一ノ怪
山道を通り、月の灯もない夜の村に着く。
あたりに瘴気が立ち込めて霧も深い。空も暗く見えるものは何もない。
黙々と歩を進め村の中を歩く。建つ家々には茶色く酸化した鮮血の飛び散った跡が有り、欠けた家具や骨の破片も落ちている。
家屋も屋根が落ちたものや原型は保っているものの、窓や戸は破れ畳や床も抜け落ちている物が殆どだった。
しかし古く昔の出来事の筈なのに、欠片とは言え残っているのは村そのものが余程未練を残しているからだろう。
塵と返っておかしく無い年月を過ごしているこの村は、最早呪われていると言っても過言ではない。
「鬼だ……!」
暗い道の真ん中で、一人の影が怯えた声を上げて立っていた。こちらが目を細めて歩み寄れば、腰を抜かして片手を突き上げた。
「待ってくれ! 許してくれ! 悪かった、俺達が悪かった!」
構わず足を進める。影は低く男の声で、今にも泣き出しそうな悲鳴を上げながら地面の上を這うようにして後ずさっていく。
「後生だ! 命だけは、命だけは助けてくれ! な? 頼む! また誰か別の人間を差し出すから! 酒でも米でもやるから! だから俺だけでも助けてくれ!」
自分が既に死んでいると、この影は分かっていないようだ。
命乞いなど無駄なことをして。
恐らくこの村に充満する瘴気の他に、この様な無様な思念も残っているのだろう。
「今からでも遅くねぇ! 謝るよ! 悪かったから! もうお前達に手は出さねぇ! 女も子供も、二度と! お、俺は元々反対だったんだ! 本当だ!」
煩い。
地面を蹴り、間合いを詰めると影に爪を下ろした。
影は生前同様、断末魔の声を上げて首と思わしきところから鮮血を吹き出した。
顔に掛かる血。匂いも温かさも生々しい。
しかし濡れた顔に手をやるが、触れた指に血など付いていなかった。
倒れた影も、まるで元々そこに存在しなかったかの様に、忽然と姿を消していた。
「ここまで……残って……いるとは」
呟き顔を上げる。
後ろから前から聞こえてくる悲鳴に怒号。この村は来る日も来る日も、いつ迄もこの惨状を繰り返し怯えているのだろうか。
「ここに紅い鬼様の……真名は……あるというの、か……」
噂程度に聞いた話。雲を掴むような噂話だ。しかも何処にでもある様な。
しかしこうして妖ですら近寄らぬ村が、幾つかこのように存在している。
数少ない闇渦巻く瘴気の塊を、一つまた一つと潰していけばいつかは辿り着く筈だ。
この赤鼓村も、過去何があったのか未だ分からぬ。
分かったとしても、鬼の真名に関わらぬ事ならどうでも良い。直ぐに立ち去るだけだ。
この村の闇は常闇の物より質が悪そうだ。頃合を見て早々引き上げなければ、己の身も危うい。
まだ体は魚の名残が有り、動きも鈍い。呪術の類は元より覚えはない。
闇に呑み込まれぬ内に探さなければ。
紅い鬼の真名を。
・・・・・・・・・・・・・・
頭が痛い。ガンガンする。
それに寒い。凍えてしまいそうなくらい、寒い。全身鳥肌が立っているのが分かるくらい。
ぎゅっと握り込む。シーツか何かを掴んだようだ。体は無意識に力を入れ続けていたようで、全身強張っており、筋肉が緊張で張り詰めていた。
そっと目を開ける。視界にはまず、真っ白な布が目に入った。そしてぼんやり見える、薄暗い部屋の様子も。
「ここは……?」
目だけを動かして辺りを伺う。
白い壁にダークブラウンの簡易デスクと、それに合わせた同じ色のワークチェアがひと組。その上に両開きの白い窓が閉じられていて、床は緑色の絨毯が敷かれて柔らかそうだった。
周りを警戒しながら体を起こす。
自分はベッドに寝かされていたようで、手元の白い枕はへこみ、白い掛け布団は体の脇に置かれていた。
「魚さんは……」
自分をここへ連れてきた張本人を探そうと動いた時、自分の服装がゆったりとしたグレーのガウンを着ているだけだと気づいた。
心許ない軽装に、不安から胸元をギュッと握りこむ。
なんだか普通の家みたいだけど。ここはどこなんだろう。
魚さんはここにいるの?
そっと絨毯に降りる。柔らかな感触が足の裏に感じながら部屋の中央へ移動する。ドアは……机のすぐ傍だ。
息を詰めてドアの前に行く。手に汗をかきながらドアノブへ手を伸ばす。
金属特有の冷たさが指に触り、震えそうになるのを堪えながら、ゆっくりノブを回した。
ノブはすんなり回り、押せばドアが開いた。
息を殺しながら狭い隙間を、目だけでそっと覗き込み外を伺う。
ドアのすぐ前には白い天井と木目調の下り階段。そして階段の隣には、部屋全体が吹き抜けになっているようで、階段手すり脇から階下が見えた。
縁側に出られる所と思わしき場所に、うす緑のカーテン。そして部屋の中央には白いソファーとローテーブルが。
その前には電源の点いた液晶型のテレビがあり、両脇の電気スタンドも小洒落ていて、鳥や枝の模様が描かれていた。
なんだか造りからしてコテージのように見えるけど、ここは常闇では無いの? 現世の家なの……かな。
テレビからはニュース番組が映し出されていて、キャスターの人やご意見番の人が何かを話している。
久々に見るテレビだけれど、今はそれどころじゃない。
音をたてないようにドアを開き、素足を階段へ向けて歩き出す。
そっと身を乗り出して階下を覗く。ソファーには誰も座っていない。耳を澄ましてもテレビ以外の物音はしないみたいで静かだ。
誰かが居る気配もないし……とにかく一階に降りてみよう。
一歩一歩慎重に階段を下りる。
階段はフローリングでとても冷たい訳では無いけれど、この状況だと妙に冷え冷えとして背筋が寒い。
階段を完全に降り切ると、丁度テレビがニュースを終えて旅番組に変わったところだった。
明るく笑顔で旅番組のタイトルを言う司会者を見つめる。
本当に、テレビなんて久しぶり。もうずっと見ていなかったし、見れるなんて思ってもいなかった。……しかも、こんな状況で。
ソファーとテレビの間に立ち、部屋を見回す。
これといって特別変わったものは無い。
常闇では見かけない家具ではあるけれど、普通の一般家庭にある、普通の家具ばかりだ。
カーテンに近寄り、そっと捲る。
白い透けたレースと一緒に緑色のカーテンを引くと、外の光景が目に入り思わず固まった。
「なんなの、ここ……」
目を見張って上を仰ぐ。
岸壁が横にも上にも広がり、とても高いところからやっと陽の光が零れて、風が吹けば木陰が揺れて光と影が岩壁で踊っている。
そして岩壁の根元では荒々しい波が泡を立てて、壁に何度も体当たりを繰り返し、ガラス越しでも波打つ音が聞こえてきた。
「ここは、現世なの?」
「目が」
背後からの声に、変な音を立てて心臓が引きつった。
跳ねるように後ろを振り返る。
「覚めましたか?」
ドクドクと鳴る心臓の音を聞きながら、目の前の人物に目を見開いた。
「……さ、魚、さん」
「驚かせて……しまいました?」
小首を傾げて少し笑みを浮かべながら、ソファーの前に魚さんは立っていた。
半袖の水色のシャツにスラっとした紺色のズボンを履いて、見える肌からは手当をしたのか、白い布や湿布のようなものが見えた。
ジリと手に汗を握りながら、距離を取ろうと横へ僅かに足を動かす。
背中をガラス戸に付けたまま横の壁へと移動し、魚さんから距離を取ろうと動いた。
「私が……怖いのですか?」
魚さんはその場から動かなかった。
顔と目を動かすだけで、近寄ろうとも遠ざかろうともしない。
「ここはどこなんです? わたしを連れてきて、どうするんですか?」
「言いましたでしょう? 私と共に……暮らすんです」
「そんなこと、出来ませんっ」
テレビの前にまで来たところで、足を止める。
出口は恐らくあそこの、部屋の端にあるドアだろう。この場に立って初めて気がついたけれど、あそこはまだ入っていないし、他の出入り口はガラス戸以外あそこしかない。
「鬼様の所に……帰りたいのですか?」
「……帰らないと、いけないんです」
「お約束の、友もいないのに?」
彼の言葉に眉を寄せた。
不安になりゴクリと唾を飲むと、魚さんは静かに口を開けた。
「鬼姫様も……かつての御学友も……もう居ないのでしょう?」
背筋が寒くなる。なんでそんなこと知っているんだろう。
魚さんはずっと鬼さんの所から離れていたんだから、そんなこと知らないはずなのに。
一体どうやって……
「口に戸は立てられません……あちこち放浪していた身ではありますが……色々耳にすることもあるのです。ましてや紅い鬼様の事であるのなら……尚更です」
どういう経緯で手に入れた情報かはともかく、魚さんの様子を見る限り得ている情報は本物なんだろう。
どこまで知っているのかは分からないけれど、わたしや鬼さんの今までの事を知っていても、おかしくは無いという事か。
「さて……同じ事を訊きますが……」
静かに魚さんはわたしへ向き直る。
「貴女様は……鬼様の下に……帰りたいのですか?」
また唾を飲み込んで、胸元を強く握りこんだ。
緊張から息が上手く吸えなくて、呼吸が苦しくなる。
「黙っていると言う事は……鬼様に……心も体も……許したのですか?」
「違います!」
それだけは絶対に有り得ない!
いつもの反抗心がすぐに働いて即座に否定した。
こんな態度を取って良いのかどうかは判断できないけれど、こんな緊張していたら穏やかに話なんて無理だ。
魚さんは少しの間わたしをジッと見つめると、不意に微笑んだ。
「それは……良かった」
呟いてからゆっくりと歩き、ソファーに座るとわたしへ手招きした。
「こちらに来て……お話しましょう。……私に、聞きたいことも、あるのでしょう?」
「沢山あります。でも、今は鬼さんのところに戻して下さい。わたしが鬼さんから離れたらどうなるか、魚さんもよく知っているんじゃないですか?」
わたしが鬼さんから離れると、必ず良くない事が起きる。
それに鬼さんが倒れたってことは、あのお屋敷周辺の力関係とかバランスとかが崩れるはず。
特に今の鬼さんじゃ怒り狂っているから、なお更何するか分からないし、他の妖怪に与える影響も出てくるんだと思う。
そして魚さん自身も、今度こそタダじゃすまないはずだ。例え鬼さんの真名を知っていても、あの執念深い鬼さんだもの。必ずなにかしてくる。
「相変わらず……お優しいのですね……」
「え?」
知らないうちに眉間に皺が寄っていたみたいで、顔を上げた時に額に力が込められていたのに気づく。
それを頭の隅に感じながらも、僅かな光でも肌を鈍い銀に光らせながら両手を組んだ魚さんを見た。
「他者を気にかけ……自らの事は……お気になさらないのですね。……全く、鬱陶しい程に……日向の匂いがするお方です」
淡々と呟く魚さんの灰色の目が、次第に銀色へと変わっていく。
「鈴音という名は……鬼様の真名を持ってしても……外れないのです。……なんと忌々しい。これでは恐らく殺したとしても……外れる事はないのでしょうね……」
魚さんの輪郭が次第にぼやけて蜃気楼のように歪んでいく。
纏う空気も荒々しく危険なものへと変わり、同じ空間にいるだけで押し潰されそうだ。
「あぁですが。貴女様に触れることは……出来るのです。……強く真名を念じてさえいれば……鬼火を押さえ付ける事が可能なのです。……鬼様の顔をご覧になったでしょう? 真名を唱えただけで……あの苦しみ様……勿体ぶった甲斐がありました」
遠くを見るようにして、喉の奥で笑う魚さんの表情は冷たかった。
吐息が震えて早くドアに向かって逃げ出したいのに、足が凍りついたように動かない。
「ずっと立っていたら……疲れますでしょう?」
ツイッと銀がわたしへ向けられた。
陸に打ち上げられた魚が大きく跳ねたように、わたしの肩と心臓が動いた。
「こちらに来て下さい……何も、しませんから……」
フッと息を吐いたら肺が震えた。
心臓は鈍い音を立てて緊張している気持ちとは裏腹に、押し殺したように小さく胸を叩いている。
わたしは一度目をきつく閉じて、決心した。
ローテーブルの角を曲がり、魚さんとは正反対のソファーの端により、そっと腰を下ろした。
「教えて下さい。ここの事、魚さんの事、鬼さんの事」
真っ直ぐに目を向けて、銀の眼差しを受け止める。
わたしがギュッと口を結ぶと、目の前の灰色の鬼は柔らかく口元を緩めた。
「勿論……ですとも」




