十七ノ怪
紫さんもいなくなった籠の中。一人になったわたしは開けた壁の一面から見える紅い月を見た。
紫さんはわたしに同情はしてくれても、やっぱり何も教えてくれない。
鬼さんに何やら強く言われているらしく、あまり親しげにすると鬼さんの不興を買うそうで、必要以上にわたしと話す事も禁じられているのだそうだ。
一方、鬼さんはわたしに協力してくれるけれど、まだ半信半疑ではあるが不老不寿にさせてまでわたしを縛り続けようとしているのは確かで、とても異常で危険なことに変わりない。
首に手をやれば柔らかな紐の感触。一度は忘れた首輪の存在。
今のまま膠着状態が続くのは良くはない。
紫さんが言っていた通り、まずは鬼さんとの仲をなんとかしなければ話にならない。
鬼さんがわたしが他の妖怪と話のを気に入らないのであれば、情報収集する為には鬼さんから引き出すしかないのだ。
常闇の字が読めないわたしからしたら尚更なのだし。
だとしたらもう腹を括るしかない。
ほんの少し、ちょっとだけ。自分が譲歩できるギリギリまで。精神を保てる限界まで。
首元の紐に手を当てる。肌触りの良い、軽くて柔らかい、決して外れる事が無いわたしの首輪。鬼さんの所有物の証。
普段のわたしは人間の鈴音でいるけれど、鬼さんの前だけではわたしは『鬼の雀』になろう。
だからこれから起きる事はあくまで、わたしでは無いのだ。
不意に廊下の方から大股に歩く足音が聞こえてくる。
わたしは襖が開くのと同時に、ぎゅっと両手で着物を握り締めながら籠の入口に寄って鬼を出迎えた。
「お待ちしてました」
開かれた先にわたしがいた為、それがとても意外だったようで鬼さんは少し眉を寄せた。
「出迎えがあるとは珍しいナァ。どうしたんダ?」
「あ……その、謝ろうと……思いまして」
俯きながらボソボソとなんとか声を絞り出す。
鬼さんは籠に近寄り、鍵を開けるとわたしのすぐ目の前にまで近寄ってきた。
「ほお? 謝るとは?」
ニヤリと口端を片方上げて顔を寄せてくる。
息がかかるほどの距離に喉が締め付けられて、更に俯いてしまう。
「わ、わがままばかり言って、暴れたりして……すいませんでした。あと、河童の子や、川の妖怪を助ける協力をしてくれて、ありがとうございます」
首の紐に手を当てて、必死で謝罪と感謝を述べる。
今の自分は鬼さんの雀だ。人間のわたしじゃない。
この首輪が何よりの証拠だもの。これを意識している間は、わたしじゃなくて鬼の雀だ。だから今話している言葉も、わたしじゃなくて鬼の雀なんだ。
ぎゅっと目を瞑る。
妙な罪悪感と嫌悪感があるが紫さんがだしてくれた提案の効果は抜群で、すらすらと今まで出なかった鬼さんへの謝辞が出てきた。
今はなんとか、鬼さんとの関係をある程度修復する必要がある。
ただ一歩間違えれば鬼さんに襲われてしまう。かなり危ない橋渡ではある。
「殊勝な事を言ってくれるじゃナイか……ダガ」
ぐいと顎を掴まれて目と鼻の先に鬼さんの紅い目と合わされる。
「アレだけ荒れていた後にその態度は腑に落ちンなぁ。ナニを企んでいる?」
妖しい紅から放たれる眼力はいつもわたしをクラクラとさせる。ずっと見ていると失神してしまいそうになるくらい、刺激が強い。
「企んでいるだなんて……ただ、その、色々変化がありすぎて、正直ついていけなくって……でもお礼だけは言いたくて」
わたしは思いつく限りの感謝の言葉を口にした。
それからもう一度首元の紐を握って、思い切って鬼さんに寄り添った。
「いつもありがとうございます。……常闇のご飯はまだ食べる勇気が湧いてきませんけれど、いつか食べられるように努力しますから」
言い聞かせても、やっぱり体は正直でガチガチに固まっていた。
けれども固まったのはわたしだけではなく、鬼さんの肌蹴た胸元も少し強ばった気配がした。
「……何かあったのカ?」
髪を撫でられ、訝しげな声が掛けられる。
こういうときはどうしていたっけ? 一瞬考えたが、あの蜘蛛の花魁たちや濡れ女さんがしていたように、わたしも瞼を閉じて鬼さんの手に頭を委ねる。
「わたしばかりわがままを聞いてもらっては良くないと思ったので。せめてその、鬼さんとは良い主従関係から始まって、次にお友達になれればと思いまして……」
言った途端、鬼さんの纏う空気が冷たいものへと変わった。
どうして? 何か気に触るような事を言ってしまったというの?
不安に目を開けて様子を見るが、二つの紅は動かず真っ直ぐわたしを冷たく見下ろしている。
「鈴音は分かっていないようダナ。友になりたいだと? お前は何を言っているのカナ?」
怒りを含んだ声に体が萎縮する。
友達というと対等な関係をに聞こえたのかな。そんな関係を望むなんて、鬼さんからしたら図々しく聞こえたのかしら。
「い、いきなり、鬼さんのお相手なんて、出来ないです。だ、だってわたし、もしお付き合いするとしたら、鬼さんが初めてだから」
もしわたしが本来の自分なら、弁解とは言えこんな事は死んでも言わないし、言いたくもない。
でも今はそんなこと言っていられない。鬼さんの雀に成りきって何としてでも鬼さんを懐柔しないと。
不安に目を上げれば、剣呑な気配を発していた鬼さんだったが、わたしの言ったことに幾分か気を良くしたようで目元がやや緩んでいった。
「そうカ。そりゃあ可愛らしいことを言ってくれるナァ」
意地悪そうに言ってわたしの腰に手を回してくる。
内心叫び声を上げて逃げ出したくなるが、ぐっと堪えて甘えるように鬼さんの肌の見える胸元に頭を預けた。
「生意気を言ってごめんなさい。でも、その、触られるのはやっぱり怖くて……もうちょっと待って下さい。時間なら……あるんですよね?」
ワザとらしくも思えるが、精一杯媚びるように上目遣いで鬼さんへ懇願すれば、額に唇が落とされた。
「鈴音は変わらず焦らすナァ。まぁ構わンさ。俺の傍に居るのなら、待ってやるとも」
紫さんからも誰からも情報が得られないのなら、この紅い鬼から情報を得るしかない。
鬼さんがいつか懐いたわたしに気を緩くして、今以上の自由と常識、身を守る術を身に付けることが出来るかも知れないのだ。
それならとことん、やるだけの事をやるしかない。
常闇で生きていくのなら、ほんの少しでも人間でいたいのなら、鬼さんとこの先駆け引きを続けていくしかない。
精一杯甘えるふりをして逞しい鬼の体にしがみつく。今の自分の姿がなんだか情けなくて居た堪れない。
自分の自尊心はすでにボロボロになっているけど、もう気にしてられない。堪えるしかない。
「ナァ鈴音。俺の部屋に来て按摩してくれないか? ソコでゆっくりお前と話がしたい」
背中に腕を回されて耳元でそっと囁かれる。
それだけで背筋が寒くなるが、鬼さんから顔が見えないのを良い事に思い切り歯を食いしばってなんとか堪える。
「わたしあまり、マッサージ上手じゃないかもしれないですけれど、それでも良いですか?」
「お前が摩ってくれるなら良いカナ」
鬼さんに促されるまま籠を出て部屋を後にする。
寄り添うように廊下を歩いていく間、無性にまた情けなくなって泣きそうになるが、その度に首の紐を触って『今は鬼の雀でしょ?』と言い聞かせた。
自分が一人になればまた人間に戻れる。
その為にも『鬼の雀』にならなければいけない。だから、我慢しないと。
鬼さんは自分の部屋に着くなり上半身を剥き出しにして、布団の上でうつ伏せに寝そべった。
いきなり着物を脱ぎ始めて焦ったけど、直に摩って欲しいだけなようでホッとした。
鬼さんの傍らに座って大きな背中をぐっと両手で押す。
「気持ち良いですか?」
「も少し強くても良いカナ」
これでもかなり強めに押してるんだけれど、大丈夫かな。
意外と鬼さんの体は硬い筋肉質な見た目と違って柔らかくて、弾力がある。グイグイ必死に押すけれど、あまり効果が無いように感じる。
本当に効いているのかしら。
「鬼さんの背中半分も模様があるんですね」
「俺の半身全て刻まれているカナ」
鬼さんの横顔には常に変化する朱の模様が浮かんでいて、それが首筋から背中へと刻まれている。
足の方にも目を向ければ、片足のくるぶしにも同じ模様が刻まれていた。
確かこの模様って、赤鬼を食べた時に呪いを打ち消す為に鬼さんが自分で刻んだものなのよね。鬼さんは呪術に詳しいのかも。
押すのに疲れて背中を摩れば、模様が波打つように歪んで水がうねる様な模様へと変化した。
「あれから川辺の妖怪について何か分かったことありましたか?」
片手で背中を撫でながら鬼さんに訊く。
「銀色の鱗を見たという奴が他にも何人かいたそうダナ。あと水掻きらしきものも見たそうダ」
「水掻き?」
「河童の類かと思ったんだガ、どうやらソイツには一本角が生えているようダ」
「一本角? 角が生えているんですか?」
銀色の鱗があって、角が一本の水掻きがついた妖怪。全然想像がつかない。
角だけで言うなら麒麟かとも思ったけど、あれはどちらかと言えば動物っぽくて魚じゃないし、水掻きなんて無い。
「河童に角なんぞ生えない。俺が知らないだけかもしれンが、新種の妖かも知れンな」
「やっぱり騒ぎが起こっていることは現世なんですよね? 証言している妖怪もあっちに住んでいる妖怪なんですか?」
「あぁそうだナ。常闇に逃げてきた奴から聞いたものあるガナ」
「それならわたしも一緒に、現世に聞き込みに行ってはいけませんか?」
勇んで言ってみるが、重い沈黙が返ってくる。
いつまで経っても黙っている様子に、それだけで鬼さんが怒っているんだと直感した。
「えーっと、以前のように夜で構いません。鬼さんも一緒ならきっと大丈夫でしょうし、やっぱり現世の妖怪に話を訊きたいんです。わたしが言いだした事なんだから、やっぱりわたしが一番動かないといけないと思うんです」
鬼さんと一緒、という部分については「一人じゃ何も出来ない」と言った紫さんの御小言が、また頭を過るが無理やり無視する。
だってどうせ一人でなんて行かせてくれないし、行きたくたって却下されるのは目に見えている。
「駄賃はマダ溜まったままダゾ?」
不機嫌極まりない声が鬼さんの頭の後ろから聞こえてくる。
わたしは困って色々考えるが何も浮かばず、眉を下げた。
「何を払ったら、またはどうしたら良いですか?」
「そんなもン自分で考えナ」
間髪いれず冷たく言い放されてわたしはそれ以上何も話せなくなり、ひたすら黙って鬼さんの背中を押したり撫でたりを繰り返した。
当たり前だけどやっぱりまだ鬼さんの気は緩くなってはくれない。当然と言えば当然だわ。さっき懐柔作戦を始めたばかりなんだから。
これからは鬼さんの機嫌を小さな事でも良いから積み重ねていって、鬼さんが渋々ながらでも現世に連れて行ってくれるまで媚を売り続けるしかない。
「鈴音」
「は、はい!」
いきなり呼ばれて上擦った声が飛び出る。
鬼さんはごろりと寝がえりを打って頭を腕で支えながらわたしへ顔を向けると、渋い表情を作った。
「俺がやった簪や宝飾類はどうしタ?」
「あれは全部鬼さんがくれた桐箱に大事に閉まっていますよ」
「身に付けなければ意味が無いダロウ」
「あぁまぁ……そ、そうです、よね」
本音を言えば、あんな大柄な宝石やらジャラジャラ飾りのついた簪をつけてたら重くて肩が凝って辛いのだ。ピアスみたいなのもあったけれど、わたし耳に穴は開けていないし、腕輪は大振りですぐ外れてしまうから邪魔になる。
なにより鬼さんから貰ったというだけでケチがついた気になって、どうしても嬉々として身につけられないのが一番ではあるけれど。
「俺が送ってやった物が気に入らないようダナ」
「そ、そんなことないです! 傷つけたり汚したりするのが嫌で、大事に閉まっているだけです!」
驚いた。まるで心の内を読まれたような気がして、わたしは必死に否定した。
「宝の持ち腐れってヤツは好かンな」
「す、すいません……」
あぁやっぱり。鬼さんともっと仲良くならなければ駄目だ。
もう一度首輪に手をやって息を吐く。鬼さんが気に入る雀にならなければ、この先ずっと息が詰まったままだ。
紫さんの提案は名案ではないけれど、死活問題となれば当分それで凌ぐしかない。鬼さんの機嫌が取れれば鬼さんも紫さんも態度は軟化するだろうし、鬼さんだって今に比べれば話をしてくれるようにはなるだろう。
もちろんそれに伴うリスクも考えなければいけないのだけれども。
また少しキリリと痛んだ胃に眉を寄せて、わたしは首の紐をぎゅっと握った。