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妖しい銀  作者: 月猫百歩
滴ル雫
30/63

二十九ノ怪


 足元で膝をついて唸る大きな背中に動揺し、何もできずにオロオロしてしまう。

 突然どうしたんだろう。魚さんが何か言ったら、鬼さんが苦しみ始めたように見えたんだけれど。


「鬼さん、どうしたんですか? 一体何があったんです?」


 声を掛けても苦しそうに背中を丸めるだけで、返事はない。

 こんなに苦しそうにしている鬼さんを初めて見る。本当に、何があったの?


「やはり……苦しいですか」


 吐息混じりに呟く、魚さんの声。

 仰向けに倒れていた体をゆっくり肘をついて立て直し、ゆるりと起き上がる。


「鬼様……貪欲の鬼様。何も考え無しに……鬼様の前に現れる訳がないでしょう……」


 息も絶え絶えに、魚さんは血まみれになりながら立ち上がった。そして目の前に蹲る鬼さんへ、血に濡れた笑みを向けて息を吐いた。


「私は……現世の川辺を渡り泳ぎ……知ったのです……貴方様の真名を」


「鬼さんの、真名?」


 え? それじゃあ、魚さんは……鬼さんの名前を、本当の名前を言ったの?

 だとしたら、えっと『朔紅童子さくべにどうじ』っていうのは、鬼さんの、本当の名前?


 呆然とするわたしに、魚さんはちらりと灰色を向けてきた。


「もうお分かりになったようですね……。そうです……朔紅童子というのは……こちらの、紅い貪欲の鬼様の、真名になります」


 鬼さんの名前。魚さんが口にしただけで、鬼さんがこんなに苦しむなんて。

 やっぱり真名は他人に知られてはいけないものなんだ。

 これだけ危ないことなんだ。


「鬼様……沼の主の姿でいた時に……折角ご忠告申し上げましたのに……なんとまぁ、無様でありましょうか……」


 魚さんの優しい口調には似合わない、冷たい言葉と冷たい笑み。血濡れの顔は真っ白で、綻ぶ口元から血が滴っている様は異様だった。

 思わず後ずさりそうになって、足に力が入る。両手にもじっとり汗が滲み始めた。


「永らく闇に染まり……唯の妖ですら近寄らぬ、怨念渦巻く地を……ひたすら廻り泳ぎました……。そうしている内に、ある村に辿り着いたのです……」


 にぃっと魚さんの口元が歪んで、吊り上がった。


「村の名は……赤鼓あかこ村。……鬼様の故郷であります」


 鬼さんの故郷? 鬼さんに故郷なんてあったんだ。

 てっきり人の怨恨とか怨念とかが生み出した、悪魔みたいな存在かと思っていたのに。

 でも鬼の故郷って、現世に存在するものなんだろうか。


「命辛々行った甲斐が……ありました。……まさかまさかの、貪欲の鬼様の真名を……手に入れる事が……出来たのですから」

 

 酷く咳き込む音に、我に返る。

 大きな肩が揺れて水滴が地面に落ちる音が聞こえてきた。


「お、鬼さん! 大丈夫ですか?!」


 急いで鬼さんの横に膝を付いて覗き込む。

 苦しげに口元を拭った手には、肌の色とは違った赤い染みがべったりと付いていた。


「こっ……ンの、クソ魚がっ」


 ギリリと歯ぎしりをした口から見えた牙は、真っ赤に染まっていた。

 痛みから、それとも怒っているからか。鬼さんの体は小刻みに震え、筋張った腕や足には血管が浮いている。

 鋭い殺気が放たれて、横に居るだけで目眩が起こった。


「あぁもう、二人共! これ以上やめて下さい! もうこれ以上傷つけ合わないで下さい! 鬼さんも! もうお屋敷に戻りましょう! 早く紫さんを呼んで下さい!」


 ふらつきそうになる頭を振って、なんとか叫んで己を叱咤した。こんな肝心な時に失神なんてしてられない!


「魚さんも、今日はもう帰って下さい! こんな事してたらいけないです!」


 魚さんがしたことは許されない。例え同情出来る事情があったとしても、だからといって他人を傷つけて良い理由にはならない。


「二度と他の人を傷つけないで下さい。鬼さんに対して腹を立てるのは仕方がないことです。でも全く関係のない妖怪たちを襲うなんて、そんなのダメです!」


 わたしの叫びに無表情になった魚さんを見て、その痛ましい姿に心が軋む。

 悲しいとか同情心といった物が胸を占めるけれど、それ以上に魚さんがした事はとても残酷で無慈悲で、どうにも仕方無いとは言い切れない。

 河童の子が泣いていたように、実際に襲われた妖怪だけではなく、辛い思いをしているひとは大勢いるんだ。

 

「鬼さん、お屋敷に戻りましょう。……魚さん、鬼さんの事はわたしもよく分かります。悔しいでしょうし、腹も立つでしょう。恨む気持ちも、わたし分かります」


 鬼に籠へ押し込まれて紐で繋がれる日々は苦痛で、過酷な労働が無いとはいえ、自由に何かが出来るわけでもなく、どこへも行けない。

 その原因である鬼さんの傍にいるのは、毒が回る様にじわじわと心を蝕んでいき、自然と暗い気持ちを抱いてしまう。


 わたしでさえそう思うのだから、魚さんからしたら毎日罵詈雑言を浴びせられ、挙句にこき使われていたのだから、ただ憤るだけでは済まないのだろう。


「でも、今日は……今日はもう、終わりにして下さい。どうか帰って下さい。これ以上誰かが傷つくのを見たくないんです」


 鬼さんの前に立ち、魚さんを見つめる。魚さんは微動だにせずわたしを冷たい灰色の瞳で見るだけ。

 痛ましい思いでそれを見た後、振り返り鬼さんへ腰をかがめた。


「鬼さん立てますか?」


「オマエ余計な事を言いやがって」


 悪態をつく鬼さんへ眉間に皺が寄る。

 自分がこんな事になっているのに、まだそんな憎まれ口を叩くの?


「変な強がりはやめて下さい。お説教ならお屋敷で聞きますから」


 こちらも負けずに鬼さんへ強く言い返す。

 帰ってから怖い思いをするかもしれないけれど、今はこの二人を引き離すのが先決だ。長く同じ場所にいればいるほど、きっとお互い頭に血が上ってしまう。そうなる前に、離さないと。  


 一度深呼吸をしてから鬼さんの脇へ寄り、意を決して大きな背中へ腕を回す。

 動けるわたしがしっかりしなければ。


「さ、鬼さん立って下さい」


 覚悟して言ったものの、出た声は震えていた。心臓が変な音を立て、冷や汗が背中を濡らす。

 自分からとは言え、鬼さんに密着すると悪寒がして口を引き締めないと歯が鳴りそうになる。

 でも今はそんなこと言ってられない。早くこの場を離れて鬼さんを鎮めないと。


「行きましょう」


 鬼さんは最初こそ立ち上がる素振りを見せなかったけれど、わたしが何度か体を持ち上げようと踏ん張っていると、ようやく諦めてくれたのか、ゆっくりと立ち上がってくれた。


「歩けます?」


「アァ……」


 ホッとしたのも束の間、鬼さんが支えるわたしの体を掴んできたから、思わずビクリと体が跳ねた。

 すぐにガクガク足が震えてきて、膝が崩れそうになる。


「で、出来れば鬼さん、が、頑張って、自分で立って下さい……」


「お前から寄って来たンだろ」


 また怒っているみたいで声は低いものの、この場から動いてくれるようだ。ゆっくりとした足取りではあるけど、重そうな足を動かしてくれた。

 わたしも長く鬼さんに密着してられない。早いところお屋敷に戻ろう。   



「ねぇ……え様」


 呼ばれた声に振り返る。見上げたその先に、沼を背後にして亡霊のように佇む、血染めの白装束姿の鬼。

 やや俯くその表情は無表情で、肌の白さがより周囲の暗さが強調されて不気味だった。


「鬼様のことは……やはり恨んでおりますとも。腹の底から……。ですがそれ以上に……強い想いがあるのです」


 たらりと、鬼さんに対する汗とは別のものが横顔を伝った。体が固まり魚さんを凝視する。

 ひたり。白い足がこちらに一歩差し出された。


「な、なんです?」


 身構えて問えば、下を向いていた魚さんがすっと顔を上げ、灰色の目を細めた。


「鈴音様……私が欲しいのは……貴女様なのです……」


「……え?」


 わたし? それってどういう意味?

 鬼さんを恨むより、わたしが欲しいって……。それで何しようというの?


「これからは……私が一緒です。紅い鬼様と違って、自分は貴女様の……望むように致します……」


「わたしが、望む?」


 どくどく心臓の音が激しさを増していく。

 気味の悪さが次第に強くなり、自分の吐息も知らないうちに荒くなっていった。


「陽の下で暮らすのも良いです……現代の生活も約束致します……。ですからどうか、どうか……私の傍に、いらして下さい……」


 縋るような言葉は有無を言わせないものが含まれていた。

 魚さんの目が銀色へ変わっていき、獲物を狙うような鋭い瞳が湖面のように光って滑った。


「あ……い、嫌……で、す」 


 全身が小刻みに震えて止まらない。喘ぎながら無意識に顔を左右に振っていた。

 目の前にいるのはわたしが慕っていた魚さんじゃない。

 わたしを鬼さんから引き離そうとした、常闇に閉じ込めようとした妖だ。 


 水掻きの付いた白い足が、ふらつきながらこちらに歩み寄ってきた。

 顔から滴る血や、白い布地に広がる赤い染みが目の前に迫って来る。

 

 わたしはその光景に喉の奥で悲鳴を上げ、支えていた鬼の体にしがみついた。

 するとわたしの体を掴んでいた鬼さんの手にも力が加わったようで、グッと腰を強く掴まれた。


「俺から離れるナ」


 低く呟かれた鬼の声に、何度も小さく頷く。緊張の糸がギリギリと張り詰められ、周りの音も消えていく。

 ひたりと、魚さんの歩みが止まった。


「邪魔ですよ……朔紅童子、さま?」


 血で真っ赤な歯列が見えた途端。鬼さんの体が強張り、魚さんの背後から大きな水の玉が浮き上がった。 

 わたしの目が大きく見開いた時には水の玉は目前に迫り、閉じた瞬間、わたしを掴んでいた鬼さんの体が急激に離れた。


 一瞬意識が途切れた。背後で大きな音がして我に返ると、怖々と目を開けた。

 視界に入ったのは鬼さんが掴んでいたところの布地が破れて、そこから見えた自分の肌だった。

 

 震え切った吐息が口から漏れる。それと同時にわたしはその場にへたり込んだ。


 自分よりはるかに大きな力が真横を通り、鬼を吹き飛ばした。

 その事実はあまりにも強烈過ぎて、わたしは腰が抜けてしまったのだ。


「驚かれましたか? 大丈夫です……鈴音様には、当てません……」


 地面に白い爪先が見えたと思ったら、冷たい感触がして急に視界が上がった。気づけば、わたしは魚さんに抱き上げられていた。


「さ、触らないで! 離して!」


 降りようとして体を思い切り捻る。強く魚さんの胸を押して、足をバタバタと動かし仰け反った。


「離しません」


 優しく微笑んで、魚さんはわたしを骨が軋むほど強く抱えて拘束した。魚さんの腕が当たったところが、圧迫されて痛みが走る。


「どうぞお静かに……五体満足で、わたしも貴女様を……連れて行きたいのです」


 二つの銀色は刃物の切っ先のように、鋭くわたしの瞳に降ってきた。

 背筋どころかお腹の奥底まで極寒に冷え込んだ。激しく暴れていたことなんて忘れて、わたしは体を強ばらせて縮こまった。


「鈴音!」


 ハッとして、鬼さんの方を見る。

 そうだ。鬼さんは吹き飛ばされたんだった。無事なんだろうか。


「鬼さんっ」

 

 地面には鬼さんが踏ん張ったのか、猛獣が引っ掻いたような爪痕が深く残っていて、鬼さんは息を荒くしながら片膝を付いてこちらにぎらついた紅を向けていた。 


「ソイツを返せ……」


 地鳴りのような呻き声が、鬼の口から血と一緒にこぼれる。

 殺気のせいなのか妖気なのか、鬼さんの輪郭がぼやけて歪んでいるように見えた。


「真名を唱えても……難しいもので……。止めにはなりませんか……」


 わたしを抱えたまま、魚さんは皮肉交じりに溜息を吐くと、沼へと後退した。すぐ下を見れば、暗い水面が波紋を作りながら揺れている。


「こちらは……鬼様が喰らった蟒蛇の怨念でごいます。……どうぞ、ご堪能ください」


 ふっと波紋が消え、すぐ前の水面が渦を巻いた。

 轟音と共に水柱が上がりそれが巨大な蛇に形を成すと、すぐさま鬼さんの方へ飛んで突っ込んでいった。


「鬼さん!」


 叫んで腕を伸ばしたけれど、無意味だった。

 出来ることなど無いわたしは、魚さんにまた強く抱え込まれると、水飛沫を上げて沼の中に落ちていった。

 そして真っすぐに勢いよく、暗い水底に向かって沈んでいった。



 

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