三ノ怪
深く息を吐はいて、ソファーの背もたれに深く体を沈めさせた。魚さんの話を聞いて、やっぱりと思う反面、強い違和感も覚えた。
呆然としている中、不釣合いなテレビの笑い声と外の波の音が、響いて耳にこだました。
これだけ穏やかな光景なのに、どこか非現実的に見えて仕方なかった。
「夕餉はまだでしたね……話の続きは、この後に致しましょう……」
「え? 夕飯?」
立ち上がった魚さんを見上げて、わたしは瞬きをした。
だってわたしが気を失ったのってお祭りの夜だったのに、もし今が夕飯時ってことは、わたしはほぼ丸一日寝ていたっていうことになる。
ガラス戸の外から溢れる光はまだ明るい。
夏の日差しにしては少し弱い気がするけれど、まだそんなに遅くはないはずだ。
「大変……お疲れになられていたようでしたので……。起こすのも可哀想に思えましてね……起きられるまで、そっとしておこうかと……」
わたしの内心を見透かしたのか、魚さんは少し口端をあげて笑った。
今何時だろう。テレビ画面を見ても、どこにも時間は表示されていない。部屋を見回して時計を探してみるが、時計は一つもなかった。
わたしがキョロキョロとしたからか、魚さんがまたフッと笑った。
「時間が知りたいのですか? ……それでしたら今度……時計なるものを用意致します」
「あ、いえ、そんな」
「いいのですよ……貴女様が喜んでくれるのなら……私も嬉しいのです……それに――」
言い掛けてわたしの方をじっと見ると、顎に手を当てて何か思案した。
「それに? なんですか?」
その様子に不安になって先を促すと、魚さんは『あぁ』と呟いて顔を上げた。
「お召し物も……すぐ用意致します。……もう暫く、そのままで我慢して下さい……」
言われて胸元をギュッと握り込み、体を小さくした。
そうだ、今ガウンしか羽織ってなかったんだ。別のことで緊張していて、すっかり忘れていた。
俯いて体を固くすると、魚さんの喉で笑う音が聞こえてきた。
「ではこれから夕餉の支度を致しますので……此方でも宜しいですし……お部屋でごゆっくりして、お待ち下さっても良いですよ……」
「あ、待って下さい!」
歩き出した魚さんに弾けるように顔を上げて、わたしは慌てて引き止めた。
「わたしは、さ、魚さんとは、暮らせません。鬼さんの所に居るのも嫌ですけれど、だからって、魚さんの所に居る訳にもいかないんです」
心臓がバクバク鳴って鼓膜に響く。
上擦った声で、それも必死に魚さんに向かって訴える。
「わたしは鬼さんの所にいるって、約束したんです!」
「それは何故です? もう煩わせる人間など……残っていないのに……」
湖面の様にきらりと光った灰の目を向けて、魚さんは顰めた顔をした。
グッとガウンを掴むと、わたしも目元を歪ませた。
「わたしが……わたしが前に約束を破って鬼さんから逃げたから。だから今度こそ鬼さんの所に残っていないと……」
わたしは前に鬼さんから逃げ出してしまった。
そのせいで同級生の子達が死んでしまった。きっとこれからだって、わたしが鬼さんから離れたら、誰かしらが不幸になる。
そこまで思った次の瞬間、ハッとした。
「……紫さん!」
小さく叫んで、両手で口を覆った。
忘れてた……わたしから離れたら、紫さん鬼さんの呪いで消滅してしまうんだ。そうだ! どうしよう!
魚さんの攻撃で林の中に弾き飛ばされてしまって、その後は全然姿を見ていない。
紫さんは無事なんだろうか。怪我はしていないのかな。
でもあの攻撃を受けて無傷だったとしても、鬼さんの呪いのせいで死んでしまったんじゃ、元も子もない。
「さ、魚さんお願いです! 鬼さんの所に戻して下さい! あの時一緒にいた煙の妖怪は、わたしから離れたら鬼さんの呪いで死んでしまうかもしれないんです! 早く、戻らないと」
「……もしそうだとしても、最早手遅れでしょう」
「そんな! ま、まだ分からないじゃないですか! もしかしたら徐々に呪いが進行していくタイプで、急げばまだ間に合うかもしれない」
「間に合ったとしても、関係ありません……寧ろ、都合が良い」
ひたり魚さんはわたしへ足を踏み出した。
わたしも出かけた言葉を呑み込んで、反射的に一歩後ろへさがる。
「あの妖や鬼様のことなど……忘れて良いのです……。忘れられぬのなら……わたしが忘れさせてあげましょう……」
濁った灰が刀のように鋭く光る銀へと変わる。そして水掻きのついた手がわたしへ伸ばされた。
その瞬間、わたしは全身から汗が噴き出し脇目も振らずに後ろへ駆け出した。
まだ入っていないドアに駆け寄り、ドアノブに手を掛け、体当たり同然にドアを押し開いて中へと入った。
そこにはテーブルと二つの椅子が有り、台所が目に入った。
素早く目を走らせて奥にドアを見つける。何も考えずに転げ落ちそうになりながらそこへ向かって走る。
ノブを回して中へ入った。視界の先には左右に伸びた廊下。先はどちらも壁になっていてドアは無い。
わたしは左に目をやり、そちらを選んでまた駆け出した。
考えている暇はない。イチかバチか。
廊下は短くすぐ曲がり角に行き着き、壁に手を当てて無理に方向転換すると走った。
魚さんはもう後ろまで来ているのだろうか。この先に出口はあるんだろうか。
角はまたすぐに壁に当たった。今度は右へ曲がる角になっており、わたしは考える間もなく右へ体を捻った。
「ひ……っ!」
自分の喉から悲鳴にならない引き攣った声が上がった。
「……え様」
曲がった先に、魚さんが立っていたからだ。
「嫌っ!」
驚いた勢いで転びそうになった姿勢を無理に直すと、わたしはすぐ様後ろへ体を捻り、足を動かした。
でもそれはすぐ無駄になった。
魚さんに背中を見せた瞬間肩と腕を掴まれ、強い力に背後へ引き寄せられた。
「少し……落ち着いて下さい……」
冷たい吐息が耳に掛かり、全身に鳥肌が立った。
掴まれた場所は肌に食い込むほど力強く、骨を直に掴まれているようだった。
「は、離して! やめて!」
「……え様」
低く押し殺した声がして、ギリっと掴まれた場所に力が加わり、思わず痛みに叫んだ。
「あぁ……申し訳ございません。……ですが、どうかお静かに……」
力は弱まったけれど、拘束から抜け出せるほど握力は緩めてくれなかった。
ガクガク震えるわたしを、魚さんは肩を掴んていた手を放し、胸の下に這わせて引き寄せた。
「ここでお過ごしになられて……暫くもすれば……慣れますから」
「い、嫌ですっ。わた、しは」
「貴女様は……人魚の肉を……お口にしたのでしょう?」
ぎょっとして後ろの気配に目をやる。
「日向の匂いに混じって……僅かに人魚の気配がするのです……いずれは匂いも消えるのでしょうが……まだ日が浅いせいでしょうか……匂うのです」
まだそんな匂いがするんだ。
食べた本人であるわたしは何も感じないのに、他の妖怪同様、魚さんもわたしの体から人魚の匂いがするんだ。
「その身体では……陽の下で元の様な生活は望めないでしょう……。鬼様の所へ帰るのもまた……貴女様にとって苦痛以外の何物でもない……。そうだとするなら、貴女様が帰る場所は……此処しかないのです。……ここが貴女様の帰る家なのです」
言いきった魚さんに、わたしは何度も首を横へ振った。
「違う違う! わたし、鬼さんの所でも無くて、魚さんでも無くて、家族の所に帰りたいんです。あそこがわたしの帰る家なんです!」
「鬼様の呪いで……ご家族は貴女様を忘れております……名も取り上げられ、待つ者もいません……貴女様に現世へ帰る所など無いのです」
腕を掴んでいた手も外れ、胸の下を這う腕に重なる様にして強く抱き抱えてきた。
頭に冷えた顔が擦りつけられて、息が詰まった。
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「こちらでお休みなって下さい……」
恐怖で固まっているわたしをベッドに座らせると、魚さんはそっと頬を撫でた。
「鬼様と違って……私は貴女様を宝のように大事にします……先程は乱暴な真似をして……申し訳ございません」
わたしはガウンの前をきつく締めて俯いた。それから口をきつく結んで黙り込んだ。
「……夕餉の支度を、して参ります」
呟くように言い残して、魚さんは出て行った。
しんと静けさが残る部屋に一人座り込み、わたしは袖をまくって掴まれた腕を見た。
そこにはくっきり手形のついた痣が残り、どれ程の強い力で掴まれたのかよく分かった。
頭を抱えてきつく目を閉じた。
これからどうなるんだろう。まるで鬼さんに連れ戻された時みたいに、不安と恐怖心しか今は浮かばない。
立ち上がろうと思っても足に力が入らなかった。足は根元からブルブルと震えて使い物にならない。
わたしはそのまま、立つことも逃げ出すことも出来ずに、魚さんが部屋に呼びに来るまで石のように固まって座り続けた。
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すっかり窓辺に明かりが消えた頃、魚さんがわたしを夕食の席に呼んだ。
わたしの引き攣っているであろう顔を見ても、魚さんは気にも止めずに柔らかく笑って階下へと促した。
テレビのある居間を通り、奥のドアへと案内される。
台所のある部屋には、テーブルに二人分の洋食が向かい合わせになる形で並べられていた。
「こちらの方が……現代の人間はお好みかと」
入ってきたドアの前で立ち尽くしているわたしに、魚さんは椅子を勧めて来た。
断るわけにもいかず、わたしは大人しく手前の椅子に怖々と腰掛ける。
「本日のお飲み物は特別なんです……是非お飲みになって下さい」
用意されたグラスには、既に透明な黄緑色の液体が入っていた。表面には水滴が出来ていて、とても冷えているように見える。
「どうぞ……お召し上がりになって下さい……」
正面に座った灰の瞳に促され、瞬きを繰り返しながらグラスに目をやる。すると魚さんは自分の前にあるグラスを手に取って、わたし小さく笑って頷いた。
わたしも自分の前にあるグラスに手を伸ばし、そっと手に持つ。グラスを顔に近づけると甘い果物の香りがして、半透明な黄緑色の液体がキラリと光った。
そんなわたしの様子を、食い入るように見つめる魚さん。観察するかのような視線が刃のように鋭い。たらりと嫌な汗が首をなぞる。
……もしかして、この中になにか入っているんじゃ。
そう思ったと同時に、緊張のあまり手元に添えられたフォークが肘に当たり、床へとしてしまった。
「あ、すいません」
慌ててグラスを置いて椅子から立ち上がる。
「いいえ……そのままで」
拾おうとしたわたしを制して、魚さんはゆるりと立ち上がりフォークを拾った。
「今新しいのに……変えますので」
屈んでいた床から立ち上がって、魚さんはキッチンの流しへ歩いて行った。
背を向ける形になった魚さんを見る。それからグラスに目をやった。
そっと腰を浮かし片手を持ち上げる。手はブルブルと震えて落ち着かない。グッと息を潜めてお腹に力を込めると、ゆっくりとグラスに手を伸ばした。
冷たいグラスに指先が触れる。それから零さないように持ち上げて、魚さんの前に置いてあるグラスも手に持った。
「鈴音様」
ビクッと心臓と肩が跳ねた。
恐る恐る目を上げて見れば、魚さんはまだこちらに背を向けたままだった。
「箸の方が……宜しいですか?」
コクリと静かに喉が鳴る。
それから少しだけ頷いて引き攣った笑みを浮かべた。
「どちらでも、大丈夫です」
返しつつ両手に持った二つのグラスを、震えながらもなんとか静かに置き換えた。
まだブルブル震える両手を手前に戻し、そして浮かしていた腰をそっと音を立てないようにして、椅子の上に下ろした。
「では……新しいものです」
言いながら魚さんはわたしの方へ歩いてくると、わたしの手元にフォークを置いた。
「それでは……頂きましょうか」
「……は、はい」
ガチガチに緊張しているせいで小刻みに震える手を、グラスへ伸ばして掴んだ。それから持ち上げて、そっと口へ運ぶ。
魚さんはそれを見て微笑み、自分のグラスに口をつけて喉を鳴らした。
わたしはジッとそれを見て、ドクドクと鳴る心臓と冷や汗を感じながら、一口グラスの中身を飲んだ。
味は爽やかで甘い。でもそれよりも魚さんが気になって仕方ない。
魚さんはグラスの中身を全て飲み干した。
空になったグラスをそっとテーブルの上に置くと、まだ手に持つわたしを見て、微笑んだ。
「何も入って……いませんよ……」
心臓が引き攣った音を立てた。血の気も引いて、強い目眩がした。
全部、見透かしていたんだ。
そのうえで全部飲んで見せたんだ。この、目の前の灰色の鬼は。
完全に凍りついたわたしに、気にすることもなく食事を始めた魚さん。
わたしは動けず固まったまま、一口グラスの中身を含んだにも関わらず、口の中が渇いて仕方が無かった。




