一ノ怪
疲れた。どれほど長い間泳いだのだろうか。
途方もない時間を過ぎたように感じるが、まだ何も見えてこない。
命からがら常闇に来たは良いが、どうやら入る入口を間違えたようだ。深い闇しかなく、まったく何の気配も感じられない。
とにかく暗い。あまりにも深い暗闇だ。
これでは妖とは言え、無理があるというものだ。一体どうしたものか。
顔を水面から持ち上げる。上げたは良いが、見上げても水面と空の境目すら分からない。顔から雫が落ちる感触があるだけで、見えるものは同じ闇。
誰かいないか。助けてくれないか。
ここは海なのか? 川なのか? それとも沼や池なのか?
ダメだ。もう一度水中に身を沈めて辺りを探る。
しかしそれでも、やはり誰の気配も感じられない。
あぁ。海坊主でも河童でも濡女でも良い。誰かいないのか?
そろそろ限界だ。傷も癒えぬこの体では、もう長く保ちそうも無い。
……いや、しかし。朽ち果てるわけにはいかない。
このまま果てるなど到底諦めきれぬ。どうにかして伝えなければ!
己を叱咤し、またひたすら泳ぐ。
意識が遠のくのを感じながら水の中を無心で進む。
ほんの少しの物で良い。何かないか。早く、早く、なんでも良いから何かないか。
この際忌々しい日向の明かりでも構わぬ。何か見えてくれ。誰か気づいてくれ。
強く願いながら暫く泳ぎ続けた。
現世とは質の違う闇の中、常闇の静寂と自らが発する水のうねりのみが聞こえている。
どれだけ泳いだのだろう。次第に意識も朦朧として手足の力も弱まっていく。泳ぐ力もほとんど無い。
もう駄目だ。最早ここで朽ちるしかないのか。
重く沈んでいく足先が、水底へ向かって垂れ落ちていった。
しかし頭が完全に沈む前に、なけなしの力を振り絞り、ゆらり水面に顔を出した。
これが最後の力だ。
何かないかっ。
そう目をきつくすれば遠い向こう。霞んだ先に見えるのは橙色の灯り。
常闇に浮かぶ雲に反射して、空も橙に染まっている。
思わず目を見張った。
あ、明りだ……! 意識を研ぎ澄ませれば感じる妖気の数々。
確かに、あそこに大勢の妖怪たちの気配がする! あれが常闇の妖たちの住処か?
あの灯りの色からすれば、あれは橙通り……という所か? 噂に聞けば貪欲の鬼が創ったという、様々な店が集う通りだとか。
となれば、鬼の国に来たのか。
嗚呼だがしかし。もう限界だ。やっと辿り着けたが、もう動けぬ。
口惜しい、疲れ果てた。今ここで絶えるしかなさそうだ。
だが……
せめて誰か聞こえているのなら、見えているのなら。誰か呼んでくれ。
我が真名を呼んで妖気を呼び寄せてくれ。
我が名は――
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「潺ノ露助」
言った後、自分の発した声に我に返った。
突然のわたしの呟きに、ぽかんと口を開けるのは紅い鬼。
暫く何が起きたのか目を見開いていたが、ややあってから溜息を吐いて、ガシガシと硬い黒髪を掻いた。
「久しぶりにマトモに口を利いたかと思えば、……ナンだと? 露助? そりゃ誰ダ?」
「あ、その……」
責められるような眼差しに、持っていた酒瓶に目を落とす。
常闇のお酒の容器としては珍しく、ガラス製のそれは紺色をしていて、中の液体を青く暗く映していた。
鬼の下にいて幾日経っただろう。
常闇に染まり、妖怪の食べ物が食べられるようになったわたしの身体は、見た目は普通の人間と変わらない。
違うとするのなら、長い間太陽に晒されていない肌は青白く、瞳には肌色に近い梅の花が浮かんでいるぐらい。
皮肉にも、体よりも健康そうな色をした瞳の灰梅は、隣にいる紅い鬼の妖気を常に浴び続けた証らしい。
鬼さんにとってはそれが何よりも嬉しいみたいで、わたしの目を眺めては端正な顔を綻ばせて髪を撫でた。
でもわたしは嬉しくなんて無かった。
鬼さんはわたしをまだ人間だと言うけれど、わたしはそんな風に思っていない。
妖怪しか食べれないものを食べる事が可能になり、今まで見えなかった暗闇の様子が薄ら見えるようになった。
蝋燭の小さな光でさえ、今のわたしには眩しく感じる。
まさに片足を人外の域に突っ込んだ状態。
完全な妖怪ではないのかもしれないけれど、まともな人間でもない。
それを自覚した日を境に、自分の心は見るみる萎んでいった。
食事も当然、食べられるようになったからと妖怪の食事を出されるのだが、わたしはどうしても口がつけられず、無理やり食べさせられた日には全てもどしてしまった。
以前にも何度か常闇の食べ物を食べたことがあった。
けれどもそれらは全て、普通の人間が食べても支障のないものだったようで、わたしも口に入れられそうなものなら食べていた。
でも、妖怪にしか食べる事が出来ないものなんて、絶対に口にしたくなかった。口に触れるだけで吐き気がした。
さすがに鬼さんもその様子に憐れんでか、それ以降無理にわたしに食べさせるような事はしなかった。
そして普通の人間の食事を出してくれたのだが、わたしはそれでも半分も食べることが出来なかった。
どうしても食欲が出なかったのだ。
日が経つごとに口数も減り、様々な変化に戸惑い、表情が暗くなっていくわたしに、それでも鬼さんは昔とは違い、怒らずに二つの妖しい紅をわたしへ向けるだけだった。
現状に耐え切れなくなり、時折白い籠の中で泣くわたしに、鬼さんは「泣くな」と背中を撫でるだけだった。
それでもお酌だけは必ずするように、紅い鬼は言った。
顔色が悪くても、泣いたせいで目が腫れていても、気落ちして項垂れていても。
お酒の場には必ず呼び、お酌をするようわたしに言い聞かせていた。
だから今日も違わず、鬼さんが作った花々が溢れる箱庭でお酌を務めていた。
最近小さな池に放された小魚を、その鮮やかな鱗を反射させながら泳ぐさまを眺めながら、鬼の盃にお酒を注いでいたのだ。
鬼さんが軽い口調で延々と話をして、わたしはやや俯きながら夢半分にぼんやり池を眺めて聞いていた。
時折曖昧に頷きつつ、お酌をしては呆然と華やかな花たちに囲まれる池を見つめ続けていた。
異変が起こったのはまさにその時だった。
いきなり聞こえた声。久しぶりに感じた誰かの思念。頭に流れ込んできた誰かの視界。
肌の痣が目に行き届き、瞳に咲いた梅の花の力が誰かの心に中に入り込み、わたしに見せる。
わたしは拒むことも出来ず、また何も出来ずに起こった出来事を、ただ受け入れるしかなかった。
驚き慄いていれば、強ばった顔をそっと撫でられた。
「いきなりドウシタ?」
動揺するわたしに、鬼さんが察したのか。先ほどとは違う穏やかな口調で声を掛けてきた。
不安に目を上げて鬼さんへ顔向けると、酒瓶を握り締める。
「いま、誰かの声が、聞こえて」
「声?」
「声だけじゃなくて、誰かの視界が頭に映り込んで見えて、このままじゃ死んでしまうって」
「ナンダ? 灰梅で見えたのカ?」
「……お、恐らくは」
瞳に浮かぶ梅の花のことを言われて、思わず目を隠すように顔を背ける。
あまりこの梅の事に触れて欲しくない。
わたしがまともな人間ではない印みたいで、自分を含めて、灰梅の花を誰かの視界に収めたくなかった。
「ソイツは何だって言っていたンだ?」
ぐびりと盃のお酒を飲みながら、横目でわたしに紅を寄越す。
手元の酒瓶越しにそれを見ながら、わたしは先程見えたものを思い返した。
「現世から泳いで逃げてきたって。なんだか常闇に初めて来たみたいでした。……それで橙通りを見つけたみたいですけれど、もう泳げない、動けないって」
常闇に来たことがない妖怪だなんて初めて聞く。いや、もしかしたら聞いていたかもしれないけれど、忘れてしまった。
泳いでいたってことは、水辺の妖怪なのかしら。海坊主でも河童でもって良い言っていたということは、それ以外の妖怪ということよね。
どんな妖怪なんだろう。
なんであれ、死にかけていたし、早く助けてあげないと手遅れになってしまうんじゃないかしら。
「ふむ、そうカ。ソイツは気の毒にナ」
まるで他人事のように呟いて盃の中身を飲み干すと、わたしへ盃をぐいと差し出す。
「気の毒って……助けてあげないんですか?」
信じられないという目で見上げると、鬼さんの眉が歪んで呆れた表情をつくった。
「常闇に逃げてくる奴なんざ珍しくもナイ。いちいち助けに行っていたらキリが無いカナ」
「でも……」
知っているのに助けないだなんて。
あんまりじゃないかしら。
コツコツと盃を爪で鳴らす音に気づいて、持っていた酒瓶を傾ける。透明な液体が不思議な光を放ちながら盃の中へ流れ出た。
「だいたいそう言った事は自己責任ってヤツだ。助ける義理もなけりゃ、俺が得するワケでもナイ」
波々と注がれた盃の中身を揺らして、またぐびりと飲み干す。わたしは黙ってそれを見ると、目の前の小さな池に目を向け、再度黙り込んだ。
ここまで長く鬼さんと会話するのは、本当に久しぶりだった。
普通の人からすれば至って長くもない遣り取りなのかもしれないけれど、それだけ鬼さんとの会話らしい会話は、ここ最近全くなかったのだ。
それは普段言いたいことがあっても、わたしが途中で萎えて言わなかったせいもあるし、なんだかどれもこれもがどうでも良い様にいつの間にか思うようになっていた、というのもあった。
そして鬼さんもわたしの様子に特に怒ったり不機嫌になったりすることもなく、わたしが泣けば背中を撫で、それ以外は髪を梳くだけだった。
わたしと一緒にいるときはのんびり寛いだり、延々と世間話や武勇伝を語るぐらいで、わたしもそれに便乗する形で、話半分に適当に相づちを打っていたのだ。
そんな感じでわたし達は、今日まで中途半端な距離感を保ちながら過ごしてきた。
過去の嵐のようなやり取りが嘘のような、穏やかな付き合いが続いているのだ。
小魚が水面すれすれを泳げば波紋がいくつも広がる。
正直なところ、ここで話を終えようかと思った。
以前のわたしなら噛み付いているところだけれども、どうしても今は気力が湧いてこない。
気持ちが凪いでいるみたいだ。
「鈴音、酌」
ぼんやりしていたら声が掛かり、酒瓶を持ち上げる。注ぎ終わると膝の上に瓶を置いてまた池を眺める。
――真名を呼んで妖気を呼び寄せてくれ。
切羽詰まった心の声。
誰かの助けを求めて弱った体を引きずり、常闇に逃げてきた妖怪。
何かを伝えたがっていた。
命からがら、泳ぎながらこの常闇にきていた。
真名を呼んでくれって言っていたけれど、真名ってなんだろう。名前のことかな。
それに妖気を呼び寄せるって、どういう意味なんだろう。
「潺ノ露助」
これが真名だと言っていた。どう考えもて人の名前だ。
でもこうして名前を呼んでも、特に何も起こらない。口にするだけでは、ダメなのかな。
「オイ!」
いきなりの罵声に手が跳ねた。
思わず酒瓶を床に落としてしまい、瓶は池へと転がっていく。
「お酒が」
立ち上がって瓶を追いかけようとするが、手を掴まれて阻まれる。
「さっきからヤメろ! 呼ぶナ!」
「え?」
驚いて鬼へ振り向けると同時に、池から水音が上がった。
慌てて振り返ると、水の中に酒瓶が沈んでいくところだった。
「真名を軽々しく口にするナ!」
いつになく真剣な声を上げる鬼さんに顔を向ければ、不愉快そうに眉間に皺を寄せてわたしを見ていた。
「ま、真名ってなんですか?」
「真の名カナ。お前ら今の人間には馴染みがないだろうガナ」
「まことの名前? 誠っていう、男の人の名前?」
わたしの問いに鬼さんが少しだけ口を開けて目を瞬かせる。
それから半眼になると、首を左右に振った。
「……違う。真とは本当の名の事ダ」
あ、そっちか。
素で間違えちゃった。こういうのって結構恥ずかしいわね。
呆れた表情に顔を赤らめて、わたしは鬼さんに先の言葉を促すよう、目を向けた。
鬼さんは溜息を吐いた後、頬杖をしながらわたしを見据え、再度口を開いた。




