り今では汚れきっておる。神も死んで水もこれでは、御神水とは程遠い」
杖の先を水に触れて、少し動かした。
そうすれば小さな波紋ができて、奥の方へと響いていく。
「しかしこの村の人間共は儀式を止めぬ。大穴に喰らわれ裂かれても、死を受け入れず欲を撒き散らし、そしてまた殺されることを自ら繰り返している。……愚かじゃのお」
最後の方は嘲笑を含んだもので、歪んで笑った口元は背筋を寒くさせるものがあった。
一瞬やめようかと思ったけれども、わたしは気持ちを奮い起こしてギュッと拳を作った。
「あ、あの」
「ん? なんじゃ?」
「もしかしてその、魚にされた鬼を、お爺さんは知っているんですか?」
ドキドキしながら水を杖で遊ぶお爺さんに問いかける。
「あぁ知っているとも。昔から大層な悪餓鬼じゃったようだの。まぁ鬼じゃからな。当たり前じゃて」
あぁ、やっぱり! このお爺さんは魚さんの事を知っているんだ。
それなら話は早いわ。
「あの今、その魚にされた鬼が他の妖怪を食べて、鬼に戻ろうとしているんです。このままだと他の妖怪や、鬼が襲われて」
「そしてお前さんも飼い殺しになる、と?」
遮られた言葉に驚いて固まってしまう。
わたしの面食らった様子に、満足げに目の前の老人は笑った。
「ここ最近騒がしいからの。まぁこの爺の遠い耳にも入ってくるんじゃて。特に鬼どもが騒がしいとな」
「お爺さん……一体誰なんですか?」
まるで何もかも見透かしているような感じに、無意識にそんな言葉が出てしまう。
「ただの物好き爺じゃ」
今まで水を波立たせていた杖を手元に戻し、コツコツと杖で床を鳴らしながら、棒立ちになっているわたしの所へ寄ってきた。
「お主、退魔の剣を持っているな?」
「え?」
「それを水に浸してみると良い。儂は遠くから見ておるからの」
わたしの傍を通り過ぎ、壁際へとゆっくりと歩いていく。
それを見て、胸元にしまっていた木で出来た短剣を取り出す。短剣はほんのりと光ってとても幻想的だ。
退魔の剣? これが?
手元の短剣から水辺に目を向ける。
水面はやはり灰色に濁っていて底どころか水中も見えない。
とにかく、やってみるしかないか。
わたしは疲れた体を引きずって水辺に寄り、膝をついた。そしてゆっくりと剣を横向けにして水に浸した。
波間に揺れる剣は静かな光を放っている。
でも次第に刃に描かれた模様が強く光りを放ち、やがて大きく広がると水面を駆け抜けた。
みるみる灰色だった水面は透明度を増し、水晶みたいな輝きを持って変わりだした。
――哀れ泡
「え?」
突然聞こえた掠れ声の様な、隙間風のような物が聞こえて顔を上げる。
――哀れ泡よ銀の
誰かが詠っている?
目を走らせて、聞こえてくる何かの正体を探すと、水に浸った骸骨が目に映った。
――哀れ哀れよ泡よ銀の
――贄の我を喰らうとも、真の贄とは異なりて
タプンと波が大きくうねると、骸骨の足元が僅かに見えた。
……足が、無い。この骸骨、足がない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
目の前で飛び散る鮮血を、唯唯見ているだけだった。
集落を苦しめた奴らが無残にも死んでいく様は、意外にもなんの感慨も与えてくれなかった。
「今日までの屈辱、長らく耐え抜き大儀だった」
穴から落ちてきたその影は、優しく血の匂いのする手で頭を撫でてくれた。
「これから無念を晴らしに参る。お前の名を背負い、穴へ飛び込んでこよう。……その様に冷たき水に浸かり辛かったろう。今楽にしてやる」
「あぁ待ってください」
鋭く光る銀色が真っ直ぐ縦に光ったのを見て、穏やかに制止した。
「せめて両手の縄を切ってください。それから逝かせてください」
「……分かった」
両手にきつく縛られた縄を切って貰い、肩まで浸かっていた体を岸辺にまで寄って上がった。足はまだ繋がれたままで、水にも浸かったままだが、ホッと息を吐いてその影に微笑んだ。
「互いに辛いですね」
「だがそれも今宵で終いだ。暫し辛かろうが、お前は婆様や姉様達と天上へ逝っておくれ」
「……兄様は、如何するのです」
「贄と成り、穴に喰わせる身だ。共には逝けない」
「兄様は鬼となるのですか」
「いいや。捧げるだけの贄よ。本心は自ら鬼になるのが望みだが、それでは全て喰い潰す事は難しい。せめて願うなら、瘴気でこの身が鬼となり、抜けた魂で奴らが苦しむのを眺めたい」
自分とそう歳は離れてはいないが、ずっと動けずにいた自分とは違い、力強さを感じる。そして底なしの怨恨も。
「もう一刻を争うでしょう。早く引導をお渡し下さい」
「すまぬな」
「いえ。一番辛い願いを負って下さるのですから。謝らないで下さい」
一瞬の間があってから、体を鋭いものが突き抜けた。
何故か痛みは感じなかった。
仏様が微笑んでくださったのか、御神水のおかげか定かではないが、苦痛はなかったのだ。
走り去る影が、神棚のお神酒を幾つか手に取ったのを見届けて、静かに目を閉じる。
崩れてそのまま座り込むが、倒れ込むことはしなかった。
この御神水に守られている限りこの身は清いままだろう。ただ目の前の奴らの血がこちらへ流れてくるのを見ると、この水も穢れ、少なくとも近い内に足は御神水の加護から外されるのであろう。
そう思えば、せめて足以外は清きままでありたかった。
己はここに鎮座し続けよう。影しか分からぬが、あの兄様ばかり辛い目に遭わせられぬ。
ここで崩れてはこの身もいつしか穢れてしまう。
ならばいっその事、ここで清い身体を残そう。
肉体が滅び、骸の身になろうとも。穢れ無き身でいられるのならば、永遠に鎮座しよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
体がビクッと跳ねた。その途端水が跳ねて腕にかかる。
意識がまたどこかへ飛んで戻ってきたようで、暫く水に浸かったままの短剣を見つめ、それから呆然として骸骨を見た。
白い彼は全く動かずにいるのに、まだその崩れそうな歯列からはずっと謳う様に声が聞こえてくる。
さっき視えたのはこの骸骨の子の最期?
――退魔を纏いし残る身は、喰えぬからと水底の、加護を受けぬ両の足、喰らい喰らいて鬼と帰す
ポツポツ語られる言葉に目を見開く。
今の喋った内容って、魚さんの事なんじゃ。それじゃあ足が無いのは、魚さんがこの骸骨の子の足を食べたっていう事で、それで鬼に戻れたというの?
“昔とは違いますが……小さいながらも、紛れもなく鬼の角にございます。これも鬼様……あなた様の残り物のおかげでございます”
鬼さんと対峙した時に魚さんが言っていたセリフ。
まさか、この子の事を言っていたんだろうか。残り物と言うのは、生贄として生かされてきたこの子の足のこと?
きっと足は穢れてしまったせいで、御神水の力が失われて、魚さんから守られなかったんだ。
だとしたら、魚さんがここまで来たと言う事は明白と言う事になる。
鬼さんの真名である『朔紅童子』という名前を知ることも出来たはずだ。
死んだ人間が死んだことにも気付かないで、動いていると話していたし、きっとこの村で起きた惨状も見た可能性がある。
村の人達はしきりに『朔紅童子』という言葉を口にしていたんだから尚更だ。
「銀坊にも困ったものじゃの」
ハッとしてお爺さんへ振り返れば、コツコツと杖を突きながら暗い方へと歩き出していた。
「さて儂はそろそろお暇すかの。後は自分の足で歩くと良い」
「待ってお爺さん! お爺さんは、本当は――」
「良き語り話が出来るよう、期待しておるよ。儂は退屈が嫌いなんじゃ」
誰なの? と問いかける間もなく、老人はカッカと笑って杖を地に打つと、突然姿を消してしまった。




