二十四ノ怪
「あのさっ、そんな暗い顔してたら余計に暗くなっちゃうよ?」
下げていた目線を上げると、美紀がにっこり笑ってわたしの顔を覗き込んでいた。
それから通りに目配せして、わたしへ悪戯っぽく片目を閉じた。
「とにかくこの場所から離れなければ良いんでしょ? だったらあたし、良い所知ってるんだ!」
「良い所?」
「うん! 通りに出て直ぐ脇にある小道を行くと、金魚すくいやってるの。結構穴場でさ、そこならすぐここに戻って来れるから良いでしょ?」
「え……でも……」
すぐ戻ってくるにしても、鬼さんがいつ帰ってくるか分からないのに。
金魚だって持ってたら不審がられるに決まっている。
「美紀ちゃん、わたしやっぱり」
「ほら早く! 戻ってきちゃうよ! すぐソコだから走って!」
断ろうとするけれど、美紀は強引にわたしの腕を取って、通りへと歩き出した。
そしてすぐに脇へ寄ると、少し薄暗い下り坂に入っていった。
「ね? すぐ横にあるでしょ?」
「う、うん……」
確かに美紀が言うように、下り坂は急ではあるけれどそんなに長くなく、すぐ下の方に小さな白い水槽が有り、朱や白や黒の金魚たちが悠々と泳いでいるのが見えた。
「ここ穴場なんだ。人がいないからゆっくり出来るしね!」
美紀は軽い足取りで坂道を降りていき、屋台に歩き寄っていった。
早く戻ったほうが良いとは思うけれど、美紀に言っても押し問答になりそうだし。
ここは早く終わらせて別れたほうが良いわね。
意を決してわたしも坂道を気をつけて進み、美紀がしゃがんで見ている浅い白の水槽に近寄って眺めた。
「ねぇ美紀ちゃん。やるにしても、お店の人いないよ?」
「トイレにでも行ってるんでしょ。そこのザルにお金入れておいたから大丈夫よ。……はいこれ!」
簡易式の椅子が空いているのを気にして言うけれど、美紀は慣れた感じで、わたしに和紙が貼られたポイとお碗を渡してきた。
「よーし。あたしの腕前見せてあげる!」
美紀は獲物を狙う猫のように、水面すれすれまで顔とポイのふちを近づけると、素早い動きで水を切った。
「あぁー! 破れたっ!」
「……美紀。それじゃあいくらなんでも、破れちゃうよ」
悲鳴を上げる美紀に、思わず呼び慣れた名前で返してしまう。
「よーし! ならもう一回!」
美紀が鼻息を荒くして、ザルの中にもう一度百円を投げ入れる。
「ねぇ見てないで一緒にやろうよ! 早く戻らないといけないんでしょ?」
「あ、うん。そうだね」
興奮する美紀に苦笑いしながら、わたしも金魚たちの群れの前にしゃがみこんだ。
こういうの久しぶりだなぁ。
金魚すくいも小さい頃にやっただけで、今じゃ全然やらなくなったもんね。
一時期お兄ちゃん達とお祭りの度に金魚を持ち帰ってたら、お母さんに金魚すくい禁止令が出たくらいやってたのに。
ゆらゆらと天女の羽衣みたいなヒレを靡かせている金魚たちを見下ろす。
終わったら美紀には悪いけれど、持ち帰って貰おう。最悪お店に返せば良いし。
鬼さんに見つかったら、何言われるか分かったものじゃないもの。
水面が揺れて裸電球の明かりが反射する。
狙いをよく定めて。静かになってから、一気に且つ静かにお碗に移して……
お兄ちゃん直伝の金魚すくいの極意を思い出していると、金魚達が少し落ち着きを取り戻したのか、水の動きが緩やかに変わり、乱れていた水の淵が真っすぐに変わった。
どれにしようか。どうせ美紀に渡すなら素敵な金魚が良いよね。
品定めしていると、ふとすぐ目の下に一匹の白い金魚が横切った。それはもう、驚くぐらい真っ白な金魚が。
へぇ~、白い金魚なんているのね。綺麗。
珍しさもあって知らずと目で追ってしまい、狙いもその金魚へと自然と決まってしまう。
袖を濡らさないように捲って脇に押し込み、臨戦態勢を取る。
白い金魚はゆっくりわたしの前を横切り、向こうの方へ方向転換したかと思うと、またわたしの方へ泳いできた。
金魚と正面から向かい合う形になり、わたしは息を潜めて静かにポイとお椀を水面間近に近寄らせる。
白い金魚がわたしのすぐ目の前にくる。わたしは金魚を挟むように両手を寄らせ、その瞬間を待った。
素早く、丁寧に、一瞬で。
緊張の糸がピンと張る。無心になり指先に力を込めた――その瞬間。
水飛沫が上がった。次に視界すべてが水と泡で満たされて、気が付くと体全身が水で包まれていた。
口を開けばゴボッと泡が出て頭上に上がっていく。
な、なんで? 水の中になんでいるの? いつの間に?
死に物狂いで手足を動かしても、浴衣だと生地が体に巻きついて自由に動かせない。
無茶苦茶に暴れて周囲を見渡す。辺りは暗くて足元は真っ暗。しかもじわじわと足先から冷たさが滲み寄ってきて、それが恐怖をより掻き立てた。
出口は!? ここはどこ? 美紀は?!
ハッとして上を見上げる。
長方形の、白い光が頭上から降り注いでいる。
丁度さっき金魚すくいをしていた浅い水槽と、同じくらいの大きさだ。
足を必死にバタつかせて両手を大きく搔く。なんとか上に這い出ないと溺れてしまう!
何度も何度も上へ向かって体を動かす。無我夢中で水面から顔を出そうとした甲斐あって、目を開いた先に波で歪んだ美紀の顔が見えた。
美紀! 美紀助けて!
肺から空気が抜けていく。これ以上酸素を失うわけにいかず、水面に近い両手を乱暴に振って美紀に助けを求める。
美紀! 手を貸して!
水の中から美紀に助けを求めるが、美紀はぼんやりとしてこちらを見つめているだけ。
どうしたの美紀!?
わたしが分からないの!?
美紀はわたしを見下ろすばかりで一向に動こうとしない。
わたしは何とか水槽のふちに掴まろうと、思いっきり腕を伸ばした。
掴……え? ――ひっ!
引き攣った悲鳴が口の中で上がる。
突然真っ暗な底から、何かがわたしの足首を掴んだのだ。
「あれ? あたしどうしてここに居んだろ」
くぐもった声が水を伝って聞こえてくる。
わたしの体が得体の知れない何者かに引き摺り下ろされ、水面が遠くになった頃には、先程までぼんやりとしていた美紀が困惑している様子が見えた。
「おっかしいなぁ~。甘酒を貰って飲んだの迄は覚えてるんだけど。あれくらいで酔うわけないし……うーん……ま、良いや」
遠くなった波間の向こうに、くるりと背を向ける姿が見える。
「帰ぁ~えろっと」
そんな! 美紀! 美紀待って!
行かないで! 置いていかないでっ!
足を蹴るように暴れて逃げようとするけど、足首を掴む何かはまったく離す気配がない。
ガッチリと肌に喰い込む勢いで握り込み、そのままわたしを底へ底へと引きずり込んでいく。
光は遠くになり、足元に絡んでいた冷気は、今や全身を這い回っている。
一気に下へ引っ張られ、その途端に自分の口から大量の酸素が出てしまった。
たくさんの泡が顔を覆い、額を通り過ぎ上っていく。
息が……出来ないっ!
何度も水中を掻いて藻掻くけれど、息も続かず、抵抗虚しくされるがままで、結局何も出来ずに意識が遠のいた後。わたしは気を失ってしまったのだ。
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瞼の裏に光を感じて、薄ら目を開いた。
薄暗い空間。微かな水の流れる音。そして体の下には柔らかな感触。
……わたし……溺れたのよ、ね?
顎を引いてぎこちなく足首を見る。今は何も掴まれてはいないものの、くっきりと握られた痕が残っている。
あまりにも鮮明なそれに身を固くして、恐る恐る体を起き上がらせた。
広い布団の上に横たえられていたようで、身を起こすと緩やかに体が沈んだ。
察するに牢屋の類ではなさそうで、上を見れば高い天蓋が目に入り、薄い布が垂れ下がる寝台には所々波紋や波、魚の刺繍や彫り物が施されていた。
派手さはないけれど、豪華といえば豪華だ。
そして自分の格好に気づいた。
まるで金魚のような白地に袖口がオレンジ色の、緩やかな浴衣を身に纏っていたのだ。
布団の上に目を走らせても、鬼さんがくれた浴衣はどこにも無い。
やだ……。ここはどこなんだろう。
わたしを水の中に引き込んだ何者かの住処なのかな。
そっと寝台の端っこに四つん這いになりながら寄り、そっと薄布をめくった。
あたりは暗くて石畳が広がっている。壁は和紙のようなもので覆われていて、そこには金魚の絵が描かれていた。
壁の端は見えず曲線を描いおり、さながら金魚鉢の中を泳ぐ金魚の画だ。
誰もいないのかな。
ここから降りても、大丈夫かしら。
そっと裸足のまま、石畳につま先を下ろそうとした時だった。
「御姫さん」
心臓が喉から出るかと思った。
突然かけられた声に背中を飛び上がらせて身構えると、また声が聞こえてきた。
「こちらです。置物の中です」
「置物?」
声のする方を見れば、足元から寝台の影に隠れるようにカエルの置物が転がっていた。
「鬼さんがくれたカエル……」
寝台から身を乗り出して頭を逆さまにし、カエルの置物を手に取った。
「今の声は……紫さん?」
「はい。ご無事なようで何よりです」
落ち着いた声がカエルの置物から聞こえてくる。よく見れば底に小さな穴が開いていて、ぼんやり紫色の煙が出たり入ったりを繰り返している。
でもなんだって紫さんがこんな所にいるの?
「紫さんどうして置物なんかに。それに一体どうして一緒にいるんですか?」
「ずっとお側にいたのですが、いきなり不穏な気配を感じましてね。気づいたときには御姫さんから引き離されそうになったので、咄嗟に置物に入り込んだのですよ」
「そんな。と、とにかくそこから出て下さい。ここがどこか分からないですし、一人じゃ不安で」
「そうしたいのは山々なのですが。出られないのです」
「どうしてです?」
「強い妖気に圧されて出られないのです。私が自身を守れる範囲は精々この狭い置物の中だけです。それに出た途端、勘付かれてしまいます」
紫さんがこんなに警戒するなんて。よっぽど強い妖怪か何かがいるに違いない。用心しないと。
「とにかくあまり私に話しかけない方が宜しいでしょう。誰が見ているのか分かりませんからね」
「はい」
頷いて、取り敢えず水色の帯の間に押し込む。
無くしたら大変だもの。なるべく肌身離さないようにしとかないと。
「――え、様」
その時、急に背後から声を掛けられ、瞬時に身構える。
振り向く先には広い寝台。水色の波紋を刺繍された少し暗めの銀の布団。
その向こうに垂れる薄布に見える人影。
「だ、誰なの? わたしを連れてきて、どうするの?」
声が震える。縋るように紫さんが入った置物を、帯の上から強く握り締める。
人影は少し間を空けた後、ゆっくりと布の向こう側を歩いてこちらに回ってきた。
わたしは影から離れるように、寝台の中央にじりじりと後退した。
そして動いていた影が立ち止まると、わたしと正面で向き合う形になった。
「お会い……したかった……」
搾り出すように呟かれた声。
布が揺れて、静かに薄布が開かれた。
目の前に現れたのは一本角を額から生やした、灰色の短い髪をした若い男性だった。
まるで死装束のような真っ白な着物を着て、帯も銀の波が刺繍された白い帯を締めており、見えた手足には水掻きのような物が見えた。
そしてこちらを真っ直ぐ見る目。
宇宙人のような、白目のない楕円の瞳をしていて、それを嬉しそうに細めてわたしを見ていた。
「お久しゅう、ございます。……え様」
「え?」
最後の方は聞き取りづらい。
それでもこのゆっくりした口調は、どこか聞き覚えがある。
「私です。紅い鬼に使えていたぁ……魚でございます……」
「魚……さん?」
口にして、目を見開く。
姿かたちは変わっても、少し澄んでいるとは言え、声は変わらない。
わたしが初めて常闇に来て、わたしの世話をしてくれた、かつての魚人の姿をした妖怪。頭魚の頭をしたずんぐりした姿。のんびりとした口調。丸い大きな灰色をした目。
そして、鬼さんを恨んでいた妖怪。
「あの、あの魚さん……なの?」
信じられないと問えば、嬉しそうに彼は頷いたのだ。




