十八ノ怪
一番小振りな紅い腕輪をつけ、シンプルな飴色の簪を頭に挿す。
鏡は見ない。やっぱり瞳の灰梅は見たくないから。手の感覚だけで髪を結い上げ桐で出来た櫛を鏡台に置いた。
これで今日も鬼さんの機嫌も少しは良くなるだろう。
紫さんだって文句は無いはずだ。
数日前からこうしたわたしの大なり小なりの努力の結果は、目に見えて良くなる事は多く無かったけれど、それでもちょっとだけ、ほんの些細なことでなら良くなったと言える。
まず、紫さんの小言は大分無くなった。
言ったとしてもとても柔らかく諭す程度で、以前の様な刺々しい物言いの仕方はしなくなった。
そして何より、鬼さんの今日の機嫌について教えてくれるようになったのだ。
例えば今日はとても苛々しているようだから何も訊かず、大人しくしていた方が良いとか、天狗の山からお酒を貰ってきたからそのことを訊ねた方が良いとか。
あとは羽織を新調して、どこの部分を特に凝って作ったとか教えてくれて、わたしが鬼さんとの会話に躓く事が無いよう気を配ってくれるようになった。
その甲斐あってか、鬼さんとの話も前に比べればスムーズに行えるようになったと思う。
わたしばかり話を聞くだけではなく、わたしからも発言できるぐらいにはなった。
……それでも、ほんのちょっとだけど。
そして肝心の鬼さんも、わたしが鬼さんから貰ったアクセサリーを積極的に付けて出迎えるようになったからか。眉間に皺が寄る回数も少なくなったような気がした。
それに他の妖怪の話を訊いても、そこまで不機嫌になる事は少なくなった。
でも、だからといて油断はしてはいけない。
あまり調子に乗るとどうなるかは過去経験済みだ。ここは慎重に、確実に、信頼と努力を積み重ねて行かなければならない。
普段何でも無いふうを装っているけれど、鬼さんはああ見えて結構疑り深いから。念には念を入れて注意しないと。
ふぅと息を吐いて手元を見つめる。
いつか現世と常闇を自由に行き来出来て、(もちろん現世で生活できれば一番良いのだけれど)自分の力で暮らせるようになりたい。
鬼さんとの縁が切れるのはもう無理だろうけれど、違った形で付き合い続ける事はきっと出来るはずだ。
その為にも、自分一人で生きていけるようにならなければ。
…………そう、そう思わないと……そう思い込まないと、気持ちが保てない……。
闇に堕ちるのも、妖怪になるのも、鬼の慰みものになるのも嫌だ。
例えそれらを全て回避できたとしても、常闇にしろ元の場所に戻るにしろ問題は山積みで。
勢いだけではどうにもならない事があるのも分かっている。
でも、そうだとしても。
無理にでも前向きに強引に気持ちを明るくさせないと、あっという間に崩れ落ちそうになる。
精一杯、プライドも何もかも捨てて、今は鬼さんに媚びるしかない。
ここ数日の努力を思い返し、泣きたくなる気持ちをぐっと抑え込んで顔を上げる。
首には鬼に付けられた紐。それを触って奥歯を噛み締める。
今が正念場だ。なんとか頑張らないと。
大きく深呼吸をして厳しい顔付きになった表情を柔らかくほぐす。
そろそろ紫さんが来る時間だ。落ち込んでいないで、気持ちを切り替えなきゃ。
紫さんの前とはいえ、塞ぎ込んだ態度をとるわけにはいかない。あくまで鬼さんと仲良くする努力をしていると思ってもらわないといけないんだから。
「失礼しますよ」
天井からするする香炉が紐で降ろされる。香炉が静かに畳に置かれると中から煙の筋が昇り、紫さんがゆらりと現れた。
「おはようございます」
香炉の紐を解いて離す。紐は素早く天井裏へと上っていき、子鬼によって外された天井の蓋が閉じられた。
パタパタと小さな足音が天井の向こうへと駆けて行く音が聞こえ、部屋のずっと向こうへ遠ざかって行く。
「おや御姫さん。その紅玉の腕輪、とてもお似合いですよ。琥珀の簪も黒髪に映えて美しいです」
蛇のように細い筋に姿を変えて、紫さんはわたしの方へ顔と思しき先を伸ばしてくる。
「鬼さんがくれたので、せっかくだから着けてみたんです。似合ってるなら良かったです。ありがとうございます」
やっぱり紫さんも、わたしがこうして鬼さんに気に入られるように努力している様子は好ましいのね。
嬉しそうな声音にどうしても複雑に思ってしまうけれど、そう思ってくれなければ努力の意味が無い。
「鬼様も御姫さんが近頃着飾っているのを見て、大層お喜びになられおりますよ。御姫さんがそのように御心を尽くしているのを見ると、私も嬉しいです」
紫さんからしたらわたしと鬼さんが仲が良ければ、自分の身の安全が保証されるのだから、さぞホッとしているのだろう。
別にそのことに対して軽蔑なんてしない。
わたしが思っている以上に妖怪の世界はシビアで単純なのだから。
ちょっとした事が命の有無に直結するんだものね。
「紫さんが鬼さんの事を色々教えてくれるので、最近鬼さんとの会話も話しやすくなったんです。助かります」
「お二人が仲が宜しくなるのが私の勤めでございますからね。そうでなくては困ります。これから先、さらに仲睦まじくなられるよう精進致しましょう」
反射的にきゅっと口端が引き攣った。
傍から見たらきっと歪んでいるように見える笑みが浮かんだ事だろう。
無理に笑おうとして、でも心がついてこなくて出来たガタガタな愛想笑い。
紫さんに指摘される前に、懐に仕舞っていた梅の花模様の扇子を手に持ち出すと扇を広げて口元を隠した。
精進するなんて……そんな事したくない。したくて媚びてるんじゃない。
露骨に言うのであれば、紫さんの為だけにそこまで身を削れない。
嫌な言い方だけど、結局自分の為でもあるからこそ、ここまで身も心もガリガリ削って鬼さんに媚びているんだ。
黒い感情が頭をもたげる。八つ当たりしてしまいたい、爆発してしまいたい欲求が膨れ上がる。
でもダメだ。今は何も考えるな。考えちゃいけない。
ここで無駄にしては何もかもがダメになる。
「今日は鬼さんはどんなご様子ですか?」
口を隠していた扇子をそっと閉じてまた仕舞う。
冷静になり、澱の様に溜まっていく心の影を振り払って、話題を変えようと紫さんに尋ねる。
「御機嫌の方は悪くないようですね。それと本日は河童の里に行かれるそうですよ」
「河童の?」
「そうです。そこに例の川男と屋敷に忍び込んだ河童の子がいるそうで、話を聞きに会いに行くそうです。鬼様自ら行かなくとも、と思ったのですが、どうやら河童の里に新酒が入ったそうで、どうやらそれが目的のようですね」
「そうなんですか」
河童の里、か。
常闇に来たばかりの頃、大勢の河童の子達とそのお頭さんに会ったことがある。
もちろんお頭さんのほうは今回お屋敷に忍び込んだ河童の子を叱り飛ばしていた、あの老いた河童だ。
人間が憎いみたいで、わたしのことも漏れなく嫌いな様子だった。
とは言え、二人の話を聞きに行くのならわたしも行きたいけれど、連れて行ってくれないかしら。
例の、あの川の妖怪と河童の子が今はどうなっているのか直に知りたい。
川男と言う妖怪がどんなものか気になるのもあれば、怪我の具合や、その時の様子を訊きたいし、河童の子に関しては辛い目に遭ってないか気になる。
「紫さんは河童の里に行ったことがありますか?」
「私も何度かありますねぇ。あまり長く滞在したことはございませんがね。なにせ湿気が多いもので。長居したくないのですよ」
「紫さんも苦手なものってあるんですね」
「勿論ですとも。御姫さんにはお教え致しませんが、ね」
ふふんとでも聞こえてきそうな意地悪な紫さんの声に、思わず苦笑いした。
そのワザとらしく悪態をつく様が、冷たく見えてもなんだか妙に可笑しかったのだ。
不意に鬼さんの足音が襖の向こうから聞こえて来た。
わたしは立ち上がり、籠の入口に寄って出迎える為に姿勢を正した。
今日も鬼さんに、尽くさないと。
雀が描かれた襖から鬼さんが現れるのを見て、気持ち少し頭を下げる。
過去の教訓を活かし、作り笑いはしない。
鬼さんはわたしの嘘の笑顔がとても嫌いで癪に障るようだから。
わたしは普通の態度で、可もなく不可もない表情で鬼さんを迎えた。
固くなりすぎず、媚びすぎず。
難しいバランス調整をとりながら鬼さんを見上げた。
鬼さんはそんなわたしの様子を、特に気を悪くするでもなく、むしろ嬉しそうにして紅を細めた。
籠の鍵を外し歩み寄ってくると、中へ入ってくるなりわたしを抱きしめた。
「鈴音は最近い~ぃ子になってきたナァ。着飾って出迎えるなんて、ちょいと前までなら考えられなかったカナ」
「混乱したりしていたので、そこまで気が回らなかったんです。でも今は、鬼さんはわたしが知りたいことを教えてくれるし、贈ってくれるものを使わないなんて悪いことだと分かったので」
苦しい言い訳まがいな言葉を並べ、鬼さんに抱き抱えられながら畳の上の香炉を見やった。
そこから煙が立ち上り、綿飴の姿をした紫さんが何かを促すようにもこもこと動いている。
苦い思いでそれを目にしながら、鬼さんから少し離れようと背中を引いた。
「今日はお出かけになるんですか?」
離れようとしたわたしの腰に腕を回す鬼さんを見上げ、離れるなと言いたげな眼差しを受けて、なるべく穏やかに訊いてみる。
「あぁ、久しぶりに河童の里に行こうと思ってナ。例の話も訊ねたいが、酒も美味いのが出るそうだからナ。丁度良イからいこうと思っているカナ」
「それ、わたしも一緒に行っても良いですか?」
間髪言えば、予想通り。鬼さんは途端に渋い顔をわたしへ向けた。
目は冷たく細められ、案に行くなと牽制しているようだ。
……わたしはぎゅっと奥歯を噛み締めた。
わたしはこの日の為に今まで鬼に媚びてきたのだ。
鬼さんは何かを言おうと口を開きかけたが、それでもわたしはめげずに、鬼さんに自分が最大限に出来る媚を発揮して、鬼さんの胸元に縋り付いた。
「鬼さんの傍にいたいです。鬼さんにばかり今回の騒ぎの事を押し付けるのも嫌ですし、外の空気も吸いたいです。例え好奇の目で見られても、鬼さんが傍にいてくれるのなら我慢できますから」
言ってみたものの……ちょっとワザとらしくし過ぎたかな。
不安に思いながらそれでもなお鬼さんへ体を摺り寄せる。
本当に嫌になってくる。言ってることもやってる事も最低最悪だ。
偽りの自分とは分かっているけど、やっぱり不愉快きまわりない。
……それでも、なんとか我慢だ。
「甘え上手になったナァ鈴音。他の女なら適当にあしらうが、お前なら悪くはないカナ」
顎をすくわれ口元を寄せてくる。
何をしようとしてるのか一瞬分からなかったけど、理解した瞬間、思わず体の芯が極寒まで冷え込み固まった。
こんな事したくない。こんな関係を望んでいるわけじゃない。
今ここで拒絶してみる? いや、それこそ駄目だ。鬼さんの機嫌を一気に損ねてしまう。
不安が心に広がり怖気つく。
必死に尻込みする気持ちを悟られまいとして、目に力を込めた。
その時鬼さんの肩に広がる鶏の翼越しに、煙の塊が見えた。
雲の様な姿で宙に浮かび、見えない眼差しが向けられるのを感じる。
やめて……そんな目で見ないで。
思わず目が悲痛に歪んだけれど、煙は形を変えて人の頭を型どり、首元を触るような動作をして静かに頷いた。
……首輪。
あぁそうだ。首輪を嵌めたわたしは、今は『鬼の雀』だ。
本当のわたしじゃない。だから、受け入れなきゃ。
わたしはぐっと目を閉じて、鬼の唇を自身のそれで受け止めた。それから鬼の首に両手を回して、自分を宥めるように腕に嵌めた腕輪を触る。
わたしは今『人間の鈴音』じゃない。わたしは今『紅い鬼の雀』なんだ。
今まで我慢して媚びたのもこの時の為だ。無駄にするわけにいかない!
胃が痛い。吐き気がする。
そしてなによりも悲しかった。ただただ、悲しかった。自分で自分を否定するその行動に胸が痛かった。
鬼さんから離れて俯く。
それからそっと逞しい首筋に頭を添えて擦り寄る。
「……連れて行ってくれますか?」
呟くように伺えば、髪を優しく撫でられた。
「分かったカナ。折れてやろうじゃないカ」